#3 寛容なイエスと妥協しないイエス/ルカによる福音書9:49-62
【2023年6月20日開催京都大学聖書研究会の記録】
ルカ福音書9:49-62を読みました。
この範囲には3つのエピソードが含まれていて、それぞれに関心内容が微妙に異なっており、それに応じてさまざまな話題が出ました。
1 寛容なイエスと妥協しないイエス
最初のエピソードで描かれるイエスは、自分の名前が使われることに目くじら立てるな、どうでもよいではないか、というイエスであり、まことに寛容です。真ん中のエピソードつまりイエスがエルサレムに向かう決意をしたことを語るエピソードでも、イエスは、一行を歓迎しないサマリア人の村を「焼き滅ぼしましょうか」と憤慨する弟子を宥める役です。そうカリカリするな、と言っているかのようです。実に寛容。が、最後のエピソードでは、イエスに従おうとする人に「人の子には枕するところがない」「死者に死者を葬らせよ」「鋤を手にしたら後ろを見るな」と語る。イエスに従うことについてのイエスのこれらの言葉は、まことに厳しい。弟子たちが「はっきりさせなくてはいけない」といきり立つ事柄に関しイエスはどちらでもよいのではないかといい、人が「何とか折り合いをつけなくては」と思う事柄(たとえば葬儀、たとえば挨拶)に関し、イエスは截然と区別をし、一切妥協しない。この対比をとても面白く感じました。
弟子たちはイエスによる受難予告を2回聞いているのですが(9:22、9:44)、その意味もなんだかピンと来ていないようです。受難の話を聞いたすぐ後に順位争いをしますし、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったりしています。預言者エリヤを気取っているようにも見え、ずいぶん偉そうです。傲慢にも見えます。ただこの箇所をみなさんとお話しているときに、傲慢ではないのではないかとの指摘がありました。イエスの受難予告の意味もまったく解せない弟子たちが、先生の思いを忖度し、先生の喜びそうなことを言ってみたのではないかとの指摘です。イエス先生ならこのサマリア人の冷淡さをさぞや怒っているにちがいない。ならばその怒りを代弁してやろう。この間は(山上では)エリヤと一緒にいたのだから、天から火を降らせたエリヤ(列王記下1:9-15)に倣って、「焼き滅ぼしましょうか」と言ったら、喜んでくれるかも。私は弟子たちが傲慢になっているという目で読んでいたので、この指摘には虚を衝かれる思いでした。たしかにこのように受けとめると、弟子の頓珍漢さが際立つように思います。ほんとうに弟子たちは何もわかっていない。
2 湧き上がる思いを大切にする
もう一つ。これは私の個人的な感想です。最後のエピソードで描かれるイエスはたしかに厳しいのですが、イエスが相手にしているのは、「従いたい」と言う人、あるいはイエスの「従いなさい」という指示に乗ってきた人です。彼らは「従え」と言われて父も職業も捨てて従った(マルコ1:16-20, マタイ)弟子たちとはちがいますが(聖研では、この対比についての適切な指摘もありました)、「従いたい」という気持ちが湧いていることはたしかです。ただ彼らはその気持ちをすぐに行動に移せない。片付けなくてはいけないことが頭をよぎるからです。そのとき彼らは、湧き上がってきた「従いたい」という気持ちを脇に置いているかのようです。脇に置けるくらいですから、「従いたい」という気持ちが弱いのかもしれない。ただそれではせっかくの気持ちが、雲散霧消してしまうのではないか。葬儀や挨拶についてのイエスの厳しい言葉は、そのように語っているように見えます。そのときに湧き上がってきた思いを大切にせよ。これがイエスの言いたいことだったのではないか。湧き上がるということ自体が一つの恵みだからです。神さまからのせっかくのプレゼントを疎かにしてはいけない。