♯23 「神の前に豊か」とは何か【京都大学聖書研究会の記録23】
【2024年4月23日開催】
ルカ福音書12:13-21を読みました。今回のテキストは、相続あるいは作物の保管のことが話題となっていて、参加してくださったみなさんが、個人的な経験を披歴してくださったりして、身につまされるとともに、なかなかに楽しい会となりました。ただテキストの信仰的な意味については、漠然とした理解以上に進むことが難しく頭を抱えました。私たちの会では、正直言って、こういうこと、よくあります。大変よくあります、というべきか。全員素人の会なので、致し方ないところもあります。とはいえ、みなさんの貴重なお話を聞いているうちに多少視界が開けるところも出てきましたので、そのあたりを中心に報告することにします。
今回のテキストの内容
ルカ福音書12:13-21は、内容的には二つの部分に分かれます。すなわち①群衆の一人が、相続問題の解決をイエスに求めるというエピソード(13-15)、②そのエピソードを受けてイエスがしたたとえ話(16-21)。たとえ話の内容は次のようなものです。金持ちが倉に入りきらないほどの収穫を得た大豊作の年に、新しい大きな倉を建てて収穫物すべてをそこにしまい込み、これでもう大丈夫、と思った。それを見ていた神が「馬鹿め、お前は今夜死ぬ」と言った。
相続の相談をした人
少し付け加えておきます。まず①から。「私の相続問題を何とかしてください」と言ってきた人に対し、イエスはつれなく断ります。私はあなたの裁判官、調停人ではない、と言って。そして「貪欲に注意せよ」とそこにいる人たちみんなに語った、という。「貪欲」という言葉が突然出てきます。読む方は多少「?」という気分にもなりますが、おそらく次のような事情だったのではないか。相談者は「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(新共同訳)と言っているだけなので、言葉の上ではそこに貪欲の影はない。遺産分配に関しては、兄2/3、弟1/3というルールがあったようですが(申命記21:15-17)、そのルールでは片付かない類のトラブルが、兄弟間であったのでしょう。だからこそイエスに訴えている。そのトラブルの内容、訴える様子、雰囲気にイエスは貪欲の欠片を見出したのではないかと思います。
みなさんと話し合っているときに、この相談者はきっと金持ちだったにちがいない、という意見が出ました。②のたとえ話で金持ちが出てくるのは、そのためだ、というのです。②における「金持ち」という設定は、①での相談者の属性に対応している。①の出来事を受けて②が語られている。この指摘はあたっていると思いました。 たしかにそう考えると、つじつまが合う。イエスが相談者に「貪欲」の欠片を見出すというのも、十分ありそうな話だと思えてきます。富裕な人は、十分お金をもっているのだから富への執着があまりない、とお金に縁のない人(私ですが)は考えますが、実際はそうではない。富裕になればなるほど新たな富への欲望がかきたてられる。これが真実のようです。①の相談者がお金持ちだとすると、イエスがこの人に貪欲の欠片を見出すのは、十分ありうること、という気がします。ちなみに新約聖書において、「貪欲」の評価は相当に低い。貪欲は偶像崇拝、という厳しい指摘があったりします(コロサイの信徒への手紙3:5)。貪欲に含まれる際限のなさが問題だということなのでしょう。いったんそれに取りつかれると、神などどこかに吹っ飛んでしまう。
お金持ちの何が問題なのか
次いで②について。②のたとえ話の主人公、豊作時に古い倉を壊し新しいより大きな倉を建て、「これから先何年もこれで大丈夫」と思った金持ちは、いったい何が悪かったのか。イエスはこの男の何がまずいと言っているのか。聖研の話し合いで、そのことがひとしきり話題になりました。すぐ考えつくのは、❶この人は大豊作で得た富(この場合作物)を自分だけのものとして抱え込んでいる点。抱え込むために大きな倉さえ建てた。次に考えつくのは、❷倉に作物をしまい込んで、これだけ蓄えがあればもう大丈夫、これから何年も生きていける、と思った点。自分の命は自分が隅から隅まで管理できる、と思っているかのよう。
❶も❷もたしかにまずい。❶を見ると、この人の場合、他人はまったく視野に入っていないようです。困窮している人、明日の食べ物も確保できない人はいたでしょうが(現代日本でも炊き出しで命をつないでいる人はたくさんいるのですから)、そういう人のことは眼中にないようです。この自分中心性は神の望むところではない。
❷これだけあればもう大丈夫と思うとき、この人はこの先何年か生き続けることを当然の前提にしています。自分が生き続けるのは当然。生き続けるにあたって、これだけの物質的な余裕があればもう働かなくてもいいくらいだ。そう思っているわけですが、この人が「当然の前提」としていることはいわば神の領分の事柄です。つまりこの人は勘ちがいしているわけです。「今夜、お前の命は取り上げられる」と宣言されて、その勘ちがいがあらわになります。新共同訳で「取り上げられる」と訳されているところは、原文では能動態が使われていて、直訳的に訳すと、〔神は預けていたものを〕取り戻す、ということになります。もともと人間のものではない命。単に預けられたものにすぎない。それを神が取り戻す、というわけです。
情状酌量の余地はあるか
財産の所有についても命の所有についても、たしかにこの人は神の非難を受けるに値することをしています。ただその一方でこの人にも情状酌量の余地はあるような気もします。金持ちを弁護するのはあまり気が進みませんが。財産を自分のためだけに使い、自分の安全を確保して満足している姿は、たしかに褒められたものではない。ただ社会保障制度などがまったくない時代、豊作の実りを蓄え、この先何年分かの安心の材料にする、というのは、人情としてよくわかる話ではないか。また、この先何年か生きることを当然のこととしていたことが責められているが、どんな人でも、年次計画とか将来設計とかを立てようとするときには、こうした前提に立っている。この先何年か生きることを当然の前提にしている。だからこうした前提についてあまり厳しく考えると、「計画」とか「将来設計」そのものが罪、といった話になりかねない。
創世記に出てくるヨセフは豊作の後に飢饉がやってくることを預言し、その飢饉に備えて豊作時にできるだけ備蓄を増やすようファラオに進言しました。それを機に、ヨセフはファラオの信用を得て宮廷で責任ある地位につくことになります。そして実際、その預言どおりのことが起こったのでした(創世記41章)。蓄えをして将来に備えるという点に関しては、この金持ちはヨセフとさして変わらない。ですが、イエスの話のなかでは、金持ちは厳しい評価を受けます。何が否定的評価のポイントなのか、もう少し考える必要がありそうです。
神の前に豊かになろうとする
今回のテキストの末尾に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉が出てきます。「このとおりだ」というのは、神に死を宣告されたことを指します。この場合、死の宣告あるいは死そのものは、罰というわけではないようです。自分のために富を蓄えていたことの罰として死が与えられるのではない。そうではなく、安心だと思っても死は突然やってくる。命は人間に制御できない。そのことを指して、「安心だと思っても、見よ、このとおりだ」と言っているように思います。ここではそう解しておきます。
引用の後半部分、「神の前に豊かにならない」とは何か。これまでの検討に照らせば、「神の前に豊かにならない」ことの具体的な内容は、自分中心であること(❶)、生命を自ら管理すること(❷)、ということになりそうです。イエスはむろん、神の前に豊かになることが望ましいという前提で話をしています。だからこの言葉を聞いた者たちは、すぐに、ではどうしたらよいかを考えます。神の前に豊かになるにはどうしたらよいか。「豊かにならない」の逆を考えればよいのですから、簡単です。「神の前に豊かになる」には、自分中心性を脱却し、生命の管理権を神に移譲すればよい。つまり困窮している人と財産を分有し、自分の将来については、「なるようになるさ」と肚をくくる。これが「神の前に豊かになる」ことの内容と考えられそうです。
たしかにそのとおりです。しかしどこかしら、あざといとの印象が残ります。金持ちの話を聞き、その人が「神の前に豊かでない」と評価されていることを知った。ならば、その金持ちの歩みを巻き戻して、そういう結末に至らないように注意深く選択をしていけばよい。これで「神の前に豊かになる」。万々歳。これはやはりどこかおかしい。何だか小手先で対応している感じがします。全力でボールを投げ込むのではなく、ボールを置きにいっている。そんな感じです。こういう人が「神の前に豊か」な人、神の喜ぶ生き方をしている人とは到底思えない。
神の前に豊かであること
イエスはもっと根本的な態度を問題にしているのではないか。あれをする、これをしない、といった行動次元の話ではなく、それ以前の態度をこそ問題にしているのではないか。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と語られている部分にもう一度戻ります。新共同訳で「神の前に豊かにならない」と訳されている箇所は、直訳すると、「神の前に豊かでない 」となります。つまり新共同訳は、「変化」(‥になる)に言及しているのに対し、原文は「状態」(‥である、‥でいる)を語っているということになります。「変化」が問題だということになると、ではどうしたらよいか、がすぐ次のテーマになります。「豊かにならない」と言われた。では「豊かになる」にはどうしたらよいか。先にみたとおりです。「状態」について語っているとすると、行動以前のより根本的な精神態度(豊かである)を問題にしているということになります。このことを手がかりにしてみます。
所有権が神にあること
神の前に(神に対して、あるいは神のために)豊かであるとは、どういう態度か。たとえ話の金持ちの例でいえば、自分の得た収穫の所有権がすべて神にあるとみなすことができるなら、金持ちは「神の前に豊かである」のではないか。自分の労働でたくさんの収穫を得る。自分は豊かになる。その収穫物の所有権は自分ではなく、神にあるのだった。だから収穫がたくさんであればあるほど、神は豊かになる。そしてそのことを神は喜ぶにちがいない。このようなかたちで人の富の蓄積を神は喜ぶに至る。人は豊かになり、神もまた豊かになる。こうした事態を指して「神の前に豊かである」と言っているのではないか。そんな気がします。
肝心なことは、人がその所有をすべて神に委ねているという点です。所有権は神にある。人はただ神が所有するものを預かっているだけで、いわば管理権のみが認められている。これが求められている根本的な態度ではないかと思います。
人間が自らの努力によって得た財産を「神から与えられた」と表現することは、今でもあるかもしれません。自分ではない。神がこのことをなしたのだ。こういう表現は、(少なくともキリスト教界隈では)今でも現役ではないかと思います。ですが、今ここで注目している「神の前に豊か」という精神態度は、これとはいささか異なります。「神から与えられた」、「自分ではない、神がなした」というとき、その人は主体は誰かを問題にしています。主体は自分ではなく、神だ。そう言っているわけです。ですが、「神の前に豊か」の場合、問題は所有権です。所有の主体が神だ、と言っているわけです。「自分ではない、神がなした」という場合には、所有権が自分にあることは自明なのでしょうから、神を所有権者と認めるのは、より厳しい態度と言えそうです。
管理主体としての人間
所有権が神にあるのですから、管理主体としての人間も、好き勝手な使用はできないはずです。たとえ話の金持ちは、わが身の安全のために、全収穫物を大きな倉にしまい込んでしまいました。これは明らかに越権だろうと思います。管理者は、所有権者に意向を尋ねつつ、所有権者の喜ぶ方向で使用方法を決定することが求められる。ふつうの言葉でいえば、神が喜ぶことは何かを祈りつつ、求めつつ、ことを決めていくということになります。
いま述べたことは、法によって所有権が保護されている社会で生活する人には、架空の話に聞こえるかもしれません。たしかに私自身も、自らの所有権が侵されたら、神の報復を待たず、法に訴えることは確実です。つまり所有権は一個の社会的事実であり、それ以上でも以下でもない。そのことは全面的に認めたいと思います。法制度が機能している限り、所有の問題は法制度の平面ですべてが解決されるだろうと思います。そのことは当然だろうと思いますし、また至極健全なことだと思います。その上で、なおかつ私個人は、あらゆる人間の所有を根本において支える神の所有権という考えには、圧倒的な真実が宿っているように思えます。その意味でイエスの言葉は、今日の私たちにとってもリアルな言葉として聞こえているように思います。
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