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♯34 「愛のわざをするなら平日に」と会堂長は言った/ルカによる福音書第13章10-17節【京都大学聖書研究会の記録34】
【2024年10月1日開催】
はじめに
10月1日から2024年度後期の聖研が始まりました。
ルカによる福音書 13:10-17 を読みました。安息日における病の癒しの記事です。ルカ福音書には、安息日の癒しが3箇所で語られています。6:6-11、14:1-6、それに今回の箇所です。ルカ6:6-11(手の萎えた人の癒し)の内容は、マタイ(12:9-14)、マルコ(3:1-6)と共通ですが、14:1-6(水種の人の癒し)と今回の箇所(腰の曲がった女性の癒し)はルカ独特の話となっています。
イエスがユダヤの会堂で聖書の話をしていた。そこに18年間も腰が曲がったままの女性がいた。イエスはその人に向かって「病気は治った」と言い、実際、病は癒された。これを見ていた会堂長が怒って、「安息日にはこういうことをしてはいけない」と言う。イエスはそれを聞いて、「安息日でも家畜を縛りから解いて水を飲ませに行く。安息日であっても、18年も苦しんできた人を束縛から解いてあげるべきではないか」と言った。イエスに敵対していた者たちはその言葉を聞いて恥じ入ったという。
安息日の規定
安息日の規定は、いうまでもなく、十戒に由来する、ユダヤ共同体にとってベーシックな規定です。十戒の第4戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:8-10)とあります。イエスの時代には、この規定をベースに、実に詳細な決まりごとがあったようです。安息日にしてよいこと・してはいけないことは、事細かに定められていた。当時の人々は、これらを参照しながら、自らの安息日におけるふるまいを決めていったのだと思います。
安息日の決まりを守ることは、当時の人たちにとっては、社会生活を送るうえでいろはの「い」にあたるような事柄で、それをイエスが破ったものだから、大騒ぎになったわけです。今回の箇所でイエスの違反行為に鋭く反応しているのは、会堂長だけなので、「大騒ぎ」は少し不正確かもしれません。しかし少なくとも、会堂長のようにイエスのふるまいを律法破りとして問題視する人たちは、この場にもかなりいたのではないかと思います。ルカ6章の癒しの記事では、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」と書かれています。今回の舞台となった会堂にも、この種の人たちが来ていたと考えるのが自然です。今回の記事では、彼らは「反対者」(新共同訳、6:17)と表現されています。それらの人々が会堂長の周辺にはいた。そして会堂長の怒りの言葉に「そうだ、そのとおりだ」と口走っていたのでしょう。
テキストに即して考える
安息日についての決まりを絶対に守らねばならないと考え、社会生活を送る人たちが一方にいて、他方にその決まりにとらわれないで愛のわざを行うイエスがいる。律法と愛。この対比が今回の箇所の主題で、律法を超えるイエスの愛が描かれている。この理解はむろん正しい。ただこのようにいわば抽象的に語ってしまうと、今回の箇所に固有の問題が何かが見えにくくなるのもたしかです。律法を超えるイエスの愛のわざということなら、先にふれた6:6-11(手の萎えた人を安息日にいやす)も14:1-6(水種の人を安息日にいやす)も同じで、その次元を問題にするなら、3つの箇所を別々に丁寧に読む必要はなくなります。読まなくても結論はわかっているからです。ですが、それはやはり面白くない。イエスのわざを(律法対愛といったような)抽象度の高い次元で把握してしまうと、福音書のテキストが死んでしまう。私たちは拙いながらも、テキストに即して、いったいそこで何が語られているかにこだわってみたいと思います。
今回のテキストの何を問題にするか。私の関心について記す前に、聖研でのみなさんの議論の内容を思い出しておきたいと思います。今回のテキストには、興味深い点がいくつもありました。
「病気は治った」という宣言
イエスはまず「病気は治った」と宣言し、そのあとで手を彼女の身体の上に置いています。イエスが手を置いたのちに彼女の腰は伸びるのですが、その手前、まだ何もしないうちに「治った」という宣言があるわけです。これは何を意味するのかについていろいろな意見が飛び交いました。
「神を賛美した」
病をいやされた女性は、イエスに感謝をささげると思いきや、「神を賛美した」。治癒をしてくれた当の人(今の場合はイエス)にありがとうと言い、あなたはすばらしいと感嘆するのはわかりますが、ここではそうなっていない。イエス当人は脇において神に感謝をささげ(とは書いていませんが、十分ありうる)、賛美をした。なぜ治癒者は放っておかれ、神賛美が先行したのか。きっとこの人は、自らの病のことを神に祈りつつ願いつつ18年間歩んできたのでしょう。自らの病をめぐる神との対話18年。その延長線上にいやしの後の神への賛美があるように感じられます。
「解く」というテーマ
イエスは、会堂長の発言の後に、家畜に水を飲ませることと病をいやすことを並行的に語ります。家畜に水を飲ませることは、普段彼らを縛っている縛りから彼らを解放することだ。同じように、長年の束縛に苦しんできたこの人をその縛りから解放してあげて何が悪いか。縛りを解くこと、縛りから人を解放すること。これがイエスにとって大きなテーマであったことがよくわかります。「病が治った」の「治る」(アポリューオー)もまた「解く」(リューオー)を部分として含む単語です。
偽善者
会堂長たちに向かってイエスが放った「偽善者」という言葉。以前、ファリサイ派の「偽善」について少し考えたことがありました(https://note.com/ytaka1419/n/ndfc2eee03568)。そこで、イエスの言う「偽善」には、日本語の「偽善」ないし「偽善者」に含まれる「よき人を装う」「よき人のふりをする」という意味は弱く、単に社会生活を芝居のように演じる人・ことの意味であることを確認しました。ファリサイ派の人たちは、「律法に制御された社会生活」の芝居を演じてすっかりいい気持になっている。律法の外にいる苦労人のことなどまったく視野に入らない。そのような人たちはそもそも舞台の上にいないのだから。イエスは今回のテキストで会堂長たちを「偽善者たち」とよびました。そこにもファリサイ派批判で出てきたのと同じニュアンスが込められていると考えるべきだろうと思います。
反対者は皆恥じ入った
13:17に「反対者は皆恥じ入った」とあります。先に述べましたように、ここでいう「反対者」はイエスに敵対する人々、イエスが律法違反をするかどうか見張っていた人々と想定できます。その人たちが、イエスの弁明を聞いて、自らのさもしい根性に気づき、恥じ入ってしまったというわけです。参加者のお一人がおっしゃっていましたが、たしかにこの人たちは意外と素直です。
会堂長の発言
今回のテキスト全体の中で、私自身は、会堂長の怒りの言葉がとても印象に残りました。聖研時にはうまく言葉にできなかったのですが、以下そのことについて書いてみることにします。
会堂長は言います。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。先に引用した十戒の規定に照らせば、これ以上ないほどの正しい言い分です。十戒を前提とする以上、この発言に反駁することは難しい。この彼の言い分に従うと、治癒を希望する人は、週6日の間のどこかを選んで先生のもとに行けばよい。現代日本の患者同様、平日に病院の待合室に行くことが求められていることになります。治癒を希望する人は診療時間を考慮して順番待ちをし、順々に治癒してもらえばよい。なぜそれができないのか。彼はそう言っているわけです。
会堂長は腰が曲がった女性に向かって、「働き日は週に6日あるのだから、それらの都合のよい日に先生のところに行ったらよい」と言ったわけですが、この発言はむろんイエスに向けた発言でもあります。「なぜあなたは週6日の働き日に働かないのか」。よりによってなぜ安息日に働くのか、と言っているわけです。
会堂長は、イエスと腰の曲がった女の関係を、治癒サービスを提供する人間と患者の関係に見立てているようです。いまの時代でいえば、医師と患者の関係。ならばきちんとルールを守ってもらわなくては困る。治癒サービスを提供するつもりなら、診療時間を決め、その予定どおりに事を進めたらよい。治癒サービスを邪魔しようというのではない。その逆だ。病を治すのは結構なことだ。大いにやってほしい。苦しんでいる人を助けてほしい。ただそれを安息日にする必要はない。平日に診療時間を決めて、そこでしたらよいではないか。そのようにしたら、だれも文句を言う人はいない。八方丸く収まる。なぜそうしないのか。なぜあえて安息日を選んで波風を立てるのか。会堂長の言い分を想像すると、このようなものになると思います。まとめます。愛のわざをするなら平日に。これが会堂長の主張です。
コミュニケーションギャップ
そのように言われても、イエスは当惑するばかりです。イエス自身は、安息日を選んで女を治癒したわけではないからです。そうではなく、目の前に腰の曲がった女が現れたのが、たまたま安息日であった、ということにすぎない。会堂長とイエスの間には、大きなコミュニケーションギャップがあるようです。会堂長は、イエスのふるまいを専門家としての治癒サービスの提供と見ています。ならば、サービスの提供にあたっては、自由に時間や場所を設定できるはず。なのに、なぜあえて安息日に、と考えます。先ほど述べたとおりです。
しかしイエスにとって、いま腰の曲がった女に対してしたような治癒行為は、専門家としての治癒サービスの提供とはまったくちがう。後者(治癒サービスの提供)なら、それでは来週の水曜日午前10時に、と約束することができる。モノのようにサービスを自由に持ち運びできる、といった感じです。だから時間・場所の指定ができる。ところがイエスの治癒は、イエス自身にとっても不如意の出来事から出発します。目の前に現れた腰の曲がった女を見てイエスの中に大きな変化が起きた。心が大きく動いた。「病は治った」という発言はそこから出てくる。イエス自身の中の大きな変化は、イエスが自分の意思に従って起こしているわけではありません。そうではなく、起きてしまったものです。いま「不如意」と書いたのはそのためです。
会堂長は治癒を治癒者の思いのままになる事柄と考え、イエスは治癒を自身の思いのままにならない変化(不如意の変化)に基づくと受けとめている。両者の間には大きな溝があります。
イエスの治癒
実は今回のテキストには、治癒にあたってイエスの中で何が起きたかについては何も書かれていません。「イエスはその女を見て呼び寄せ」(12節)と書いてあるだけです。ですから「イエス自身の中の大きな変化」などと先に書いたのは、一種の推測にほかなりません。
いい加減なことを言うな、との声が聞こえてきそうですが、この推測はむろん無根拠というわけではありません。治癒に限らずイエスの愛他的な行為に際しては、よくイエスの「憐み」という心の動きについての言及があります。ここでは詳しくはふれませんが、この憐みは道徳に起源をもつ感情(「かわいそう」「気の毒」)ではなく、道徳以前の身体起源のものなのでした。その事態を指して以前「苦痛転写」とよんだことがあります(https://note.com/ytaka1419/n/n47736994170f 参照)。「苦痛転写」は、当人の思いとは無関係にその人に生起する「大きな変化」にほかなりません。今回の事態の背後にもこの「苦痛転写」があるのではないか。18年間も苦痛を強いられてきた女性の姿を目の当たりにして、その苦痛がイエスの身体に転写された。これはさほど無理な推測ではないように思います。そしてこの「苦痛転写」という大きな変化を動力として、治癒行為がなされるわけです。
だとすると、イエスは会堂長の要望には応えることができない。会堂長は治癒サービスを持ち運び自由なものと考えているわけですが、イエスの場合、病を治す行為は、眼前の相手に向けた、そのとき・その場のものにほかならないからです。自身の裁量であちらこちらに持ち運びできるものではないし、自由に出し入れできるものでもない。
会堂長とイエス
会堂長は安息日規定を破ったイエスの治癒行為に腹を立てたのでした。律法を遵守する真面目な人が、イエスの律法破りをけしからんと思った。たしかにそのとおりですが、これまでの記述でわかるように、イエスは確信犯的に律法破りをしたわけではない。そうではなく、結果的に律法破りになってしまったわけです。イエス自身は、モーセ律法を共有規範とする社会で育ったわけですから、律法の遵守義務については当然のことと考えていたと思います。ところがそのイエスに律法の縛りを無視するかたちで「苦痛転写」が生じてくる。この「苦痛転写」のリアリティは圧倒的なので、安息日規定という律法によって押さえつけることなど不可能です。このようにして腰の曲がった女への治癒行為がなされる。驚くべきは、律法破りそのものではなく、律法の縛りを超えてしまう愛(「苦痛転写」)の力です。
こう考えると、会堂長とイエスのちがいは、律法をめぐる態度や評価のちがいというより、愛の当事者になった人(イエス)とその経験のない人(会堂長)のちがいと言えそうです。だからこそ会堂長は、イエスの行為を治癒サービスと同じものと考えたりしているわけです。とはいえ、律法を超える愛の経験はイエスにおいてはじめて起こったわけですから、そのことを理解できない会堂長を責めるのはやや酷な気がします。むしろここでは、イエスの愛の圧倒的な力に感嘆すべきだろうと思います。