♯39 お返しのできない人を招け/ルカによる福音書第14章1-14節【京都大学聖書研究会の記録39】
【2024年11月5日開催】
ルカ福音書14:1-14を読みました。新共同訳では、「安息日に水腫の人をいやす」(1-6節)、「客と招待する者への教訓」(7-14節)という表題がついているところです。「客と招待する者への教訓」は、婚宴に招待された人への言葉となっている部分(7-11節)と招待する側への言葉が記されている部分(12-14節)とに分けて考えるのがわかりやすい。その区分に従って、つまり全体を3つに分けて内容を見ていくことにします。今回は、3つのパートごとに、内容紹介と気のついた点の指摘を行っていきます。
安息日に水腫の人をいやす
「安息日に水腫の人を癒す」(1-6節)に記されているのは以下のようなことです。
安息日にファリサイ派の議員の家で開かれた食事の席に招待されたイエスが、その席にいた水腫の人を癒した。水腫とは、身体中の血管の動的平衡が崩れて「細胞間隙や体腔に余剰な水分が貯留する現象」(Wikipedia による)のことらしい。外からは次のような症状が観察される。「顔が青白く四肢末梢が膨らみ、呼吸はゼーゼーと細かい気泡音を呈して少し運動しただけで呼吸困難に陥る」(同上)。このような病気持ちの人が食事の席にいて、その人が癒された。安息日に病気を治すことは認められるかどうか。病気を治すことは、一般的な仕事や日常業務をこなすこととはちがっていたから、それが安息日の例外事項(「してもかまわない」とされる活動)に入るかどうかはつねに論争の的だったらしい。ルカ福音書でも何度もこの問題が取り上げられている。「手の萎えた人をいやす」(6:6-11)、あるいは先日読んだ「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」(13:10-17)というエピソードを思い出す。今回が3度目ということになる。
イエスは、むろん安息日における治癒行為が論争を引き起こすことをよく知っていた。だからこそ治癒を行うまえに、「安息日の病気治癒は律法的に許されることなのか、どうか」を同席していた律法学者やファリサイ派の人たちに問うた。彼らは答えない。事前に論争する気はないようだ。ならばとイエスは水腫の人をいやし、「あなたたちだって、大事な息子や牛が井戸に落ちたら、安息日でも助けるだろう。それと同じだ」と自らの行為を説明した。この説明に対しても、彼らは無言だった。
聖研では、水腫という病に苦しんでいる人がなぜこの食事の席にいたのかがひとしきり話題になりました。本文にはこのことについては何の説明もないので、想像が膨らみます。この人は招待側であるファリサイ派議員の家族だったのではないか、という意見や、このファリサイ派議員は後段に提示されるイエスの勧め(「体の不自由な人を招け」)をすでにして実践していたのではないか、とかの説も出たりしてなかなかに楽しい。結局は、招待者であるファリサイ派がイエスをひっかけるためにわざわざ呼んだ、という通説的な理解に落ち着きました。今日は安息日だ、あのイエスが水腫の人間を目の当りにしたら、どう反応するだろうか。試してみる価値はあるのではないか。招待者側はこんなことを考えていたのではないかと想像されます。招待者側は、家に入ってきたイエスの「様子をうかがっていた」とありますから、この推測は当たらずとも遠からずであるような気がします。
もう一点。水腫の人をいやすときのイエスの所作が、新共同訳では「病人の手を取り」となっています(4節)。ずいぶん優しい表現になっていますが、原文では、つかむとか握るとかを意味する動詞が使われているので、「引き寄せ」あるいは「つかんで」という訳もあります。イエスは、自分をひっかけるための道具として連れてこられた水腫の人を、自分のそばに強引に引き寄せた。そのように読める箇所です。イエスは、単なる道具としてさらし者になった人を憐れに思った。それゆえ強引に正気の世界に引っ攫った。そんな感じでしょうか。
婚宴に招待された人へ
次のエピソードに行きます(7-11節)。前段の食事の席が続いているようにも見えます。そこで上席争いをする人がいた、という。イエスはそれを見て、婚宴に招待された人がどこに座るべきかについて、次のように語ります。上席に着いてはいけない、末席に着け、と。上席に着いた場合、あとから自分より上位の人間が来たら、席を譲らねばならないから。そんなことになったら恥ずかしい。はじめから末席についていれば、より上の席に移動することはあっても、下に行くことはない。これが賢明な策。
何とも処世訓的なお話で、困惑します。結局のところ、この方策をとることで守られるのは、自分自身の面目ないし名誉。「婚宴の席で恥をかかないようにする知恵」をイエスが語っていることになります。何だかイエスにそぐわない。この話の前提は、人が上席をめぐって争う、ということですが、身近でよく見るのは、上座を譲り合う、あるいは好んで下座に着きたがる、といった風景なので、その意味でも、ピンとこないところがあります。そんな話を聖研でしていると、企業生活の長いメンバーが、「上席をめぐって争う」というのは、会社内で実際に経験した話だ、だからこの前提もリアルなのではないか、という話を出され、一同思わず頷いてしまいました。
傲慢の問題
このエピソードは、最後に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というイエスの言葉で終わります。「上席に着いてはいけない、末席に着け」という心構えをたしかにイエスは語っているのですが、どうもそれが本題ではなさそうです。このエピソードの冒頭で、「イエスがたとえを話した」(7節)とあります。上席―末席の話は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という命題をわかりやすく示すためのたとえ。そういう関係になっているようです。
「高ぶる」とは自分を高くすること、「へりくだる」とは、自分を低くすること。自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる。これが直訳です。「自分を高くする者は低くされ」は受身表現ですが、ここで「低くする」主体はむろん神です。神が思う位置より自分を高く見積もっている者がいる。その人については、神がその位置を低くする。逆に低く見積もっている者については、神がその位置を高める。傲慢な人(神が思う位置より自分を高く見積もっている者)も、謙遜な人(自分を低く見積もっている者)も、神による是正を受ける。傲慢な人は必ず神によって冷や水を浴びせられ、謙遜な人は思わぬ報償を神から受ける。
こういう言葉に接すると、自分に矛先が向けられているように感じます。自分が傲慢なのか謙遜なのかを問われているように感じられます。自分自身を真実(神による値踏み)よりも高く見積もっているか、低く見積もっているか。どんな人もこのどちらの可能性にも開かれていると思います。事柄や状況によって(神の目から見て)傲慢になったり、謙遜になったりするのではないかと思います。ただ多くの人にとって、実際問題として身近で切実なのは、傲慢の方なのではないか。そんな気がします。何事にも自信をもつ。それ自体は結構なことですが、それがいつの間にか尊大に近づいたりする。他人を上から見たりする(見下すということです)。相手の事情をきちんと把握せずに、適当に助言したり、忠告したりする。ときにはお説教したりして。困ったものです。何かをするとき、自信は大いに支えになります。が、自信だと思っていたものがいつの間にか傲慢になっていた。こういうことはよくある。
人は、自己吟味・自己反省の果てに自らの傲慢に気づくというわけではありません。そうではなく、ある日突然何かのきっかけでそうなるわけです。そこに神の働きを見ることは不自然ではないと思います。思いもかけないときに、思いもかけない仕方ではっと気づく。このとき、まさに「自分を高くする者は低くされる」わけです。神はそのとき、イエスの言葉どおりの働きをしている。そのように思います。
もう一度たとえへ
先ほど婚宴に招かれた人へのイエスの言葉への困惑を記しました。何だかイエスに相応しくない。ただ、「自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる」(「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」)が、傲慢・謙遜問題への神の介入の話と理解すると、多少わかってくるところはあります。たしかに上席―末席の話でも、自分の座席がわからないまま席に着いた人が、あとから真実を知らされる、という話になっています。席のまちがいは、設定上(つまり席次を知らないという設定上)自分で見つけることができません。他人から指摘されてはじめて気づくわけです。真実を知っているのは、この場合、他人です。この感じが、「自分を高くする者が低くされる」という経験、あのハッと気づく経験に似ているような気がします。
上席―末席のたとえで想定されている主人公、つまり今後は用心して末席に着こうとしている人は、自分の名誉を後生大事に守ろうとする人ですし、ほんとうはもっと上席が自分の席、と思っている人ですから、謙遜を演技している人でもあります。こう考えると、このたとえ全体が「自分を高くする人」の例示になっているような気もしてきます。
お返しのできない人を招け
最後のエピソード(12-14節)に行きます。引き続きイエスの言葉が記されています。ここでは、「昼食や夕食の会」が想定されています。そのような宴会を主催し、客を招待する側の人が気をつけねばならないことは何か。客の選別である。友人、兄弟、親類、近所の金持ちは招いてはいけない。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招け。なぜ友人らを招いてはいけないか。それは彼らがお返しをなしうる人たちだからだ。貧しい人、体の不自由な人たちなどの場合は、その反対で、彼らはお返しができないからこそ招くべきなのだ。 貧しい人、体の不自由な人たちなどを招く人については、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と言われる。
お返しのできる人は招くな、という指摘が目を引きます。招かれたら何かお返しをと考えるのは当たり前のような気がしますが、この当たり前を実践する人は客のリストから外せ、とイエスは言っているわけです。貧しい人たちを招くのが望ましいのはよくわかるけれど、だからといって何も「友人たちを招くな」とまで言わなくても。「招くな」は厳しすぎるのではないか。お世話になった友人はやはりお客として招きたい。そういう声が聖研の話し合いの中からも出てきました。
贈与―返礼のシステムによって見えなくなるもの
こういうときは、発言を少し抽象的な水準からながめてみるとよいのではないか。その水準でイエスの発言の趣旨を探ってみます。イエスはなぜお返しのできる人たちを招くな、と言うのか。それは彼らを招くと、その返礼能力のゆえに、贈与―返礼のサイクルが始まってしまうから。今回はウチが招いたから、次回は先方、順番から言うと、その次はウチね。こういうかたちで贈与と返礼のシステムが維持されていく。ではこのシステムが維持されると何か具合が悪いことがあるのか。ある。だからこそイエスは招くな、と言った。ではそれは何か。何がまずいのか。
贈与と返礼のシステムが維持されることによって、貧しい人、体の不自由な人たちなどがますます見えなくなる。それがまずい。イエスはそのように語っているように思えます。貧しい人、体の不自由な人たちなどは、返礼能力の欠如のゆえに(貧しい人)、あるいは、「穢れ」と見なされ、贈与とか返礼とかの枠外に置かれているがゆえに(体の不自由な人、レビ記21:18-24)、贈与―返礼のシステムの一部とはなりえない。つまり彼らはそのシステムからあらかじめ排除されているわけです。友人たちを招くということは、贈与―返礼のシステムを前提とした行為です。こうした招待は、既成のシステムを前提にし、そのシステム上の行為ですから、そのシステムを維持強化することにしかつながらない。招き/招かれを繰り返すうちに彼らのコミュニティは、ますますその連帯の度を強めます。そしてそうであればあるほど、貧しい人、体の不自由な人たちのことは視野から外れ、忘れ去られて行きます。それはまずい。決定的にまずい。イエスはそう思ったのだと思います。だからこそイエスは「貧しい人、体の不自由な人たちを招け」と言ったわけです。
仲間とか仲の良さとか、絆とか、そういったことに含まれる危うさをイエスは語っているように思います。だれだれと仲が良いと言うことは、それ以外の人間はそこには入れないと宣言することに等しい。共同体内のあちらこちらで贈与―返礼のシステムが構築、維持され、それぞれに絆が深まれば深まるほど、もともと行き場のない人たちはますます行き場がなくなる。そうであるなら、むしろ友人を招くな、親類を招くな。自分たちだけ仲良くするな。贈与―返礼のシステムの外に目を向けよ。
個々の仲の良いつながり、あるいは親族集団、あるいは地縁、それらは贈与―返礼のサイクルを繰り返し、放っておいても強固な連帯を保持していく。そしてその連帯が強固なものになればなるほど、どこからもお呼びのかからない人たちの存在はますます希薄になっていく。それでほんとうにいいのか。イエスはそのように問いかけているわけです。なぜか。イエスにとってすべての人こそが問題だからです。社会的理由や宗教的理由によって、「いない」に等しい存在になっている人たちに光をあて、彼らを招くこと、そのことにこそイエスの関心がある。だからこそ彼らを招け、と言った。既成の贈与―返礼のシステムが強化されれば、「いない」に等しい存在は、ますます「いない」に等しくなる。ならばそのシステムを強化するふるまいから離れよ。「 友人、兄弟、親類、近所の金持ちを招くな」と語ったイエスの真意は、このあたりにありそうです。
あなたは幸い、あなたは報われる
返礼のできない人を招け、という命令の後に、そのようなことをする「あなたは幸い」、そういう人は、復活のときに「報われる」とイエスは語ります(14節)。返礼のできない人を招いた場合、たしかに返礼はないが、その代わり、神からの祝福があり、ゆくゆくは復活という報酬まで与えられる。人からの返礼はないが、神からの報酬はある。神はそのあなたの行為を祝福する。これで十分だろう。そう言っているように聞こえます。
聖研の話し合いの中で、このことへの疑問が出ました。そのようなかたちで報酬への言及がなされると、「返礼できない人を招くことは、神からの報酬狙い」と言われてしまうのではないか。そしてその把握はあながち間違いではないように思う。神からの報酬狙い。果たしてそれでよいのか。こういう疑問です。イエスの言葉は、「返礼のできない人を招く」(原因)→「神からの報酬」(結果)という因果系列の話ですが、その話を聞いた側は、それを目的―手段系列にすぐに置き換えます。「神からの報酬」(目的)を得るために「返礼のできない人を招く」(手段)、というように。果たしてそれでよいのか。
愛からの招き
結論から言えば、よくない。私はそう考えます。神からの報酬を先取りし、それ目的で動こうとすることは、イエスの言葉を曲解している。イエスは、単に返礼のできない人を招く人は、神からの報酬がある、と言っているだけだからです。それ(神からの報酬)を目的にしろとは言っていない。ただそのような曲解が生じやすいのもたしかです。「‥‥すれば他所では得られぬこのような報酬がある」と言われ、その人がその報酬に格別の価値を見出すなら、その人はほぼ確実にその「‥‥」をするでしょう。今回のテキストでいえば、返礼できない人を招く。しかし神からの報酬狙いで「返礼のできない人を招く」ことが、イエスの求めに合致していないこともまた確実です。報酬狙いとは要するに、自分のため、ということだからです。自分のために「返礼のできない人を招く」。ですが、先に述べたように、イエスにとって最大の関心は「すべての人」です。それは「自分のために」の対極にある精神態度です。なので、報酬狙いは、イエスの求めに応じていることにならない。
ではどうしたらよいのか。イエスの話を熱心に聞いて、その言葉に従って動こうとすると、どうしても報酬狙いになってしまう。しかしそれはイエスの求めるものではないのでした。どうしたらよいか。この隘路を抜けるにはどうしたらよいか。それには一つしか方法がない。返礼のできない人を招くという行為が愛によってなされること。報酬などのためではなく、目の前の人への愛が働いて動くこと。愛が「招く」という行為に結実すること。これしかない。
しかしそんなことがこの自分にできるか。それほどの愛が自分にあるか。もっともな疑問です。愛の起源は神にしかないので、神の愛つまりキリストの愛にふれることを祈りつつ願いつつ生きる。それしか道はないように思います。
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