
#10 神の介入と人間の責任/サムエル記上第23章
【2023年10月24日開催京都大学聖書研究会の記録】
サムエル記上23章を読みました。22章に続き、23章でも、引き続きサウルの追走とダビデの逃亡が描かれます。不思議なことにこの章では、地域住民がダビデをサウルに売ろうとするさまが描かれます。ダビデは国民的な人気を誇るヒーローのはずでしたが、風向きが変わったのか。またこの章ではヨナタンとの新たな契約も描かれます。最初に簡単に物語をなぞっておきます。
1 あらすじ
①ペリシテ人がケイラの町を襲い略奪したという知らせを聞いたダビデは、ペリシテ軍と戦い勝利し、ケイラの住民を救った。
②「サウルがケイラを攻撃し、ケイラの幹部がダビデをサウルに引き渡す」との託宣を受けたダビデは、危ないと思ったか、ケイラの町を脱出、荒野に逃亡。
③ダビデはジフの荒野でヨナタンと、「サウルの次の王はダビデ」という内容の契約を結ぶ。
④今度はジフの荒野の住民が、「ダビデを見つけ出し、王に引き出すのは我らの任務」とサウルに協力を申し出る。
⑤危ないと思ったダビデはジフからマオンの荒野に移動。サウル追走するも、ペリシテ人侵入との報を受け、その現場に急行してしまう。ダビデ助かる。
2 少し詳しく
上記①~⑤について少し詳しく見ていきます。
①の場面でダビデは3度主に託宣を求めます。ダビデはこれまでたびたび武勲を上げていますが、王ではないし、それどころか逆賊の汚名を着せられ逃げ回っている立場ですから、ケイラの町が「助けてくれ」と言ってきても、動くべきかどうか。兵たちも「正規軍に追われる私たちがペリシテと戦うなんて土台無理」と至って弱気です。という次第で、悩ましい。そこで「助けるべきかどうか」を2度主に尋ねたわけです。ヤハウェからはゴーサインが出ます。
②ダビデがケイラの町にいることを知ったサウルが、好都合とばかりケイラを包囲し攻撃しようとする。ダビデはサウル来襲の予感がある一方で、ケイラの町の人たちにも全幅の信頼はおけないと感じている。彼らは私をサウルに売るかもしれない。ここでも状況は悩ましい。そこでヤハウェに3度目の託宣を求める。その結果、これからサウルが攻撃してくる、そして何と、自分が救ったケイラの住民が自分をサウルに引き渡すという。逃げるしかない。
③この後逃亡劇が続くわけですが、その全体が23:14にひと言で要約されています。「神は彼をサウルの手に渡さなかった」。逃亡劇の途中でどういうわけかヨナタンが登場し、18:3、20:16に続いて三度目の契約をダビデとの間に取り結ぶ。サウルはかつて「エッサイの子〔=ダビデ〕がこの地上に生きている限り、お前〔=ヨナタン〕もお前の王権も確かではない」(20:31)と心配をしていたわけですが、ヨナタン当人はここで「王は私ではない、ダビデ、あなただ」と言って、自らの王位を手放してしまうわけです。
④ジフの住民はわざわざサウルのところに出かけて、忠誠を誓うかのように、協力を申し出ます。サウルはこの申し出を大いに喜んだようで、主の祝福を祈ったりしている。「さらに詳しく調べてくれ。協力してダビデをつかまえよう」。ここでも地域住民はダビデを助けるどころか、サウルに通じている。
⑤ダビデは事が起きる前にジフから逃亡します。荒野を舞台に逃亡劇(サウルからすれば追走劇)がまた始まる。「ダビデはサウルを引き離そうと急いだ」(26節)とあるように、ダビデは逃げるばかりで、サウルの正規軍と戦おうとはしていない。
3 なぜ地域住民はダビデを売ったのか
最初にも書きましたが、この章では、地域住民がダビデを売るという話がとても印象的です。ケイラという町はダビデによって助けられたわけですから、ダビデには感謝するしかないと思いますが、現実はどうもそうではなかったらしい。勘のよいダビデは怪しいと感じていたようです。だからこそ心配してヤハウェに尋ねている。「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」(11, 12節)。ヤハウェが「引き渡す」と答えたので、大慌てでケイラを脱出しました。ジフの人々とサウルのやりとりも不思議です。ジフの人々は、英雄ダビデが自分たちのところに来たことをきっかけにして、ご注進、ご注進とばかりにサウルのところに出かけていく。
ケイラのケースでもジフのケースでも、実際に事は起きてはいない。ダビデは引き渡されなかったし、またつかまえられもしなかった。サウルが評したようにダビデは「非常に賢い」。危険を察知して自分から先に動いたようです。その賢明さゆえにダビデは危地を脱したわけですが、地域住民が反ダビデ、親サウルの旗を掲げようとしていたことはたしかです。なぜなのか。なぜヒーローであるダビデを売ろうとしたりするのか。聖研の場では、みんなサウルが怖かったからではないか、との意見が出ました。私個人はそのことに思いが至っていませんでしたが、言われてみると、たしかにそのとおりです。サウル正規軍は前章(22章)で、祭司85人を殺し、ノブの町の「男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけた」。その凄惨な殺戮を知ったケイラの町の人々やジフの人々が、ダビデの味方をしたらとんでもない目に遭うと考える。大量殺戮を実行した王サウルを心底恐怖する。これは十分にありうる話ではないかと思います。
4 サウルの変容
サウルは周辺住民から徹底して怖がられる王となってしまったようです。ノブの町でのジェノサイドを知ると、そういう地域住民の反応も合理的である気がします。それにしてもサウルの変貌ぶりが印象的です。以前にも少しふれましたが(「#5 サウルの変容」)、サウルははじめ、権力志向とは無縁の、どちらかと言えば内気な人物でした(10:22参照)。その彼が時間の経過とともに変貌していく。異民族との戦争で「向かうところどこでも勝利を収めた」(14:47)と評されるサウルは、軍事的にも有能だったようですが、そのことがむしろ仇になったようで、神ヤハウェとの間に隙間風が入り始めます。
殲滅せよとの命令を勝手に解釈し直して、敵方アンモン人の王アガグおよび最上の家畜を生かしておいたりする(15章)。サウルのなかでは、神の言葉は軽い。彼は自身の深部で神とつながっているわけではないようだ。かつてサウルに油を注いだ預言者サムエルもすっかり怒ってしまい、死ぬまでサウルに会おうとはしなかった、といいます(15:35)。ダビデと同じように、ペリシテ人と戦うべきか否かについて託宣を求めているのですが(14:37)、神はスルーしています。ダビデの場合とはひどくちがう。加えてダビデへの嫉妬がある。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った」という歌を聞いたときにサウルのうちに生じた激怒。その激怒を手がかりにサウルに住み着く悪霊。このようにしてサウルは自らの権力に固執し、鬼の形相で大量に同胞を殺戮し、ダビデを追い回す人になってしまった。
5 神の介入と人間の責任
聖研の場でみなさんとお話をしているときに、一度油注がれた人は後々までずっとOKというわけではないのですね、という感想が出されました。ほんとうにそのとおりだと思いました。サウルもたしかにサムエルによって油が注がれました(10:1)。この時点で正式な王の候補者となったわけです。しかしその後のサウルを見ていると、そのことは何も確実なことを約束しない、ということを感じます。油はたしかに注がれた。神はそれを承認した。しかしだからといって、その人が特別に恵まれた人として生きるとは限らない。その後のことはその人の責任。聖書はそのように語っているように思います。
また次のようなお話も出ました。ケイラの町にいるダビデが「サウルが攻撃してくる」という神の託宣を聞いたとあるが、もし神が神であるなら、「サウルが下ってくる=攻撃してくる」と予告するだけでなく、サウルに攻撃させないようにすることもできるのではないか。そのように現実に介入することも神ならできるのではないか。
たしかに人間をそのように思いどおりに動かしてこそ神、という見方もあるとは思いますが、ヤハウェがそのように介入する、と書かないところが旧約聖書なのだろうと思います。もし神がそのようなかたちで現実を動かすとしたら、人間はただの操り人形ということになります。旧約聖書に登場する人物たちは、徹底して自分で判断し、決定する。そうであるからこそ、責任という観念も生じ、神による裁きという事態も生まれるということになるのではないか。そのように考えました。