♯42 招待状に注意!/ルカによる福音書第14章15-24節【京都大学聖書研究会の記録42】
はじめに
ルカによる福音書14:15-24を読みました。この箇所は、前回(11/5)読んだ 14:7-14 に続いて宴会の話です。宴会に行ったら、上席に着こうとするな、末席に着け(7‐11節)、また宴会を開催する者は、友人、親類等を招待せず、貧しい人や障害を持った人を招待せよ(12-14節)。これが前回読んだ内容でした。それぞれの含意については、「お返しのできない人を招け」と題して報告しましたので(https://note.com/ytaka1419/n/n3023f75c8ee5)、そちらを参照してください。
今回の箇所も、テーマは引き続き宴会問題。福音書では宴会とか食事が話題になることが多い。そのことに改めて気づかされます。福音書ばかりでなく、旧約聖書にも、「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される‥」(イザヤ書 25:6-10)といった言及がありますし、モーセは長老70人と共に神の下で宴会をしたのでした(出エジプト記 24:9-11)。そのようなことを心に留めつつ、今回の箇所を読みたいと思います。マタイ福音書にも骨格の似た話が記されていますが(マタイ 22:1-14)、趣旨はルカ福音書とは少しちがうようです。
どんな話か
イエスと食事をしていた客が、神の国で食事する人は幸い!とイエスに言った。それを聞いたイエスがこんなたとえ話をした。ある人が盛大な宴会を開催しようとして大勢の客を招待した。当日定刻になったので、召使いに命じて「宴会の用意ができましたので、お出で下さい」と招待客に伝えさせた。すでに招待している人にこのようにもう一度宴会の案内をすることは、当時の慣習だったらしい。ところが何だかみんな都合が悪い。畑を買った、牛を買った、新婚だから、と手放せない事情を抱えていることを述べて、次々に招待を断る。この人たちだけではない。「招かれた客は一人も食事を味わえない」(24節)と言われているので、その他の人も同様だったらしい。大勢の客が一様に自分の都合を理由に欠席を伝えてきたのだろう。招待した家の主人は怒り、町にいる貧しい人や障害を持った人を連れてきなさい、と命じる。それでもまだ席が余っている。すると今度は、町の外に出かけて行き、無理矢理でもいいから、そこにいる人を連れてきなさい、と命じた。結局「招かれた客は一人も食事を味わえない」結果になってしまう。
まちがった招待をした?
聖研の話し合いでは、まず、招待する側がそもそもまちがった招待をしたのではないか、との指摘が出ました。前段で「知人友人等を招待せず、貧しい人や障害を持った人を招待せよ」とイエスに言われているのに、この家の主人はそれを知らないかのようだ。挙句みんなに断られ、結局、貧しい人らを招くことになった。つまり結果として「貧しい人や障害を持った人を招待せよ」との命令どおりのことが実現した。つまりこのたとえ話の焦点は、このような誤った招待をした主人ではないか、という意見です。前段の残響下で今回の箇所を読むと、たしかにこの意見には一理あります。
ただそうなると、「神の国での食事」という枠組みがどこかに消えてしまうのではないか。イエスのたとえ話は、神の国で食事する人は幸い!という客の発言に触発されて出てきたものです。だからそのたとえ話は、「神の国での食事」を語ろうとしていると考えるのが自然です。となると、家の主人=神という想定は外せない。家の主人がまちがうことから始めると、神がまちがうという話になり、迷路に入り込んでいきそうです。
状況の連続の想定をいったん外す
また「まちがった招待」という意見の前提は、前回読んだ 14:7-14 と今回読んだ 14:15-24 の間に、状況の連続があるという想定です。つまり「友人、親類等を招待せず、貧しい人や障害を持った人を招待せよ」というイエスの命令を聞いた人々がいて、その人々がいま現在の状況(イエスの話を聞くという状況)を構成している。イエスの命令の記憶が残っている耳には、宴会の招待状を送る人が「貧しい人や障害を持った人」を顧慮しないことは、変だと思える。イエスの言葉どおりに動いていない!イエスの言葉を今聞いている人が、以前聞いた人でもあるとするなら、このような反応は至極まっとうです。つまり状況の連続という仮定を置くなら、イエスが「まちがった招待」を主題に話をしようとしているという理解もありかな、という気がします。
ただ問題は、聖書においては、状況は必ずしもつねに連続的ではないという点です。聖書は論文や小説ではないので、いつも前段と後段の間に論理的な連続や状況の連続があるわけではない。それが実情です。というか、むしろ、ぶつ切り的なつながりの方が多いように感じます。そのぶつ切り的なつながりを前提したうえで、なお前段と後段の含意にどのような関係があるかを問う。それは可能だと思いますし、意味があると思います。
状況の連続の想定をいったん外して読む。これが聖書の読み方としては、オーソドックスかなと思います。今回の箇所でいえば、あまり前段の内容に縛られずに、今回の箇所を読む。つまり「お返しのできない人つまり貧しい人たち等を招け」と語ったイエスのことはいったん忘れて、今回のテキストを読みましょう、ということです。聖研でのみなさんの考えも、ほぼこういうところに落ち着いたように思います。
何が問題なのか
そのような姿勢で読んでみると、浮かび上がってくるのは、「招待」と実際の「宴会での食事」のずれです。予定と事実のずれといってもよい。たくさんの客が招待されていたが、結果的に、だれ一人として食事に来る者はなかった。その代わりに食事の席に来たのは、招かれていない人々、つまり予定などまったくされていない人々だった。予定では、畑を買った人や牛を買った人、新婚の誰某が来て、席に着いているはずだった。ところが事実として席に着き、食事をしたのは、まったくちがった面々だった。神の国の食事をめぐる予定と事実のずれ。これが、今回の箇所で殊に印象深く感じられる内容です。このことはいったい何を意味するのか。
それと関連してもう一つ気づくのは、このたとえ話の中に、宴会(食事)に自分から行きたいと思っている人は、一人も出てこないということです。招待されていて断った人は、自分の都合の方が優先順位が高い人なわけですし、貧しい人、障害を持った人も、さらに無理やり連れてこられる人も、宴会に行きたいなどと考えて生きてはいない。そもそも宴会(食事)という選択肢は彼らの中にはない。そんなこととは関係なく日々生きているわけです。このことの意味についても気になります。
手がかりから始める
今回の箇所については、ほかにもさまざまなアプローチが可能だと思います。神の国の食事とはそもそもいったい何のことなのか。そこに招かれた人とはいったい誰なのか。イエスの時代に即して、ファリサイ派とか律法学者がイメージされているのか。それとも、もっと広くとって、(現代人も含めて)信仰告白をしている人一般のことと考えてもよいのか。招かれるとは具体的には、どんな事象を指してそう言っているのか。強引に連れてこられる人たちとは、いったい何の隠喩なのか。
疑問は尽きませんが、ここでは、これらの疑問に系統的に答えることよりも、先に挙げた注目点(予定と事実のずれなど)にこだわりたいと思います。強く印象に残った点を手がかりにやみくもに進む。そんな方法を採りたい。疑問に逐一付き合い、それに答えを与える。それによって見える景色はクリーン度を増しているかもしれませんが、何だか静態的です。おとなしい。それより、手がかりとして目の前に現れてきた問題のリアリティを信じた方がよい。そんな気がします。その手がかりから進んだ先に見える景色は、多少不純物は混じっていても(つまりわからない点が多少残っていても)、動画的、ダイナミックである。ような気がします。そしてダイナミックな把握は心強い。私たちはみな生きているのですから(動いているのですから)、それは当然です。
招待された人たち
さて問題は、予定と事実のずれでした。このことを「招待」された人の側から語ってみます。この人には、事前に招待状が届いている。招待状が届いている以上、安心。俺には列席する権利がある。この人は当然そう思っているわけです。そして、このように、列席する権利があると自信たっぷりに思うことと、今回はパスしようと軽く判断することとは、裏腹の関係にあるようです。つまり今回招待状が届いたのだから、次回もあるにちがいない。ならば、今回はこちらの事情(畑、牛、妻)を優先しよう。優先しても構わないはずだ。こういう次第で、招待状をもらっていた人は、召使いから声がかかったときに、さしたる抵抗もなしに次回まわしにしてしまいます。出会いの機会を自ら捨て去ってしまうわけです。
この人は招待状をいつでも使用可能な「資格」のように考えている節があります。俺に資格がある以上、次回まわしにしても問題はない。このように考えて、いま起きていることの意味がわからなくなる。召使いから声がかかっても、それが大切な機会だと思わない。見逃してしまう。その結果、予定と事実はずれてしまう。
この話を聞いた家の主人は、怒って、だれでもよいから連れて来い、というところまで行ってしまいます。招待状を送った人たちに対して、絶縁を宣言しているかのような勢いです。もしそうなら、招待状をもらっていた人たちは、決定的なダメージを受けたということになります。招待状に寄りかかっていたがゆえにとんでもないことになってしまった。弾かれてしまった。
強制的に連れてこられた人たち
今度は、強制的に連れて来られた人たちに注目して、予定と事実のずれを見てみます。招待客が来ないことがわかって、最初に連れて来るように言われたのは、町中にいる「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」でした。このリストは、14:13 のリストに重なります。イエスはそこで兄弟、友人、親類、金持ちなどではなく、このような人を招け、といいました。先に参照した「お返しのできない人を招け」と題した報告の中で、その命令の意味を推察しました。要するに、ここでリストされたような人々は、共同体内の贈与‐返礼のシステムから事実上あるいはルール上排除されているからこそ、招くに値する。
「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を連れて来なさい、という家の主人の命令は、イエスが前段で語ったことの実践でもあったわけです。このようにして招待の枠外にあった人が宴会に出てくる。こういうかたちで予定されていないことが起きる。
さらに話が広がります。貧しい人や障害を持った人だけでは足りないので、町の外に行って、そこにいる人間を片っ端から連れて来い。そういう話になります。いま「町の外」と書きましたが、新共同訳では「通りや小道」となっているだけです。ここでは、町中(広場や路地)との対比が想定される単語が使われているという説(田川建三)に依拠しておきます。町の外にまで出かけて行って、手あたり次第に人を連れて来い。そう言っているというわけです。
ここでは、その人が何者であるかも問われません。だれでもよいわけです。貧しい人や障害を持った人は、たしかに予定外の人たちでしたが、イエスの語る言葉の中には姿を現しています。ところが、今の条件である「だれでもよい」の場合は、そうではない。「貧しい人や障害を持った人を」と語ったイエスの言葉の中にもその条件は出て来ていない。想定されていない感じです。つまり「だれでもよい」は、度外れて予定外であるということです。甚だしく予定外のことが、事実として今起きてしまった。そのように言えそうです。
遠くへ行く者、入って来る者
神の国の食事(宴会)が全体のテーマでした。このテーマに沿って、いま上で確認したことを言い換えてみます。
イエスのたとえ話の初発の時点で、宴会に最も近接していたのは、いうまでもなく招待状をもらっていた人たちです。招待状をもらった人たちがずらっと並んで宴会が始まる。これが当初想定されていた事態でした。ところが時間の経過とともに、事態はあらぬ方向に流れていきます。宴会に最も近いところにいた人たちが、遠くに飛ばされてしまいます。彼らが宴会に近かったのは、招待状をもっていたからですが、その招待状に由来する奇妙な自信が、彼ら自身の都合を肥大化させてしまったようです。畑が、牛が、妻が、の声が重みを増した。神からの声かけ(召使いの再度の呼びかけ)も十分認識できない。招待状に寄りかかるあまり、神の声も聞こえなくなってしまったようです。そのような次第で、彼らを宴会に最も近づけていた条件(招待状)が、彼らを宴会から遠ざける理由ともなったわけです。
このようにして最も近くにいた者たちが遠くに飛ばされてしまう。彼らが遠くに飛ばされたので、空いた席を埋めなくてはならない。そこで召喚されたのが、宴会から最も遠い人たちでした。遠くへの動きと入れ替わるようにして、最も遠くにいた人たち、あるいは縁のなかった人たちが宴会の中に入ってきます。近くにいた者が遠くに行った理由は、自分がすでに得ている招待状に関する自信(あるいは過信)でした。遠くに行く動力は自分自身に由来していたことになります。これに対し、遠くから宴会に入り込む人々の動力は、外的なものです。彼らの手を掴み、連れてくる強制力が、彼らを動かします。
このようにして、宴会のメンバーとして予定されていた人々は、総入れ替えとなりました。入ってきたのは、「貧しい人や障害を持つ人」あるいは町の外にいた人たちであり、招待状をもった者は一人としてくることはなかった。
招待状を一般化する
神の国の食事というテーマに沿って、かつ予定と事実のずれに着目しながら、今回の箇所( ルカ14:15-24 )を記述してみると、いま述べたようなことになります。この記述に沿って二つのことを考えてみたいと思います。一つは招待状の問題、もう一つは外的な力としての神の強制力の問題です。
まずは招待状の問題から。宴会の近くにいた者は、その近くにいた理由が彼ら自身を宴会から遠ざけてしまうのでした。近くにいたがゆえに近くに行けない。近くにいることを成り立たせている条件が、彼らを遠くに追いやる。何だか皮肉な話です。
この話を一般化できないかと考えます。たとえ話の設定を離れて、だれにとっても関連する話として読むことはできないか。招待状とは、家の主人がその人に宛てて発行したものですから、家の主人とその人の関係をかたちにしたものといえそうです。関係とは、もう少し言えば親密な関係ということです。招待状は、両者の親密な関係を表示している。家の主人を神と想定すれば、たとえ話における家の主人と招待客の関係は、神と人間の関係一般のモデルと考えて差し支えなかろうと思います。招待状にあたるもの、つまり両者の親密な関係を表示するものとしては、たとえば、信仰告白とか祈り、教会、洗礼等さまざまなものが考えられます。それらは、神と人との親密な関係、信頼関係を表示しますが、同時に、それぞれが一個の形式である以上、(たとえ話における招待状がそうであるように)空虚なものとなってしまう可能性なしとしません。近くにいることを成り立たせている条件がその人を遠くに追いやってしまう。そういう可能性を心に留めておきたく思います。
神の強制力
もう一つの問題にいきます。遠くに飛ばされた者たちの代わりに、「貧しい人や障害を持った人」だけでなく、町の外で手あたり次第につかまえられた人たちが空席を埋めていきます。「貧しい人や障害を持った人」はともかく、手あたり次第につかまえられた人たちには、当初宴席に連なるという自覚はなかったはずです。自分の意思というよりは、家の主人つまり神の一方的な意思によってここにいる。それが現実だったのではないかと思います。神の強制力、つまり当事者にとっては、まったくの外的な力が、いまの現実を作り上げている。それは果たして望ましいことなのか。こういう素朴な疑問が浮かんできます。
招待状とは無縁の人たちの場合、宴会には行かないこと、これが予定でした。その予定が覆されてしまう。何によって?家の主人の強制連行によって。宴会への出席を可能にするのは、いまの場合、出席者側の事前の準備ではなく、家の主人の意思そして行動(強制連行)です。「貧しい人や障害を持った人」の場合は、多少とも、その人の属性(「貧しい人や障害を持った人」)が効いています。そうした属性を有するがゆえに今ここで連行されるわけです。ですが、「だれでもよい」となると、話はまったく変わってきます。属性はまったく意味をもたなくなります。その人は「貧しい人や障害を持った人」であるかもしれない。そうでないかもしれない。金持ちであるかもしれない。そうでないかもしれない。頭脳優秀な人であるかもしれない。そうでないかもしれない。要するに、そうしたその人にまつわる諸事情は、一顧だにされないということです。一顧だにされずに、手を掴まれ、宴会に連れていかれる。そういうイメージです。
その人が誰であろうと関係なく、一方的に手を掴んで宴会に連れていく。これがこのたとえ話の最終局面で起きたことです。たしかにそれは圧倒的な強制力の行使で、そこだけ見ていると、何だか憂鬱です。ただそこに希望の種を見出すことも可能です。「その人が誰であろうと関係なく」ということは、裏を返せば、すべての人が宴会に行く可能性に開かれているということでもあるからです。誰であれ、どのような人であれ、手を掴まれるという経験は起きうるわけです。あの人に起きたことはこの私にも起きうる。その経験に事前の準備は不要。先方がこちらの手を掴むのであって、その逆ではないから。
おわりに
この報告の最初の方で、「このたとえ話の中に、宴会(食事)に自分から行きたいと思っている人は、一人も出てこない」と述べました。神の国での食事は、人が自ら望んで実現するものでない。宴会の席は、得ようと思う努力の先にあるものではない。「行きたいと思っている人が一人も出てこない」という設定は、こうしたメッセージを運んでいるように思います。宴席に人を連れていく力は、強制力そのものですが、他方、宴席に連なること自体を人間は自分の意思で実現することはできない。このことにも留意しておく必要があるように思います。