見出し画像

#4 平和の子になる/ルカによる福音書第10章1-16節

2023年6月27日開催京都大学聖書研究会の記録
ルカによる福音書10:1-16を読みました。
10:1-16は、二つの段落に分かれています。前半(1-12節)には、ルカだけに記されている72人の弟子の派遣という話が記されています。72という数字はルカだけですが、本文内容はマタイの12人派遣の記事(マタイ10:5-15)とよく似ています。後半(13-16節)には、ガリラヤ湖周辺のいくつかの町を叱責するイエスの言葉が記されています。「コラジン、ベトサイダ、カファルナウムよ、悔い改めなかったお前たちは禍だ」。後半部は、マタイ11:21-23とほぼ同内容です。資料問題が入り組んでいるようです。

1 無防備で行く


前半部、弟子の派遣を「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と語ったイエスが、財布や袋、履き物をもって行くなとも述べている点が注意を引きました(4節)。狼のところに行くなら、ふつうはもっと入念な準備をするのが当然でしょう。ですがここでは、まったく無防備で行けと言う。狼=他人に頼ることを前提にした指示、ということになるので、いったいこの指示のこころは何か、といったことが話題になりました。

それと関連して、イエスは、訪ねて行った家に対し「平和あれ」と述べるよう命じています。その言葉がうまく機能するのは(つまり福音の話が通じるのは)、先方に「平和の子」がいる場合だ。そのようにイエスは言います(6節)。しかし「平和の子」がそこにいるかどうかは、訪ねていく弟子たちには制御できない。つまり事前にいくら準備しても仕方がない。つまり事前の準備は意味がない。先の財布、袋の件同様、ここでも事前準備の無効が語られているようです。たまたまそこに平和の子がいたらすべてがうまく回る。しかしそれは準備の成果ではない。話し合いの中でこの指摘があったとき、ほんとうにそのとおりであると思いました。福音を伝えるというふるまいが、準備とは無関係に、いわば出たとこ勝負で進むというのは、大変面白いことだと思いました。

2 ふつうの子が平和の子になる


その一方で(これは私の感想ですが)、平和の子がそこにいる、そこに現れるという事態は、実は弟子たち自身に依存するところもあるのではないか。訪ねて行った弟子たちがほんとうに福音を生きていたら、そのことの効果として、そこに平和の子が出現するという事態が起きるのではないか。ふつうの子が平和の子になる、ということが起きる。こういう側面もあるのではないかと思いました。

弟子たちは町や村に出かけ、家を訪ねて、そこで何を語ったか。「神の国を言い広めなさい」と言われ(9:60)、「神の国が近づいた」と言え、と命じられていますから、そのような内容の言葉を語ったのだろうと思いますが、「イエスは救世主です」とか「神の国は近づいた」とか述べるだけでは、イエスが命じていることの実践とはいえない。これが肝心なところだと思います。単に指示どおりの言葉をいくら述べても、ああそうですか、という乾いた反応しか返ってこない。あなたたちはそう思う、ということですね、と言われてしまう。大切なのは、先方が「そのとおり」と思うことだろうと思います。そういうことが起きるとき、「神の国を言い広める」ことがなされている。

3 悔い改めはどこから来るか

10:1-16の後半部(13-16)では、ガリラヤの町々(コラジン、ベトサイダ、カファルナウム)が「禍だ」「不幸だ」「黄泉にまで落とされる」と言われます。「悔い改め」がなかったからというのが、その理由です。少し前には、弟子を拒否した町に対し「神の国が近づいたことを知れ」と言え、と弟子への指示が出されます(10:11)。悔い改めないと、罰を受けるぞ、と言っているかのようです。こう言われると、「ならば悔い改めねば」と思ったりする人もいるかもしれません。「悔い改め」が大事だと。それはそのとおりですが、ただ、脅されてなされる「悔い改め」は、ほんとうに悔い改めになっているだろうか。どうもそうではないような気がします。悔い改めない→罰を受ける、なのだから、悔い改める→罰を免れる、ことになる。だから悔い改めよう。これでは、悔い改めが、罰を避けるという目的のための手段という格好になってしまいます。こういうのは、人間の浅知恵のような気がします。真の悔い改めは、神の介入なしにはあり得ない。つまり「悔い改めよう」という意思によって得られるものではなく、神が介入して初めて起きるものだと思います。コラジンやベトサイダ、カファルナウムは、浅知恵の悔い改めには満ちていたでしょうが、それは一種の欺瞞で、真の悔い改めとは別物。「これらの町々には悔い改めがない」というイエスの厳しい言葉はそのことを語っているように思えます。

いいなと思ったら応援しよう!