見出し画像

♯45 解くことをめぐって/2024年度クリスマス講演会【京都大学聖書研究会の記録45】

【2024年12月17日に開催したクリスマス講演会の講演内容を以下に掲載します。】

本日の演題は「解くことをめぐって」です。何の話か?クリスマスと何の関係があるのか?と感じられた方もいると思います。それは至極当然の反応です。ですので、まずなぜこの演題なのかについて簡単に説明します。 

これまでの方針

毎年クリスマスの時期にこの講演会を開催するのですが、これまではあまりクリスマスを意識せずに、その折々に私がこれはと思った聖書箇所を取り上げ、話をするというかたちをとってきました。今回は少し方針を変え、クリスマスを意識してお話しようと思いました。 

なぜか。このところ、毎週聖研の報告を書いてきていることが関係しています。以下説明します。 

このようなかたちで自身の言葉を発するということがなかった時(この聖研では長いことそうしてきました)、私の中に発すべき言葉が溜まってくる。クリスマス時期の講演会で、その内側からの圧力を全面開放する。そんな感じでお話をしてきました。 

ふだんの聖研では自分自身について語ることはあまりない。みなさんもそうですし、私自身に関してもそうです。みなさんの場合はそれでよいとして、主宰者がそれでよいのか。〔当時は〕そんな気持ちがいつもしていました。お前個人の信仰を直接に語る機会があってもよいのではないか。という次第でその時々に私自身が触発された聖書箇所についてお話をしてきたわけです。時期はクリスマスでしたが、そのことに話の動機は与えられていない。そういう条件の下で話してきました。ですので、話がクリスマスを主題にしないものとなった。 

今回の方針


ところが聖研の報告を書くようになって、自己表現の機会は与えられることになりました。報告をお読みくださっている方はよくご存じですが、あの報告は、聖研における話し合いの忠実な再現にはまったくなっていない。議事録風のものではまったくありません。聖研時のみなさんの発言にヒントを与えられながら、あるいは教えられながら、結局のところ、私自身が当該聖書箇所をどのように読んだかを記しています。聖研の話し合いそのものは、結論が見えないまま終了してしまうことも多々あり(前回12月10日もそうでした。そしてそれがまた面白い。この回については、「♯44絶好調のダビデはほんとうに絶好調か/サムエル記下第8章」を参照)、それをそのまま議事録風にまとめても意味はない。むしろそれらの話し合いを受けて、主宰者がどう読んだかを記した方が、報告の価値がある。そのように判断して今のようなかたちになっています。 

ともかくそのようにして毎週報告を書くようになると、講演会で「私自身の信仰を語る」ことについて、自分自身の内部からの圧力は、以前ほど強くなくなってきます。以前とはちがい、毎週それをしているのですから。むろん今でもそういう方式でお話をすることも可能ですが、そうなると、ふだんの報告とこの講演会の区別があまりなくなる。せっかくのクリスマスにいつものスタンスで話をする、ということになってしまう。 

前置きが長くなりました。いま述べたような次第で、これからはこの講演会ではクリスマス(降誕)に関係する話をして行けたらよいなと思い始めています。今回もその方針です。 

ここからが本題

私たちは聖研で今ルカ福音書を読んでいるわけですが、そのルカ福音書のクリスマスの記事を見てみます。羊飼いが野宿をしているところに天使が現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた、と書かれています(2:8-10)。天使が去った後、羊飼いたちがイエスの誕生の現場に行ってみようと、出かける。そして飼い葉桶の中のイエスに出会う。そこから物語が始まっています。キリストの誕生は何よりもまず「民全体に与えられる大きな喜び」なのでした。クリスマスはこの喜びをみんなと分かち持つときと言ってもよいと思います。 

今日はこの喜びの中身について考えてみようと思います。こういうふうに言うと、すぐ反論がありそうです。天使は「救い主が生まれた、だから喜び」と言っている。救い主が生まれたから喜び。答えはもう出ている。何をいまさら。そんな反論です。ですが、ここでは、もう少ししつこく考えたい。救い主=キリストの誕生はなぜ喜びなのか。それはいったいどういう喜びなのか。そうした問いを設定してみたい。せっかくですので、今年初めからご一緒に読んできた、ルカ福音書の中からこのことに関係しそうなテキストを探してみたい。 

本日の主題

この課題にふさわしい箇所はないか。キリストがこの世にやって来たことについての喜びをよく示している箇所です。今年はルカ11:37から始めていま現在14章の終わりまで来ています。その範囲をもう一度読み返してみました。すると「十八年間腰の曲がった女」をいやした記事(13:10-17)が目に入りました。イエスが安息日に会堂で「十八年間も病の霊に取りつかれている女」に出会い、その女を癒すという話です。この箇所の主題は安息日問題ですが、それについてはすでに述べましたので(「♯34 「愛のわざをするなら平日に」と会堂長は言った/ルカによる福音書第13章10-17節」)、ここでは措いておきます。今回は、イエスの話の中に出てきた「解く」という言葉に引きつけられました。 

(ルカによる福音書13:16)この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたの だ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。 

「解く」とは、むろん、これまでその人を縛ってきたもの、束縛してきたものからその人を解放するという意味です。この人は縛られていた。この縛りのためにこの人はつねに緊張を強いられ、ときに絶望に陥った。ままならぬ人生。自らを縛るものとの格闘がこの人の人生だった。イエスがしたことは、その束縛を解くということです。結果は自由、解放。肩の荷が下りるという感じです。いままでとはまったくちがう人生が目の前に広がる。 

「解く」という言葉の意味をこのように考えると、イエスの地上でなしたことは、「解く」という言葉で括れるのではないか。そんな気さえしてきます。これが今回この言葉に引きつけられた理由です。この言葉を手がかりにキリスト到来の喜びを考えてみる。これが本日の主題です。 

身体・精神の束縛と社会的な束縛

いま見た身体的な病の癒しが、「解く」の典型でしょうが、「解く」という言葉は使われていないけれども、「解く」と言って差し支えない事例がほかにもあります。たとえば悪霊とか汚れた霊に取りつかれた人をいやすケース。霊の縛りを解くわけです。ご承知のように、福音書はしばしばこの種の事件を書き記します。私たちがこれまで読んできたところでも、「悪霊に取りつかれた子をいやす」(9:37-43)や「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」(8:26-39)、それに「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」(4:31-37)というエピソードがありました。 

これらは身体や精神の束縛ですが、それらと区別されて、社会的な束縛というものもあります。当時のユダヤ共同体は宗教共同体でもありましたから、社会的な束縛とはすなわち宗教的な束縛でもありました。この縛りが当人の存在全体を規定する。これもよく知られているように、イエスはこの意味での束縛を解くことにも熱心でした。 

社会的=宗教的な束縛と言われてすぐにピンとくるのは、律法の規定を守らず生きているがゆえに「罪人(つみびと)」と定義されていた人たち、あるいは同胞倫理を無視してローマの手先になって税金を徴収する人たち(徴税人)、さらには重い皮膚病のような「穢れた」病にかかった人たちのことです。この人たちは、社会的=宗教的な束縛のもとに身を置いていて、世間の冷たい視線を受けつつ生きていた。世間から排除されて生きていたと言ってもよいかもしれません。 

社会的な束縛を解く


罪人を招くために来たと語るイエスは、こうした彼らに強い関心を抱きます。罪人や徴税人と一緒に食事をするといったスキャンダラスなことをしても、まったく平然としていました(ルカ5:27-32)。イエスに香油を塗った「罪深い女」に対しては、「あなたの罪は赦された」と語りました(ルカ7:36-50)。また穢れ=重い皮膚病の人に近づき、ふれ、癒した、と記録されています(ルカ5:12-36)。世間でまったく排除されているこうした人々との交流もまた、「解く」ことだったのではないかと思います。 

「罪は赦された」と宣言された女や、重い皮膚病という「穢れ」を実際に癒された人は、これまで自分を縛っていた束縛からの解放を経験した。イエスによって縛りが解かれた。このことはほぼ自明だろうと思います。ここで特に注目したいのは、イエスと一緒に食事の席に着いた人たちです。彼らは罪人と定義され、世間からは十分に差別的な扱いを受けていた。「彼らと一緒の食事?とんでもない。冗談はよしてくれ。どんなことがあってもそれだけは勘弁」。彼らはそんな世界で生きていたと想像されます。この縛りは彼らには圧倒的に重い。どんなときにも彼らにつきまとい、離れない。世間で生きている以上、この縛りから離れることは不可能。そう思って彼らは生きていたと思います。 

ところがイエスはどうもそうではない。一緒に食事をしたいという。世間的な規定にまったくとらわれないかのようだ。ということは、彼らからしてみれば、イエスの前では、自分たちを縛っていたものが解かれているということにほかなりません。イエスは「ともに食事を」と彼らを誘い、実際に彼らと食事をすることをとおして、彼らの束縛を解いているのです。 

むろん食事の席が終わって外に出れば、事態にはいささかの変化もありません。彼らは相変わらず罪人として遇され、世間の差別的な態度にも変化はない。ですが、食事をしているそのときその場では、まちがいなく彼らは自由です。イエスの前では縛りが機能しない。彼らは、これまで経験したことのないほどの身の軽さを感じたにちがいない。 

解くことと安堵

縛りを解くことが縛りの当事者にもたらす精神的な効果を考えます。それは、自由、解放感と言ってもよいでしょうが、核心にあるのは安堵ではないかと思います。ほっとするという経験。緊張が解けるという経験。身体的・精神的な縛りに苦しむ人も、社会的な束縛に悩む人も、日々緊張の中で生きていることはまちがいない。生きることは精神を緊張させることにほかならない。その緊張がイエスの前で緩む。イエスが解くことの効果です。イエスの周りにはこの種の安堵が満ちていたのではないかと思います。イエスの前に行くと、みんな気持ちがゆるむ。この世を生きているときの緊張がなくなる。懸案事項がどうでもよくなる。 

「思い悩むな」という命令と「思い悩まない」現実

このことに関連して、今年読んだテキストの中で、もう一カ所目にとまったところがあります。思い悩むな、とイエスが弟子たちに語っているところです(12:22-34)。 

(ルカによる福音書 12:22-23)それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」 

食べ物のこととか衣服のこととかで思い悩むな、心配するな、とイエスは語っています。これは指示、命令ですが、<指示されている内容そのものが、そのまま現実>という側面もあったのではないか。そんな感じがします。指示、命令は、一般的には「いまだ実現されていないこと」をその内容としています。実現されていないからこそ命令して実現に向かう。あたりまえのことです。ただイエスのここでの発言には、その一般論をはみ出たところがある。そのように思います。もうすでに実現している人を前にして指示、命令を出した。そのように感じられるということです。 

イエスは心配し続けている人々の面前で「そんなに心配しなくてよい」と言ったのではなく、現実に心配から解放されてイエスのそばにいる人たちに向かって、そのとおりだ、これからもそれで行け、と言ったのではないか。このように考える理由を以下に示してみようと思います。 

安堵共同体


身体的・精神的な束縛、あるいは社会的な束縛に苦しむ人たちがいて、彼らはイエスによってその束縛を解かれたのでした。同じように、生活全般に心配を覚える人、そこに束縛されている人もいます。その心配は生存の必要に対応しているので、一面合理的です。ただその必要にあまりに囚われると、二進も三進もいかなくなる。思い悩んで夜も寝られない。ところが、そうした人がイエスの前に来ると、不思議に束縛が解かれてしまう。解かれるとは、この場合、「何とかなる」と思えるということです。どうにかなるという気になる。明日のことは明日が心配してくれる。実際マタイ福音書にはそう書かれています(マタイ6:34)大船に乗った気になると言ってもよい。こうした気分は安堵の別名だろうと思います。 

イエスのそばに続々と人が来ます。ルカによれば、「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」(12:1)とのことです。足の踏み場もないほど人々が集まる。その中にはむろん病や悪霊に悩む人も、被差別の当事者もいたでしょうが、そうした特記事項を持たない人でも、悩みが尽きないのが人間の常です。体のこと、命のことの悩みもそこに含まれます。さまざまな問題を抱えた雑多な人々が次から次へとイエスのもとに押し寄せているわけです。 

こうしたことが起きるのは、イエスの周りに安堵があふれていたからだと思います。イエスのもとにいると、大丈夫、という気になる。安堵する。あれこれの心配から解放される。そういうことが実際にあったのだろうと思います。イエスの周りには安堵共同体とでも呼ぶべきものができていた。だから次から次へと人が集まってくる。これまで述べてきたことから、この想像には無理がないと思えます。 

思い悩むな、心配するなという言葉は、直接には弟子たちに向かって語られたのでした。イエスのもとに安堵共同体ができていたとすると、弟子たちがそれと無縁だとは考えにくい。弟子たちもまたイエスの前で安堵していたのです。ですが、その彼らも、いったんイエスから離れれば、ただの人です。そこには世間の冷たい風しかない。もう安堵するどころではない。イエスはそのような彼らを見越して、世間に出ても、イエスがこの世にいなくなっても、いまのまま、安堵のままで行け。そう言ったのではないかと思います。このように、思い悩むな、心配するなというイエスの言葉は、いまこのときに実現している安堵を根拠にしたときに、十分な説得力を持つ。この論理は、直接に語られた弟子たちだけでなく、安堵共同体のすべての人に妥当するものだと思います。 

先ほど、イエスは心配している人を前にして心配するなと言ったのではなく、心配から解放されている人を前にして、これからもそれで行けと語ったのだ、と述べました。風変わりな主張かもしれませんが、私がそのように考える理由はおよそ以上のとおりです。イエスの周りにはすでに安堵が実現している。このことが決定的だと思います。 

「民全体に与えられる大きな喜び」の現実化

ルカによる福音書13章にある「解く」という言葉を手がかりにして、イエスがこの地上で行ったことについて、考えてきました。いままで述べてきた安堵共同体の話があたっているとすると、こういうかたちで、イエスをとおして「民全体に与えられる大きな喜び」が現実化していたのだと思います。イエスがこの世に生きていることによって、こうした経験が可能になったわけですから、イエスの誕生は「民全体に与えられる大きな喜び」なのでしょう。 

背く人・超越する神・悔いる人

イエス=キリストの到来によって安堵共同体が実現した。このことがキリストがもたらす喜びの本体である。キリストの誕生が「民全体に与えられる大きな喜び」であるのはそのためだ。そのように述べてきました。 

たしかにキリストによって安堵がこの世に来た。しかし安堵はほんとうにキリストに固有のものか。旧約時代には安堵はなかったのか。こうしたことが気になってきます。むろん旧約時代の人も人間である以上、安堵一般と無縁だったとは考えにくい。ほっと一息つくという経験ならどんな人にもある。ただここで問題にしているのは、安堵一般ではなく、神由来の安堵、一種の宗教的経験としての安堵です。神によって「解かれる」ことに伴う安堵です。旧約時代にこの意味での安堵があったか、なかったかが、気になるというわけです。旧約聖書には、神から安堵を与えられる人が出てくるか。 

厳密に検討したわけではないので、断定は避けたいと思いますが、神によって安堵を与えられる人間は、旧約聖書ではあまり見たことがないような気がします。神と出会ってほっとする人間は、出てこない。旧約聖書を読んでいて強く心に残るのは、むしろ背く人・悔いる人の方です。 

以前旧約聖書を読む意味を考えたことがあります(♯36 旧約聖書を読む意味をみんなで考えてみた/サムエル記下第4章)。そこで確認されたのは、人間が徹底してその本質から神に背く者だということを旧約は教えてくれる、ということでした。人間は神に背く者である。これが旧約を貫く人間観ではないかと思います。背く人間は、旧約聖書において圧倒的な存在感をもっている。預言者エレミヤは、捕囚直前の時代の人々について、「彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い/石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う」と語りました(エレミヤ書2:27)。人が神ではなく偶像を愛してしまう様子は、モーセの時代から一貫しています。 

このように人間は背くわけですが、旧約では、その一方で、神の圧倒的な超越性が強調されます。この印象も強烈です。第二イザヤが書き残しているように、ヤハウェは「わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」と語る神なのです(イザヤ55:9)。 

神はその位置から人間(民)を審き、かつ赦します。神のそのアクションに対応して、背く人間は悔いることが求められます。そして実際に背く人は悔いる。サムエル記上下に記されたダビデという人物は、まさにそのような道筋を歩んでいるように見えます。ダビデを作者と設定している詩編で、詩人は「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊/打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)と語り、同時に「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように」(詩編51:9) と願うのです。 

いったん背いた人は、悔いることによって、遠くにいる(つまり超越的な)神(エレミヤ書23:23)との関係を回復するに至る。旧約聖書にはこうしたドラマがそこかしこにあります。旧約聖書に描かれた神と人のドラマを、背きと悔いというキーワード抜きに語ることはできない。背く人・悔いる人は、旧約聖書のドラマの中に構造的に組み込まれている。そのように思います。とすると、そこには安堵する人が入り込む余地がない。神によって安堵を与えられるという経験は、旧約聖書とは縁遠いもののようです。安堵する人が出てこないのも、そのことに起因すると考えられます。 

イエスが来たということ

旧約聖書に安堵する人が登場しないことを確認しました。安堵はキリストの到来とともにやって来た経験らしい。となると、次の問題は、なぜキリストにおいて安堵が生じるのか、ということになります。なぜ人はイエスの傍に来て「解かれている」と感じ、安堵を覚えるのか。
 
ひと言でいえば、イエスは人となった神だからです。キリストは神であり人であるというのが、キリスト教信仰の大前提です。旧約以来の神観念から言えば、大きな矛盾がキリストということになります。この世に来た神。この世でイエスという人間の固有名をもっていた神。旧約人からすればとんでもない、ありえない事態です。しかも神が仮の姿で、腰掛でこの世にいた、というのではないのです。ほんとうはちがうのだけれども、この世にいる間だけ人間の格好をしてみました。本質は霊なので、いつでもこの身体から幽体離脱できます。というのではないのです。ほんものの人間としてこの世に来た。切れば血が出る、まごうかたなき人間としてこの世に来たのです。神が肉体を持ったことを受肉と言ったりしますが、それはこの意味です。ほんもの人間としてこの世に来、そこに住み、そこで人としての人生を送った。
 
受肉した神イエスは生身の身体をもっているので、人間の経験するさまざまな束縛がそれとしてリアルに経験されます。それがいかに人を疲弊させるかを実感として知っているわけです。どんな苦痛もイエスは知っている。だからこそ「解く」のです。またそうであるからこそ、人はイエスと会ってほっとするのだろうと思います。
 
腰の曲がった女に会ったときにもイエスには、この人の苦痛がわかった。だから「解いた」わけです。心配するなと弟子たちに言うときにも、イエスは人の心配を知っています。だからこそ心配するなの言葉に実感がこもる。それを聞いている人たちは、その言葉を発するイエスのそばにいて、心配から離れられている。安堵している。先ほど述べたとおりです。
 
以上が、「解く」ことをめぐって今日お話ししたかったことです。イエスがこの世にほんとうに生まれたということが決定的なのです。だからそれをお祝いする。そうであるからこそクリスマスは特別なのです。以上で終わります。

 

 

いいなと思ったら応援しよう!