♯14 ダビデ、キレる/サムエル記上第25章【京都大学聖書研究会の記録14】
【2023年11月21日開催】
サムエル記上第25章を読みました。今回もみなさんと一緒に聖書を読む醍醐味を味わった感があります。
1 あらすじ
①サムエルの死が告げられた(1節)あと、ナバルという人物が登場する。裕福な人物で、ダビデの集団も彼の牧童たちを守る仕事をしていたらしい(16節)。ナバルが羊の毛を刈る「祝いの日」にダビデは従者を送って、祝いの日のお裾分けを要望した。祝いの日に隣人に(食べ物を)ふるまうことは当時よくあったらしい。ダビデはその慣行を当てにして、何か分けてください、と要望したのだろう。しかも自分たちはナバルのために働いてもいたわけだから、この要望には無理がない。しかしナバルは冷たくあしらった。ダビデとはだれか、主人のもとを逃げ出す奴隷が多いというではないか(サウルのもとを逃げ出したダビデを皮肉っている)、素性の知れぬ者に肉はやれぬ。
②ナバルの反応を聞いたダビデは、即座に部下に武装させ、出立。自分たちを侮辱したナバル一族を皆殺しにするつもりだったらしい(22節、34節)。
③ナバルの妻アビガイルは、事の次第をナバルの従者から聞いた。ダビデがナバルを滅ぼそうとしている、どうにかできないか、と従者は言う。ナバルではなく聡明なナバルの妻に期待したわけである。
④一族の危機を救うため、ナバルの妻アビガイルはダビデへの贈り物を準備して、ダビデに会いに行く。道の途中でダビデに遭遇し、会話を交わす。そこでアビガイルは、主がダビデが流血の災いに手を下すことから守られた、と復讐の制止がもうすでに起きてしまったこととして語る。これからナバルを殺しに行こうとしているダビデに対し、主はそうさせないようあなたを守った、と言うのだ。次期王であるあなたが復讐に手を染めて、後々まで負い目を感じることはよくない。
⑤アビガイルの話を聞いたダビデは、復讐の罪からよく私を救ってくれた、と言ってアビガイルに感謝する。ヤハウェは私の復讐を止め、あなた(アビガイル)の蒙ろうとしていた災いからあなたを救った。
⑥アビガイルがダビデとの会見から家に戻り、事情をナバルに話すと、ナバルは「意識をなくして石のようになった」(新共同訳)。そして10日後に死亡。
⑦ダビデはアビガイルに結婚を申し込み、結婚。サウルは娘ミカルをダビデとはなれさせ、別の男と結婚させた。
2 少し補足します
①ここでダビデのしていることには無理がない。放浪するダビデ集団には生産手段がない。牧童のガードマン的な仕事によって禄を食んでいた可能性がある。特にこの日は祝いの日だから、放っておいても食料をもらえるはず。ところが「ならず者」で「愚か者」のナバルは、動かない。だからダビデは部下を遣って、お裾分けを要望した。ところがナバルは、(「ならず者」で「愚か者」だったせいでしょうか)徹底的にダビデを侮辱する。
②この侮辱にダビデはキレた。400人の兵を連れて出陣。「明日の朝までにナバル一族が一人でも生き残ったら、主よ我を罰せよ」(22節)というくらいだから本気。従者からの報告を受けると、何も説明などせずに「剣をとれ」と言う。今日話を聞いて、明日の朝までに全員殺すというのだから、ダビデの尋常でない怒りが伝わってくる。
③アビガイルに報告をした従者は、ダビデ集団がきちんと仕事をしたこと、とても評判の良い者たちであることを伝える。非はナバルの方にこそある、と言っているわけだ。何と言ってもダビデ集団は武装集団、彼らの怒りを買った今、ナバル一族は風前の灯火。主人であるナバルは名前のとおりの愚か者で話にならない。あなたが何か手を打っていただけませんか。従者は必死に訴える。
④アビガイルは一族の存続を図るため、贈答の品を携えてダビデに会いに行く。ところがダビデに遭って彼女が発した言葉は、命乞いのそれではなかった。どうぞ助けてください、お目こぼしを、とはひと言も言っていない。その代わりに、❶主があなたを流血の罪から救った❷主があなたの家を興し、あなたは主のために戦う、と言う。
⑤アビガイルの話を聞いたダビデは、ダビデらしく率直に反応した。危うく流血の罪を犯すところだった。主から遣わされたあなたが、私をその罪から救った。ありがとう。
⑥翌朝酔いがさめたナバルにアビガイルからすべてが告げられる。ナバルは何に反応して「意識をなくして石のようになった」のか。自分は皆殺しの暴力の餌食になっていたかもしれない。今朝のこの時までに。それがどういうわけか救われた。ジェットコースターのような緊張と弛緩の連続に気を失ったか。
3 アビガイルの言葉
あらすじを確認したついでに、上記④の続きで、ナバルの妻アビガイルについて、気のついたことを書いておきます。彼女は、ダビデに対し、❶主があなたを流血の罪から救った❷主があなたの家を興し、あなたは主のために戦う、と語ったのでした。
❶については、まだ起きていないこと(復讐の制止)をすでに起きたこととして語る語法が目立ちます。ダビデを翻意させる作戦としてあえてそのような言い方をした、との見方も成り立つ。ただその一方で、アビガイルはダビデに直接会った瞬間に「事は成った」と思ったのではないか、とも思います。アビガイルは復讐を制止しようと出かけた。ダビデはアビガイルに会う直前まで「皆殺し」を叫んで兵を叱咤していた。しかしそのダビデに面と向かったとき、実に不思議なことに、アビガイルは「事は成った」、復讐は制止された、と思ってしまったではないか。こういうことは十分起き得ることのような気がします。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」(マルコ11:24)というイエスの言葉を思い出します。
❷でアビガイルは、主に言及することによって、ダビデの歩みがダビデ自身の野心に基づくものなのではなく、主に従う歩みであることを強調しました。ダビデが激高のあまり忘れてしまっていたかもしれないことを思い出させたわけです。主に従う指導者が、流血の罪を犯して負い目を負うことがあってはならない。
❶❷をとおして、アビガイルは自身の利害(一族の存亡)に関係することを利害にまったく言及せずに語ったことになります。それは意図的にそうしたというよりは、すべてを主に預けて出かけた人に主からもたらされた知恵だったのではないか。「皆殺し」の対象におそらく自分も入るだろうから、とてつもなく怖い。主にすべてを預けてこそはじめてダビデに会うことができる。アビガイルの聡明は、神から出たものといえそうです。
4 キレるダビデ
放浪を続けるダビデ集団は生計維持の手段をもっていない。彼らはサウルに追われながらどうやって暮らしていたのだろうか。今回のテキストはそういう疑問への答えの一つを示してくれています。ダビデたちは土地の有力者に対し、ガードマン的な仕事をしながら食料を得ていたようです。「彼らが昼も夜も我々の防壁の役をしてくれました」(25:16)とアビガイルの従者がいうとおりです。こういう意味で今回のテキストは貴重な記録です。聖研の場でもこのことがひとしきり話題になりました。ほかにも、ナバルという名前の由来とかダビデの結婚の話とか、サウルの怒り(ダビデの新たな結婚を見て娘ミカルをダビデからはなれさせた)とか、話題は多岐にわたりました。
私は個人的にはダビデのキレ方のすさまじさに驚きを覚えました。聖研参加者の中にもそのように感じた方はかなりおられたようです。ダビデたちはしっかり仕事をしたのに、十分な報酬が支払われていない。ましてこの日は祝いの日だ。しかし待っていても何もない。そこで従者を遣ってお裾分けをお願いした。ところがナバルはその謙遜な要望を冷たくあしらう。素性のわからない者にうちの大切な食料を上げるわけにはいかない。このナバルの発言にダビデはキレたわけです。
もし食料を得ることに緊急の必要があるのなら、ナバルのところに直接赴いて、きちんと話をして手に入れたらよい。ダビデの話なんか聞かない?いやそんなことはないだろう。ダビデたちは何と言っても武装勢力であり、その彼らが大挙押し寄せて話をするなら、ナバルには彼らの要求をはねつける胆力はない。しかしダビデはそうはしなかった。いまこのときダビデにとっては食料よりも、名誉の方が問題だったからだ。ナバルごときに「何者?」と言われ、「素性のわからぬ者」とバカにされた。許せない。
たしかにナバルの言い方にはとげがあります。あえてケンカを売っている。ダビデが怒るのも無理はないとも言えます。とはいえ、それへの返報が「皆殺し」とは。これはいかにもやりすぎではないか。ダビデは「翌朝までにナバル一族の一人の男も生かしてはおかない」ということを本文中で二度までも述懐しています。本気で殺そうと思っていたということなのでしょう。
ダビデ集団はたしかに報酬を得られなかった。それは彼らにとって実害と言ってよい。しかしいまダビデが憤っているのは、その実害に関してではありません。そうではなく単なる言葉に反応しているわけです。実害が少しもない事柄に対するこの反応の大きさは、常軌を逸しています。これでは、ダビデに味方した祭司アヒメレクの町ノブを壊滅させたサウルと変わるところはないように見えます。「〔サウルは〕祭司の町ノブを剣で撃ち、男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけた」(サムエル記上22:19)。
5 「主が共にいる」ダビデはどこに行ったか
ダビデについては24章の報告でその率直な人柄に言及しました。主とともにあるその生き方にサウルも心を動かした/のでした。あのダビデは一体どこに行ったのか。
ダビデはもともとゴリアトを倒したことで頭角を現した人です。武人の素質のある人物です。サウルがペリシテ人の手でダビデを殺させようと思って、ダビデをペリシテ人との戦争に参加させた。ペリシテ人の陽皮100枚とってくれば娘と結婚させてやる、と言って。ところがダビデは死ぬどころか、陽皮200枚の戦果をあげて帰ってきてしまいます。このようにして戦争のたびに武人としての名声を確立していったらしい。
おまけにダビデのもとに集まって来て、兵として働いている者たちは、「困窮している者、負債のある者、不満をもつ者」(22:2)であり、中には腕力に相当の自信をもつ者もいた可能性があります。一般人から見れば相当に危険な私兵集団がダビデ集団だったのでしょう。その彼らが、頭領であるダビデをばかにされ、ナバル殲滅のために一丸となったわけです。復讐の決意をすることにおいて、ダビデもダビデ集団も暴力のとりこになったかのようです。
古代イスラエル社会では、復讐は一定の条件下では認められていたようです。「血の復讐をする者は、自分でその殺害者を殺すことができる」(民数記35:19)とあります。人が殺されたときは、その親族(とは書いていませんが)は殺人者を自分の手で殺すことができる。とはいえ、「復讐してはならない」(レビ記19:8)が一般的なルールで、「わたしが復讐し、報いをする」(申命記32:35)とも言われます。復讐の主体は神である。これが旧約世界の基本ルールだったようです。他人の些細な言葉に反応して大声で「復讐だ」と叫ぶダビデのふるまいは、律法上の根拠をもたないものと言わざるを得ません。
主と共に歩むあのダビデはどこに行ったのか。今回のテキストを読むと、どうしてもこの問いが頭から離れません。聖書本文には、このことの説明はまったくありません。だから想像するしかないわけですが、ヒントになりそうなこととして、24章におけるサウルの発言があります。「いまわたしは悟った。お前〔ダビデ〕は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(24:21)。主君として仰ぐサウルに次期王として認められた。これは初めてのことです。このことがダビデの自信を深めたことは想像に難くない。ダビデは王サウルに認められ、次期王としての自己像を膨らませるに至った。風船のように膨らんだその像をナバルのひと言で破裂させられたものだから、ダビデがキレた。皆殺しを叫ぶほどですから、ダビデの風船はとてつもなく膨らんでいたと考えられます。
6 はっと気づくダビデ
自己像とか、サウルから認められるとか言っても、それは要するに人間世界の出来事です。ダビデのような人でも、世間の一員であることを強く感じさせられます。世間に縛られて生きているわけです。そうである以上、いつ何時常軌を逸してしまうかわかったものではない。ただダビデはアビガイルの言葉に出会って、直ちに立ち返ります。はっと気づきます。主から離れていた自分の過ちに気づき、そのことに気づかされてくれたアビガイルに、実に素直に謝意を表します。この辺りが「主が共にいる」ダビデの面目躍如たる点ではないかと思います。
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