♯27 「目を覚ましていなさい」という勧めを聞き、みんなで頭を抱えてしまった/ルカによる福音書第12章35-48節【京都大学聖書研究会の記録27】
【2024年5月21日開催】
今回はルカ福音書12:35-48を読みました。いわゆる「再臨」を迎えるにあたっての心構えについて語られた箇所です。
今回は、新しいメンバーも含め、多くの参加者があったのですが、テーマが「再臨」だったせいか、あるいはテキストが細切れ的な構成になっていたせいか、話題があちらこちらに飛び、何だか収束困難という事態になってしまいました。テキストから再臨という問題を突きつけられ、みんなで頭を抱えてしまったといった感じです。今回初めて参加された方も含め、最近参加された方には、何だか申し訳ないような結果でした。何といっても、素人集団ですので、こうしたことはよく起こります。今回の報告は、この収束困難事態の発生に目を凝らしながら、書いてみたいと思います。
ルカ福音書12:35-48に書いてあること
今回の箇所は、すべてイエスが語るたとえ話となっています。ほぼ同じテーマの話が繰り返し語られている印象です。テキストの構成から次の4つの部分に分けて読み進めました。(聖研時には、3つに分けましたが、わかりやすさを考え、4つにしました。ご了解ください。)
①「目を覚ましている僕」(35-38節):一家の主人が婚宴から帰ってくる。僕は家で待っている。主人が真夜中あるいは明け方に帰って来ても、そのときに目を覚ましている僕は幸いだ。(この部分はルカ独自)
②「盗人のたとえ」(39-40節):人の子は思いがけない時にやってくる。盗人と同じだ。だから抜かりなく準備せよ。(この部分はマタイ24:43-44と重なる)
③「忠実な僕/不実な僕」(41-46節):食べ物を分配することを指示された管理人。突然主人が帰ってきたときに、指示どおりのことをしている管理人は幸い。これに対し、主人の帰りは遅いと高をくくり、乱暴したり酔っぱらったりした管理人は、思いがけない日に帰ってきた主人に処罰される。(この部分は、ほぼマタイ24:45-51と同じ)
④「多く与えられた者は多く求められる」(47-48節):主人が何を考えているか知りながらも準備しない僕は、そうでない(主人の思いを知らない)僕よりも大きな罰を加えられる。(この部分はルカ独自)
主題は何か
①~④の内容を上のようにまとめてみればすぐわかるように、今回の箇所は、「主人が突然帰ってくること」と「僕が準備をして主人を迎えること」を共通のテーマとしています。基本構図は①~④において不変です。そしていうまでもなく、「主人が突然帰ってくること」は、人の子つまりイエスの再臨を意味しており、「僕が準備をして主人を迎えること」は、イエスの再臨を迎える人間の側の態度について語っていることになります。
再臨とは、十字架刑で殺され、復活、昇天したイエスが、再び地上に帰ってくることを言います。そして最後の審きが行われる。使徒たち(初代のイエスの弟子たち)は、再臨が起きること、「主の日」が来ることを、熱狂的に待望していました。再臨については福音書でもたびたび語られています。しかし使徒たちが「主の日は近い」と言っていたその「主の日」(つまり再臨)は、彼らが生きている間には到来しなかった。爾来2000年近く同じ状況が続いているわけです。
ともかく、今回の箇所の主題は、再臨であり、再臨の際の心構えである。これははっきりしているように思います。そして心構えとして推奨されているのは、①に出てくる僕に即して言えば、「目を覚ましていること」だろうと思います。「目を覚ましていなさい」。私たちはこのように言われているわけです。
再臨という主題
ところで、最初に書きましたように、今回の聖研では、議論百出というふうにはならなかった。あちこちに議論が拡散し、まとまったイメージを共有するところまではいかなかった。ルカ福音書12:35-48が何をテーマとしているかは、すぐに了解できます。上に書いたとおりです。主題については誤解の余地がほとんどない。「目を覚ましていなさい」と言われていることもよくわかる。問題は、主題そのものというより、その先です。その先に言葉が伸びていかない。突っ込んだ理解や誤解が出てこない。そういう問題です。通り一遍の把握から先に行けない。これが今回の箇所が、私たちに突きつけている問題であるように思いました。
なぜ通り一遍の解釈をなぞることしかできないのか。なぜそこから先に行けないのか。それはおそらく「再臨」というテーマが、私たち一人一人にとって、リアルなテーマになっていないからではないか。再臨がそれぞれに血肉化された問題になっていたら、その実感に沿って、話が自由に飛び交うはずです。それがないということは、再臨が、私たち一人一人にとって縁遠いテーマになっているからではないかと思います。私自身にとっても、再臨をパウロのようにあるいは(近代日本でいえば)内村鑑三のように語ることは難しい。
パウロは、その初期の書簡で、次のように語っています。このことについて聖研でも少しふれました。「盗人が夜やってくるように。主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に生みの苦しみがやってくるのと同じで、決してそれから逃れられません」(テサロニケの信徒への手紙一5:2-3、新共同訳、以下同)。パウロの口調には、否定しがたい迫力があります。パウロは「主の日」が近々やってくると信じて疑わない。これは彼の全身を貫く確信です。
切迫感のなさ
パウロに再臨への切迫感があり、(たとえば)私にはそれがない。両者のちがいは、主キリストをめぐる経験のちがいなのではないか。そんなことを思います。以下説明します。
再臨が切迫感をもって迫ってくるのは、いうまでもなく、その人がイエス・キリストとのつながりをこの上なく強く確信しているからです。パウロは(使徒言行録9章の記述に従えば)ダマスコに行く途中でキリストに出会い、天地がひっくり返る経験をした。全く別人になってしまった。それがパウロの宣教活動を支える経験です。彼にとって、キリストとのつながりは、すでに既定のこと(すでに終わったこと)になっているわけです。そのような人にとって、キリストの再臨が最大の関心事になるのは、見やすい道理です。キリストと深くつながる自分が、キリスト再び来る時にどう見(まみ)えたらよいか。うまく会うことができるだろうか。そうしたことが、その人にとっての最大の関心事になる。
他方、再臨に切迫感を覚えない側の方はどうか。いま現在、再臨をパウロのように熱心に飽くことなく語り続ける人が傍にいたら、私などは(正直に言うと)引いてしまう。こりゃ、かなわん、と思ってしまう。再臨問題は大問題だ、再臨を信じない人は不信の徒だ、という言説を聞かされても、まったくこちらに届かない。どこまで行ってもどこか他人事で、私自身のどこを叩いてもパウロの熱気は出てこない。世の終わり(「主の日」)が近いことを訴える言葉がうつろに響くだけだ。いったい何が足りないのか。
切迫感のなさはどこから来るか
再臨の切迫感の前提は、キリストとのつながりでした。キリストとのつながりは既定の事項であり、そうであるがゆえに、次回会う時(再臨の時)のことが気になるのでした。それに対し、切迫感のない側にとっての最大の関心事は、キリストとのつながりそのものです。パウロにとって前提にすぎないものが、自分にとってリアルなのかどうかこそが気になる。キリストは何者か、キリストは今日の私にどう働いているか、キリストの愛はいまあなたを動かしているか。それが日々の問題です。何もたしかなことはない。キリストとのつながりが既定のことなどとはとても言えない。日々キリストが共にいてくれることを祈り、願いつつ生きている。毎日が新しく、その度ごとに新鮮。これがその人にとって日々起きていることであり、同時に起きてほしいと願っていることでもあります。
パウロにとって、キリストがおのれのうちで働くことの確信は動かしがたい(「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」ガラテヤの信徒への手紙 2:20)。その前提に立って再臨の希望、再臨の切迫感が語られる。これに対して、切迫感のない者は、その前提になっている内容をこそ祈り、願う者にほかなりません。日々新たにキリストに出会うことを祈り願いつつ生きる。そうした者にとっては、日々新たにキリストに出会い、生きることこそが大問題であり、大課題であるので、それを既定のこと(すでに終わったこと)とするパウロ的な境地にはなかなか立ちにくい。まだパウロ的な場所に行っていないわけです。その思いを雑な言葉で語れば、次のようになります。<再臨は大問題なのでしょうが、いまこちらはそれどころじゃない。主イエスと出会うことそのものが大問題。だから真面目に聖書を読んでいる>。再臨への切迫感のなさの背景にある事情は、以上のようなことだと考えます。このようなかたちでその人なりに再臨の準備をしているのかもしれません。パウロ的な意味での「前提」を確保しようとしているのですから。
切迫感がないというと、何だかひどく不熱心な態度のように聞こえますが、キリストとの出会いを切実に求めるという意味で、その内実は結構真面目で熱心なのではないか。これが言いたかったことです。この切迫感のなさから見ると、日々の生活におけるキリストとの出会いへの関心を欠いた(ように見える)「切迫感」には少々辟易するところがあったりします。先に述べたとおりです。
奇妙な宴会
今回は、再臨の切迫感を欠いた者が「再臨」について読んだわけで、ミスマッチもいいところです。聖研での収束困難事態もそこに起因するわけです。で、何も得るものがなかったか。聖研での話し合いに耳を澄ませると、必ずしもそうではなかったように思います。そのことについて書きます。
①のたとえ話の中に、ひとつ奇妙な内容が含まれています。①で語られているのは、一家の主人が婚宴から帰ってくる、という設定の話でした。僕は家で待っていて、主人が家に帰ってきたときに、目を覚ましている僕が褒められる。真夜中あるいは明け方に主人が帰ったときに、目を覚ましている僕は最高!と言われる。となると、僕は寝る暇がないわけで、とても大変そう。それはともかく、ここで「奇妙」というのは、帰ってきた主人のふるまいの方です。婚宴から帰ってきた主人は、あろうことか、待っていた僕たちを食事の席に着かせ、給仕をするというのです。僕たちを食事の席に招くということも、主人が給仕するということも異例中の異例です。しかも今は主人の帰りを夜中まで待つというコンテクスト。この状況下でなぜ突然主人が給仕する宴会が催されたりするのか。
③では、指示どおりのことをした管理人に対し、「全財産を管理させる」という褒美が与えられます。それと同じで、主人が帰ってきたときに「目を覚ましていた」僕は、仕事をきちんと果たしたという意味で、報酬が与えられる。それが主人が給仕役になる宴席だった。こうした理解もできます。しかしこの理解だと、なぜ「主人が給仕役をする宴会」が報酬として選ばれるのか。それがよくわからない。たしかにふだんは上にいる人(主人)が、この食事の席で自分に仕えてくれれば、満足感は大きいだろうし、豪勢な食事もうれしいかもしれない。しかし、なぜ、お金を与える、権限を与える(「全財産を管理させる」といったような)、といったふつうの意味での報酬ではなく、そういうかたちの報酬なのか。それがわからない。
主人が給仕をする
ある程度までは報酬ということで考えを進めることができるのですが、結局、「主人が給仕役をする宴会」のところで頓挫します。この宴会そのものの意味がわからないと先に進めないようです。
たとえ話中の主人は、婚宴から帰ってきたのでした。婚宴は何よりもまず喜びの席です。一家の主人が開く食事の席は、この婚宴の喜びの延長にある。そう考えるのが自然でしょう。婚宴の喜びは自分の中に留めておくにはあまりに大きい。主人は、いただいた喜びを抑えきれずに宴会を催すわけです。聖研の話し合いでも、主人のこの喜びをめぐる発言が何回かありました。私自身も、この「喜び」にフォーカスした理解がぴたりときます。ここまではいわばふつうのことですし、理解も容易です。問題はその先です。(たびたびの繰り返し、恐縮です)主人が開催した宴会が、どういうわけか、主人その人を給仕とする宴会だった。
「主人が給仕する宴会」という意味の言葉を何回も繰り返しているうちに、キーワードは「給仕」ではないかという気がしてきました。給仕するとは何か。給仕するとは、食事の席に着いている人の必要をすばやく満たしていくということだろうと思います。飲み干したワインはいつの間にかまた満たされている。こぼしたり、汚したりといった粗相があれば給仕は即座に動いてくれ、何事もなかったかのようにきれいにしてくれる。よい給仕とは、そのように食事中の人の必要を即座に満たし、しかも自らはいかなる意味でも目立たない人のことを言います。その意味で最良の給仕は、客の必要を即座に満たし、しかもその存在の影さえも気づかれない、ほとんど存在を消した人のことかもしれません。ともかくそのように給仕されることによって、食事の席に着いた人は、大いに食事を楽しむわけです。
奇妙な宴会の意味
このたとえにおける主人を人の子、つまりイエスと考えるとすると、主人が出席してきた婚宴は、何かしら天的なもの、天国で起きたものと考えて差し支えないと思います。それが誰を主賓とするどのような内容のものかはよくわからない。しかしどのような内容のものであれ、それが大きな喜びに満ちていたことはまちがいない。主人はその婚宴の喜びの香気をそのまま家に運んできたわけです。
そこで給仕することを提案するわけですが、この給仕という働きにイエスその人の姿を見出すことは容易です。イエスは「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と語りましたし(ルカ22:27)、「人の子は仕えるために来た」とも語りました(マルコ10:45)。イエスはこれらの言葉をとおして、神の働きが人の目に見えないかたちで進行していく側面を明らかにしているのだと思います。人には神の働きが見えない。わからない。あるいは見ようとしていない。けれども、その人はまったく気がつかないけれども、神は日々あなたの必要を満たし、困ったことから守っている。僕が主人の給仕によって食事を楽しんでいるように。
あなたの日々の喜びには、神の隠れたサービスが生きている。「わたしは給仕する者」「仕えるために来た」というイエスの言葉には、このような隠れた神の働きへの言及が含まれているような気がしてなりません。むろん「給仕する」とか「仕える」とかの言葉には、自らを下に置くというニュアンスが含まれます。弟子たちの順位争いという文脈でこれらの言葉が発せられると、殊更「自らを下に置く」という意味合いが浮かび上がります。そのことは否定しませんが、「給仕」には隠れた働きの意味があること、そしてそれが食事の喜びの源泉であることには無視できない意味があるように思います。
主人が給仕をするというのは、たしかに奇妙な宴会です。しかし上に述べたことから了解されるように、その奇妙な宴会は、私たちが神の働きを経験する現実の再演にほかなりません。神はこのようにして私たちの日々の喜びを支えてくれる。奇妙な宴会に参加する人は、参加をとおしてそのことを実感するにちがいない。再臨に対する切迫感を欠いた者にとって、肝心なことは、キリストとの日々の出会いなのでした。それこそがその人固有の再臨への準備とさえいえるかもしれない。先に述べたとおりです。そういう人にとって、奇妙な宴会に参加する者の経験は、到底他人事とはいえない重みをもつように思います。