♯26 サウルの死をみんなで考えてみた/サムエル記上第31章【京都大学聖書研究会の記録26】
【2024年5月14日開催】
5月14日はサムエル記上第31章を読みました。サムエル記上の最終章で、王サウルの最期が描かれたところです。イスラエルがペリシテ軍に追いつめられるという状況下で、王サウルがいよいよ最期を迎えます。この章には、①サウルと3人の息子の死(1-7節)、②ペリシテ軍がサウルを斬首し、遺体を城壁にさらす(8-10節)、③サウルに恩義のあるヤベシュの人々がサウルの遺体を引き取り、葬る(11-13節)という3つのエピソードが記されています。
今回の報告
①②で描かれるサウルの死がとても印象的です。彼の死およびその死体の取り扱いが無残で、読む者の脳裏に焼き付けられます。さらし首のようなかたちで城壁に遺体がさらされたというのですから。聖研の話し合いでも、そのことが大いに話題になりました。サウルはヤハウェの忠実な僕ではなかったし、預言者サムエルからは見放されてしまうような人でしたが、何といってもイスラエルの王です。この無残な死はないのではないか。そのような意見が出、その後議論が百出しました。一つの死の把握をとおして聖書の理解が深まっていく感を覚え、大変興味深いことでした。今回はそのあたりのことを中心に報告します。
サウルの最期
まずサウルの死のありさまを確認します。サウルは敵に次第に追いつめられ、自分の身辺警護をしていたであろう息子たちも次々に死ぬ。自身も矢で深手を負い、ほとんど自害のようなかたちで死んでいきます。
「無割礼の者〔敵であるペリシテ人〕に殺されたくないから、お前の剣で俺を刺せ」。瀕死の重傷を負ったサウルは従卒にそう命じる。しかし従卒に王を殺す度胸はない。そこでサウルは自分の剣の上に倒れ込んで死んでしまう。従卒も後を追う。サウルの死後にその場にやって来たペリシテ軍は、サウルの武具を奪い、異教の神アシュトレトの神殿に納め、遺体をベト・シャンの城壁にさらした、という。この章の末尾に、城壁にさらされたサウルの遺体を下ろして埋葬したという話が出てきますから、「城壁にさらした」というのは、さらし首のように首だけさらしたわけではなく、遺体と首をともにさらしものにしたようです。王であるサウルにとっては、これ以上ないほどの屈辱です。
淡々とした記述
描かれるのは、サウルの悲惨な最期ですが、記述そのものは実に淡々としたものです。劇的なこと、たとえば突然の救出劇などが出てくる雰囲気は少しもない。戦争に敗けるとこうなるだろうな、と思われることが、事実に即して書いてあるという感じです。
最側近の息子たちもこの戦闘で命を落とすわけですが、その死の記述もまことに淡白です。「〔ペリシテ軍が〕サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを討った」と書いてあるだけです。淡々と事実だけ書いてある。ヨナタンというサウルの息子は、ダビデとの友情物語の一方の主人公です。ヨナタンは「自分自身のようにダビデを愛し」(18:1)、ダビデと契約を結んだ人として描かれています。父サウルの目を欺いてダビデの逃亡劇に一役買ったりします。ダビデの側からいえば、ヨナタンは唯一無二の特別な人なわけです。その特別な人ヨナタンにしては、死の描き方がずいぶんあっさりしているなという印象です。
サウルの死をどう受けとめるか
このようにしてサウルと3人の息子は死んでいくわけですが、以下では主として詳細に記録されたサウルの死を見ていきます。
サウルの死の受けとめ方は、大きく分けて3つあるのではないかと思います。聖研での話し合いも、およそこの3つが出たり入ったりしながら、ああだこうだのやりとりでした。もちろんお菓子を食べながらの緩い話し合いですので、そんなに厳密なものではありませんが。
その3つとは、まず第一に、❶サムエルによって油注がれた王として、この死はあまりに無残ではないか、これでは救いがないではないか、というものです。次いで❷サウルはたしかに王だが、ヤハウェの命令を甘く見たり、ダビデに激しく嫉妬してダビデの命をつけ狙ったりして碌なことをしていない、だからこの悲惨な死は当然、という見方。最後に、❸サウルって意外と肚が据わっているではないか、というものです。たしかにサウルは、予想に反してというべきか、自らの死に際してあまりオタオタしているふうには見えない。
❶❷はサウルの死の「意味」に注目した受けとめ方、❸は、「意味」というよりは、サウルの「死に方」を問題にしている受けとめです。
無残な死と神の沈黙
❶~❸のそれぞれについて少し捕捉します。
まず❶から。❶の前提は、サウルが古代イスラエル初代の王であるということです。サウルがどんな王であれ、サムエルによって油注がれた王、ヤハウェの祝福を受けた王であることにちがいはない。腐っても鯛です。その前提に立つからこそ、最期のありさまが気になってくる。ヤハウェの祝福を受けた王にしては、最後があまりに寂しいではないか。厳しいではないか。神は最後の最後まで一切介入してこない。救出劇など起こらない。これではあんまりではないか。
サウルはたしかに神ヤハウェに忠実な人生を歩んだわけではない。紆余曲折いろいろあった。しかしヤハウェを捨て偶像に走った人ではない。ヤハウェがおのれの神であることは、初めから終わりまで揺らいでいない、最後の発言(「あの無割礼の者どもに襲われて刺殺され、なぶりものにされたくない」)にもその姿勢が見て取れる。そのことを考えると、ここまで無残な死を被らされる理由が見当たらない。
このように考えてくると、問題はサウルではなく、ヤハウェの方にこそある、ということになります。サウルの屈辱的な死をヤハウェは放置した。敵のなすがままであった。そのことこそが問題ではないか。なぜヤハウェは沈黙するのか。❶の見方からは、こうした神義論ふうの問いが浮上してきます。
罰としての死
❷に移ります。❷の受けとめは、サウルはたしかに王だが、碌なことをしていない。だからこの無残な死は当然、というものです。たしかにサウルは模範的な王ではない。最初のころこそヤベシュの町をアンモン人の手から救ったりして大活躍をしますが(11:1-11、ついでに言っておくと、このヤベシュの人たちがサウルの遺体を引き取り、埋葬したのでした)、サムエルの到着が遅いと言って勝手に(祭司でもないのに)儀礼を執行したり(13:8-10)、聖絶の命令(「滅ぼし尽くせ」の命令)に背いて、敵王を生き延びさせ、上等な戦利品をわがものにする(15章)など、ヤハウェに立てられた王の割には「軽さ」が目立ちます。サムエルはこの軽さに愛想が尽き、聖絶の命令を破ったあたりから死ぬまでサウルに会おうとしなかった。加えてサウルは、若くて有能な次期王候補ダビデを激しく嫉妬します。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った」といった戯れ歌のことが気になって仕方がない。「お前たちは俺よりもダビデの方がそんなにいいか」というわけです。嫉妬のゆえにダビデの命を狙って追いかけまわし、ダビデはとうとう敵国に庇護を求めて逃亡してしまうという有様です。
という次第で、この見方に立つと、サウルの無残な死は当然、ということになります。ここでは、❶で問題になった、神の沈黙や神の不介入の問題は、浮上してきません。神は、その不忠実な人生に相応しい罰をサウルに与えている。神はサウルの人生に反応している。つまり神は厳として存在している、ということになるからです。ここでは❶にあったような神義論的な問い、神はこの世の不合理になぜ沈黙するのか、といった類の問いは姿を現しません。
サウルの人生を知る者には、この受けとめ方は理にかなったもののように見えます。サウルの人生はたしかに罰に相応しい。ただサムエル記上31章の書きぶりが、必ずしも制裁を与えるふうではないことが気になります。さらし首にされてざまみろ、いい気味だ、的な書き方にはなっていない。先にもふれましたように、書きぶりはむしろ淡々としていて、事実を時系列に沿って並べているだけ。そんな印象です。「懲罰」という「意味」に生地を染め上げ、その生地の上に事実を並べていく、といった体でない。何色にも染めずにただ単に事実を並べるといった感じなのです。
つまり旧約聖書の書き手は、サウルの死を罰として把握することにあまり関心がない。そのように感じられます。
情緒不安定なサウル
❸に行きます。サウルの死にざまが、予想外に落ち着いている。これが❸の受けとめです。「予想外」という以上、あらかじめ予想があったわけで、それはサウルらしく、泣き喚くのではないかという予想です。
その予想にはむろん根拠があります。
サウルという人物には情緒不安定という印象がつきまといます。ひどく悪霊に悩まされ、ダビデの奏でる竪琴に心の安らぎを見出したりする人でした。「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」(16:23)と書いてあるとおりです。ダビデからの和解の提案をその場の感情に動かされて受け入れたことが、一度ならず二度までもありました(24章、26章)。ダビデが呼びかけてくる声を聞くと、「わが子ダビデよ」と言って、号泣します(24:17-18)。別の機会には、和解を呼びかけるダビデの声に反応し、「わたしが誤っていた」と言い出しさえします(26:21)。いずれもその場の感情に動かされた反応のようで、和解の約束はすぐに反故にされてしまいます。こんな情緒的人間は、死に際して大騒ぎするのではないか。
たしかに情緒不安定なサウルは自身の死を恐れていた。彼は口寄せ(霊媒)の女にサムエルを呼び出してもらったとき、そのサムエルに「明日お前とお前の子らは死ぬ」と言われ、動転し、気を失ってしまった。「サムエルの言葉におびえたから」と書き手は記しています(28:20)。死ぬと聞いて、心底怯えてしまったわけです。情緒不安定なサウルに相応しい反応だったと思います。
肚を括ったサウル
サウルがこうした人間であることを知っている者は、彼が死に際して慌てふためくと思っています。これは十分合理的な予想です。ところが意に反してサウルは落ち着き払っています。自分の死に方を従卒に指示したりして、死者サムエルの言葉を聞いて卒倒したサウルとは別人のようです。
この予想外の事態はなぜ起きたか。ひと言でいえば、サウルが変わったからです。サウルは口寄せのところで卒倒してから、戦場での死に至るまでの時間に、肚を括ったのだろうと思います。避けられない死を覚悟した。この戦いは負ける。俺は死ぬ。そう覚悟したということです。サウルの変貌に注目すると、そうとしか考えようがない。
旧約聖書の書き手は、むろんこうした事情をまったく明らかにしません。TVカメラのように淡々と事実をとらえているだけです。裏で何が起きたか、登場人物たちの心中で何が起こったのか。そうしたことには無関心を貫きます。ですから、「サウルは肚を括った」というのもむろんこちらの勝手な推測にほかなりません。旧約聖書の記述が「裏」や「心の中」に無関心なので、かえって読む側の興味がかきたてられるわけです。ともかくサウルの死を伝える箇所を読むと、最後の最後まで人間は変わりうることが知られます。サウルはそのようなかたちで与えられた命を精一杯生きた。そういう感じがします。
❶~❸はすべてOK
以上、❶~❸について述べてきました。❶~❸は相互に独立の受けとめですが、聖書の記述内容に即して考える限り、そのどれもが受けとめ方としてはOK という感じがします。❶~❸のどれかが正解で、他が不正解ということにはなっていない。そのどれもが十分な成立の根拠を有している。どれも傾聴に値する内容を含んでいる。そういう印象です。聖研の話し合いでは、❶が話の端緒となり、その後も❶に関連する話題が多かったように思いますので、以下では❶について追加のコメントをしようと思います。
世の不合理に対する神の沈黙
❶は、王サウルの、王に相応しくない悲惨な最期に注目するものでした。サウルの場合、❷の観点も無視できません。❷の観点をとれば、(繰り返しですが)サウルの死は必ずしも「王に相応しくない悲惨な最期」ということにはならないのでした。ただ先にも書きましたように、31章全体の書きぶりがあまりに淡々としていて、懲罰を加えるというニュアンスが弱い。 「ざまみろ、いい気味だ、的な書き方 」になっていない。むしろサウルや息子たちに対して無関心というか冷淡なスタンスが際立ちます。❶はこの神の無関心をこそ問題にしたのでした。
かつて油注がれた人、王サウルは無残に死んでいった。神はそのサウルに無関心を貫いた。それが❶の問題関心ですが、そのテーマは、一般化すると、世の不合理に対する神の沈黙ということになります。善人が必ずしも恵まれた人生を生きるわけではない。善人が苦労し、悪人がのうのうと生きる。むしろそれが世の常ではないか。この世には少しの規則性もない。その無規則性は、人のやる気をそぐ。生きる気力を奪う。無規則とは、真面目にやってもそれに見合う報酬が与えられないということであるし(善人が苦労し、悪人がのうのうと生きる)、何の理由もなく突如とんでもない災厄が訪れるということでもある(ヨブ的な苦難)。規則性は皆無。把握できない。となると真面目に生きても甲斐はない。やる気がそがれる。生きる気力が出てこない。そして神はこの無規則を放置している。
キリストを思う
サウルの無残な死を見、その観点を維持したまま、目を遠くにやると、いま上に見た深刻な事象が視野に入ってきます。こうした不条理、理不尽な苦難の中を人はどうやって生きるのか。どこから生きる気力を得るのか。そんなことをみなさんと話しながら、私個人はふとキリストのことを思いました。そしてそのことをみなさんにもお伝えしました。
イエスの死はよく了解された死ではなかった。イエスは自分がなぜ死ぬかをよくわかった上で死んだわけではなかった。だからこそゲツセマネでは夜を徹して祈ったし、十字架の上では「わが神、わが神、なぜ見捨てるのか」と祈った。神の子イエスは結局、父なる神に捨てられる死を死んだ。それが父なる神の意思であると信じたからだ。イエスはその意味で最後まで従順だった。神の子であるとは、死の理由がまったくない存在を意味する。そのイエスが父なる神に捨てられる死の道を歩んだ。これは不条理の極致で、人間の経験するいかなる不条理もその先には行けないような不条理だ。逆に言えば、人間がいかなる不条理を経験しても必ずそこにはイエスが先に行っている。キリストがこの世に与えられたということは、あらゆる不条理経験の先に必ずキリスト・イエスがいるということを意味する。そんなことを考えながら、キリストを思ったというわけです。旧約聖書に描かれたサウルの死を読みながら、一見何の関係もなく見えるキリストの死を思い出す。これも聖書を読む醍醐味の一つと思った次第です。
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