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#1 苦痛転写の意味/ルカによる福音書9:37-43, 43-48

【2023年5月30日開催京都大学聖書研究会の記録】
今回はルカによる福音書9:43-48を読みました。それに先立ち、前々回読んだ9:37-43に出てくるイエスの苛立ち(9:41「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」新共同訳)についての、私の受けとめをお話ししました。その大まかな内容は以下のとおりです。

1 イエスの癒しと苦痛転写


イエスの癒しに特徴的なのは、癒しに際して「深く憐れむ」という事態が先行する点だ。「深く憐れむ」とは、内臓が食われることを原意とする表現で、イエスは癒しにあたって、癒される者の苦痛を自分の身に帯びてしまうのだった。イエスの癒しの特徴は、この非意図的な「苦痛転写」にある。「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す」権能を授けられた弟子たち(9:1)についても同様だっただろう。

2 苦痛転写がなかった


ところで山上の変貌を経て地上に降りてみると、そこには癒しが行われていない現実があった。癒しがなされない。それは癒しの前段階の苦痛転写がないことを意味する。どういうわけかこの場面で弟子たちには苦痛転写がなかったのだ。てんかんの子の苦しみは彼らの身に転写されなかった。自分の痛みにはならなかった。他方、いうまでもなく父親にとってはこの苦しみは自分の苦しみだった。つまり年来の十分な苦痛転写があった。一刻も早く苦痛からの解放を望んでいたにちがいない。ただ彼には他の群衆一般と同様、弟子たちに転写がないことはわからなかった。転写がないから癒しが起こらないとは思わなかった。見えないことはわからないのだから、それは当然かもしれない。

3 イエスの苛立ちの理由


苦痛転写とはふつうの言葉でいえば、愛である。イエスが山から下りてきたとき、そこには愛がなかったし(弟子たち)、最も大切な愛が欠けているという認識が父親にも群衆にもなかった。イエスの「いつまで我慢しなければならないのか」という激しい苛立ちの原因はここにある。最も大切なこと(愛=苦痛転写)がここにはない。それゆえの苛立ちだったのではないか。

苦痛転写すなわち愛は、当人の意思によって起こしたり起こさなかったりすることはできない。このこと自体は神の領分に属する事柄だ。だから「いつまで我慢しなければならないのか」と言われても、弟子たちは呆然とするばかりだ。自分たちには如何ともしがたいからだ。祈るしかない。だからこそマルコやマタイでは、祈り(「祈りによらなければ」)あるいは信仰(「からし種一粒ほどの信仰」)が問題にされたのだと思う。



少し長くなりましたが、以上のようなことをお話ししました。
9:43-48では、弟子たちの順位争いのことが話題になりました。愛(苦痛転写)が足りないと言われたそのすぐ後に、自分たちの順位が気になるというのですから、困ったものです。しかしそれが人間の現実かもしれません。なぜ弟子たちは順位が気になりだしたのか。この問いをめぐって、さまざまな意見が出ました。癒しの実践が能力の問題に変換されたのではないか、「山上の変貌」や「会堂長の娘の癒し」(8:40-56)にペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人のみが同行ないし同室を許可されたことと関係しているのかもしれない、等々。後者に関しては、だれがイエスに最も近いかが弟子たちの関心の焦点となっていた、という事情があったかもしれません。


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