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♯47 いま起きていることを語るたとえ話/ルカによる福音書第15章1-10節【京都大学聖書研究会の記録47】
【2025年1月14日開催】
ルカによる福音書15章1-10節を読みました。この章には、イエスが語った3つのたとえ話が記されています。3つとも、一度失われたものが再び戻ってくるという内容を語るたとえ話で、最初のたとえ話はマタイ福音書にも出てきますが、ほかの2つはルカ独自のものです。今回は1番目と2番目の話を取り上げます。新共同訳聖書には、それぞれ、「『見失った羊』のたとえ」、「『無くした銀貨』のたとえ」という小見出しがついています。
2つのたとえとイエスの解説
「『見失った羊』のたとえ」の方は、次のような話です。100匹の羊を飼っている者がいた。この羊飼いが、あるとき、その群れの中の一匹を見失ってしまう。羊飼いは残りの99匹を野原に残して、見失った羊を必死で探す。そしてようやく見つける。そのときの喜びはとてつもなく大きい。その羊を肩に担いで家に帰り、「友達や近所の人々」を集めて一緒に祝う。「『無くした銀貨』のたとえ」ではドラクメ銀貨10枚をもっている女が登場します。女はそのうちの1枚を無くしてしまう。女は無くした銀貨を探して家じゅう隈なく探し回る。ようやく見つけると、これも友達や近所の女たちと共に大喜びする。
1番目のたとえ話についてイエスは、「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言い、2番目の話についても同様に、「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と語ります。
悔い改めはどこにあるか
羊飼いや「女」は神の側を代表していると考えられます。羊や銀貨は人間ということになります。羊や銀貨はいったん見失われるわけですが、それはおそらく、人間が神から離れることを示しているのでしょう。いったん見失われた人間を神は必死になって探し、見つける。その途端、神の側において喜びが爆発する。2つのたとえ話から、こうした神と人間のストーリーを読み取ることは容易です。ただイエスの提示した解説は、その一歩先まで進んでいます。単に見失われたものを見つけて喜ぶ、ということではなく、見つけられた人間が悔い改めることを天は喜ぶ、と語っています。「見つける」ことの中に、悔い改める、という内容が含まれていて、天の喜びの理由は、この悔い改めにこそある。イエスはそのように解説しています。
ただ、たとえ話を素直に聞いてきた耳には、この「悔い改め」は唐突に聞こえます。たとえ話の中に、「悔い改め」に相当する内容が含まれていないからです。羊を見つけて喜ぶ、銀貨を見つけて喜ぶ、と書いてあるだけです。なぜここに「悔い改め」が入り込むのか。何だか釈然としません。
疑問をもう一度
「悔い改め」がなぜ入り込むのか、釈然としない。などと言うと、悔い改めは人間にとっての最重要問題であり、そのことに「?」をつけるなど、けしからん。そんな声が聞こえてきそうです。イエスは罪人の悔い改めという永遠のテーマに言及したわけで、そこに茶々を入れるのは、いかがなものか。たしかにその言い分もわからないではないのですが、ここで問題にしたいのは、たとえ話のどこにも「悔い改め」らしき内容が示されていないのに、悔い改めをキーワードとする解説が示されることへの違和感です。
「悔い改め」が重要問題であることについては論を俟たない。ここで問題にしたいのは、そのことではなく、なぜ1番目と2番目のたとえの解説に「悔い改め」が出てくるのか、です。それがまったくわからない。そう述べているわけです。
聖研での話し合い
そのような疑問を抱えつつも、聖研では、今回の箇所について活発な話し合いがなされていたように思います。たとえば、「見つける」ことと「悔い改め」の先後関係はどうなっているかといった問題。一般化すれば、恵みが先か悔い改めが先かという問題です。悔い改めるから恵み(救い)が与えられるのか、それとも、恵みがまず与えられ、それが悔い改めを引き出すのか。旧約聖書に詳しいメンバーから、前者(悔い改め→恵み)はヨナ書に典型的にみられ、後者(恵み→悔い改め)はたとえばホセア書に見られる、といった発言などがあり、なかなか啓発的です。もし悔い改めないと見つけられない、ということになると、ハードルはずいぶん高いなあ、という率直な発言もありました。
このように今回のたとえ話を「見つけられる側」から考えていくと、どうしたら見つけられるのか、といった類のことが話題になります。ただそうしたやりとりを聞いていたメンバーから、今回のこの2つのたとえ話は、神が必死に探すということにこそポイントがあるのではないかという指摘がありました。「見つけられる側」ではなく、「見つける側」のことが書いてある。見つける側は、どんなに小さなものが失われた場合でも、それを捨て置かない。必死になって探す。そして結局見つける。そのことを読み取るべきではないか。つまり神の愛こそが描かれている。そういう指摘です。私も聞きながら、そのとおりだと思いました。神のこの必死さは、迷子になったわが子を探す親の態度と類比的。そのように語る註解者もいます。迷子になった子を探す親の必死さという言い方は、人口過多の時代に子ども時代を過ごし、人混みでの迷子の恐怖を何度か経験した私などにはたしかにピンときます。若い人はポカンとするばかりでしょうが。ともかく神は失われたものを必死になって探す。
しつこいようですが、三たび疑問
2つのたとえ話とも、神の愛が主題となっている。これが聖研での話し合いの結論でした。それはそのとおりなのですが、最初にふれた「悔い改め」についての疑問は残り続けます。神はたしかに必死になって隅から隅まで探してくれる。ところが、イエスの言によると、天の喜びつまり神の喜びの理由は、「悔い改め」にこそある。単に迷子が見つかった、万歳、ではどうもないようだ。こちら側の態度(「悔い改め」)が求められているようにしか見えない。神の愛一辺倒というわけにはいかない。「悔い改め」が話をややこしくする。そんな気にさえなってくる。真人間になってようやく喜ばれるということか。しかし真人間になるとは、いったい何をすることか。神の愛だけでは足りないのか。人間の側も頑張らなくてはいけないのか。
それに、そもそも「悔い改め」はたとえ話のどこにも書いていない。なぜそれがイエスの解説時に入り込んでくるのか、という最初に述べた疑問も消えない。
ルカと悔い改め
ルカによる福音書には、総じて「悔い改め」への言及が目立ちます。一つだけ例を挙げると、徴税人を弟子にしたときのイエスの発言。このエピソードは、共観福音書すべてに共通しているので(マタイ9:9-13、マルコ2:13-17、ルカ5:27-32)、ちがいを見るのに都合がよい。イエスは徴税人(マタイあるいはレビ)を弟子にした後、みんなで食事をする。そこにいたファリサイ派たちが「なぜあなたは罪人や徴税人と飲食を共にするのか」とクレームをつける。それに対してイエスは、「わたしが来たのは罪人を招くためだ」と言った。マタイとマルコにおけるイエスはそのように発言しているだけですが、ルカでは、「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」となっています。ルカは「悔い改めさせるため」という句を付け加えたようです。ルカには、「悔い改め」への固有の関心がある。そんな気がします。
今回のところで、「悔い改め」という言葉が入っているのもそのせいかもしれません。ルカに「悔い改め」への関心があるから、編集時にこの言葉を滑り込ませた。そのように理解すれば、一応わかったような気になります。ルカと悔い改めという言葉のつながりの濃さはわかった。しかしわかったのはそこだけです。この説明は、たとえ話の内容とイエスの解説との対応関係如何という問題意識にはヒットしません。たとえと解説のミスマッチの問題は先送りにされるだけです。
状況設定
たとえと解説のミスマッチの問題に接近するために、2つのことに注目しておきたいと思います。1つは悔い改めという事象そのもの、もう1つは、イエスの2つのたとえ話がなされていた状況です。
悔い改め(メタノイア)とは、よく言われるように、方向転換のことです。神の方を向く、ということです。人間は放っておくとあらぬ方向を向き、そちらに走りがち。何かのきっかけで180度方向を変え、神の方向に方向転換をすること、これが悔い改めの原義です。自らの悪行を反省する、行いを改める、ということも含まれるかもしれませんが、第一義は方向転換です。これが1点目。
もう1つは、イエスがたとえ話を語っていた場というか状況のことです。15章1節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」とあります。「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」と書いてあるとおり(ルカ12:1)、足の踏み場もないほど大勢の群衆がイエスの周りにはいたようです。その大勢の人々の中で、この場面でフォーカスされているのは、徴税人と罪人でした。大勢の人びとのなかで、ローマの手下となって税金取りに奔走する人々(徴税人)、さまざまな理由で律法の規定どおりに生きられない人々(罪人)にピントが合わせられています。福音書記者(ルカ)の構えるカメラには、群衆の中にいる彼らの顔が大写しになっている。福音書記者にとっても、共同体の嫌われ者たちが、吸い寄せられるようにイエスのもとに来てしまうことが興味深かったにちがいない。
なぜ彼らはイエスのもとに来たか
共同体からマイナスのラベルを貼られていて、まったく相手にされない彼らが、なぜイエスのもとにやってくるのか。福音書によれば、洗礼者ヨハネのもとにもたくさんの人がやってきて、罪を告白し、洗礼を受けたといいます(マルコ1:5、マタイ3:6)。これと同様に、徴税人、罪人たちも、自らの罪を告白するためにイエスのところにやって来たのだろうか。福音書にはそうした記述は一切ありません。イエスは集まる人々に何かを求めたりしないし、集まる人々も何かをするために来たわけではないようです。彼らはむしろイエスの行為の客体であり、何かをするためにというよりは、病の治癒をしてもらうために、あるいは単に話を聞かせてもらうために来る。そう考えるのが自然です。
いまここで注目している「徴税人」や「罪人」の場合には、病などの特記事項は記されていません。「話を聞こうとして」やって来たと記されているだけです。この場合、「話を聞くこと」に何か具体的な効用が期待されているとは考えにくい。何かを得るためにイエスのもとに来る、話を聞く。どうもそういうことではないようです。イエスが語る内容に個別の興味があり、そこから何か得るものがありそうだから来る。現代の忙しい人はみんなそのようにして人の話を聞きに行くわけですが、彼らはどうもそうではない。明確な目的意識をもっているようには思えない。話す人がイエスだから来る。ただそれだけだったように思います。何が得られるかとか何か教えられるものがあるとか、そういうことではなく、ともかく語る人がイエスだから来る。声を聞きたいから来る。そういうことだったのではないかと思います。彼らは単純にイエスの傍にいたかったのです。先ほど、「吸い寄せられるように」やってくると書きましたが、それはこうした事情を指してのことです。
いま上に述べたことがあたっているとして、ではなぜ徴税人や罪人は、イエスの傍にいたかったのか。それが気になります。昨年末のクリスマス講演会でもこのことについてふれ、イエスの傍にいると安堵するからではないかと述べました(「♯45 解くことをめぐって/2024年度クリスマス講演会」)。ギスギスした世の中に住んでいて、少しも心の休みどころがない。世間の目は冷たく、厳しい。つねに緊張して身構えていなくては生きていけない。徴税人や罪人の心象風景はこんな感じではないか。こうした彼らが、理由のない安堵を与えてくれる空間に引きつけられるのは、当然だと思えます。イエスの前に行くときには緊張は要らない。イエスの視線は世間の視線と異質なので、少しも構える必要がない。自然と身も心も緩んでくる。イエスの傍に来た彼らはこんな感じだったのではないかと思います。つまり彼らはイエスに接することをとおして神の愛を知った。神の温かみを知った。構えなくてもよい、緊張しなくてもよい、そのままでよい。そう言ってくれる方に出会った。
徴税人、罪人の悔い改め
先ほど、悔い改めの原義は神の方への方向転換であると述べました。そう考えると、イエスの愛に出会って安堵する徴税人、罪人らは、まちがいなく、神の方へと方向転換していることになります。イエスに出会う前は、あらぬ方向を見てあくせくしていたのでしょう。しかし今は何を措いてもイエスの傍に行き、イエスの話を聞きたいと思っています。彼らは変わった。180度変わってしまった。
イエスの愛にふれて彼らは変わった。悔い改めの原義に即して言えば、彼らはそのようなかたちで悔い改めを実践したことになります。
いま起きていることをたとえ話で語る
私たちはたいていの場合、イエスのたとえ話とそれについてのイエスの解説を、「これから起きること」として聞いています。今後迷子になったり、紛失した銀貨になったりすることもあるだろう。そのとき、悔い改めているならば、見つけられ、拾い上げられ、それを神は喜ぶ。だから悔い改めに注意しておかなくてはならない。大方の人はそのようにイエスのたとえ話を聞くのではないかと思います。これからのこと、これから自分に起きること、そこに注意の焦点がある。
ですが、いま徴税人や罪人に関して述べたことに依拠するなら、まったく別の理解も可能です。それはつまり、イエスのこのたとえ話は、これからのことではなく、いまここで起きていることを解説しているという把握です。いまここで起きているとは、いうまでもなく、いまここ、イエスのところに吸い寄せられるように来ている徴税人や罪人に起きている、という意味です。彼らはイエスの愛にふれて心底安堵したのでした。180度方向転換したのでした。「今ここで起きている」とは、その方向転換、その悔い改めを指します。イエスは目の前にいる彼らを見ながら、迷子になった羊の話、無くした銀貨の話をしたのではないか。迷子になった羊も、無くした銀貨も、あなたがたのように見つけられたのだ、と。「見つけられる」とはこの場合、イエスに出会うことを意味します。イエスに出会うことによって、徴税人や罪人は、迷子の羊や銀貨が所有者のもとに戻ったように、本来の居場所つまり神の愛のある場所に戻るわけです。それは彼らにしてみれば、180度の方向転換なのでした。
彼らのことを念頭に置けば、見つけられることが同時に悔い改めであることが、すんなり頭に入ってきます。ここでははじめから、たとえ話のなかに「悔い改め」への言及がないのに、解説において唐突に悔い改めが現れるのが解せない、と語ってきました。ですが、イエスが、目の前にいる徴税人や罪人のことを語っているとすると、たとえ話に「悔い改め」に該当する内容がないのは当然です。徴税人や罪人にとっては、見つけられることがそのまま悔い改め(方向転換)だからです。見つけられたことを十分語ることが悔い改めを語ることにもなるからです。イエスは彼らのことを見ながら、見つけられること=悔い改めが、天にとっても大きな喜びであると語ったのだと思います。