♯43 弟子になれないことの希望/ルカによる福音書第14章25‐35節【京都大学聖書研究会の記録43】
【2024年12月3日開催】
ルカによる福音書 14:25-35 を読みました。「大勢の群衆」に向かってイエスが語った言葉がまとめられていて、新共同訳聖書では「弟子の条件」(25-33節)、「塩気のなくなった塩」(34-35節)という小見出しがつけられています。
どんなことが書いてあるか
「弟子の条件」の方には、弟子になるための大変厳しい条件が二つ提示されています。一つめ。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」、「更に自分の命」を憎まないなら、イエスの弟子にはなりえない(26節)。二つめ。自分の十字架を背負ってついてこない者もまた、弟子になりえない(27節)。その後、塔の建設(28-30節)と戦争和議(31-33節)のたとえが語られます。塔を建てようとするなら、手持ちの資金で工事が賄えるかどうかをあらかじめ入念に計算する(塔の建設)。敵方の兵力が二万、こちらが一万という条件で戦争をすることになった場合、戦勝の蓋然性についてあらかじめ入念に検討を行い、勝ち目がないとなったら、戦火を交える前に和議を結ぶ(戦争和議)。この二つのたとえが、弟子の条件の話とどうつながるのか。一読しただけでは(何度読んでも?)、ピンときません。ルカはこの二つのたとえの後に、弟子の条件の話にまた戻ります。そこでイエスは、「自分の持ち物」を捨てることが弟子の条件であると言います。
「塩気のなくなった塩」の方には、塩は良いもの、塩の味がなくなったら捨てられる、という内容が語られています。この塩の話は、マタイ(5:13)やマルコ(10:49-50)でも語られていますが、マタイの方は「あなたがたは地の塩である」という文脈が確定していますし、マルコの場合は、地獄の火を語る文脈で「人は皆、火で塩味を付けられる」と言っています。どちらも少なくとも文脈ははっきりしているのですが、ルカの場合は、文脈抜きに唐突に塩の話に入るので、読んでいる側は当惑します。
いま二つのたとえ話と塩の話について感じた当惑を記しました。報告本文で論じる余裕がないので、ここで簡単にいま言えることを語っておきます。二つのたとえは、どちらも、イエスの弟子になることの準備について語っているように見えます。弟子になることは容易いことではない。相当な覚悟が必要。聖研の話し合いで、塔の建設とか戦争とかの大きな構えの話になっているのは、弟子になることが大ごとであることを表示しているとの意見が出ましたが、そのとおりであると思います。
次いで塩の話。塩はこの当時腐敗防止の食品保存剤として使われていたようです。イエスはこの塩のイメージを用いて、弟子になるという大事に臨む人たちを励ましたのではないか。君たちは塩だ。世の腐敗は君たちによって止められる。大事な働きが君たちには求められている。
憎まなければ弟子になりえない
聖研では、26節の「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命」を憎まないなら、弟子にはなりえない、というイエスの言葉に話題が集中しました。同じような内容の文言は、マタイ(10:37)やマルコ(10:29-30)にありますが、参照点としてはマタイが有用です。そこでも弟子の条件を語るという文脈が設定されているからです。
ただマタイの場合は、ルカより条件がやや緩和されている印象です。そこでは「父、母」そして「息子、娘」をわたし(イエス)よりも愛する者は、わたしにふさわしくない、と語られます。ルカにおいては、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」が出てきましたし、それらを「憎む」ことが求められていました。が、マタイに出てくるのは、「父、母」と「子供」だけですし、求められているのは、わたし(イエス)以上にそれらの人たちを愛さないことです。緩和されているとの印象は、こうした事情に基づきます。
一族全員および自分を憎むこと。これがルカ福音書に登場するイエスが、弟子たろうとする人に求めていることです。マタイの伝えるイエスよりは相当に厳しい。
憎むことと弟子になること
聖研でこのことに話題が集中したのは、「憎む」ことが弟子の条件とされているからです。親密な他者そして自分を「憎む」ことがなぜ弟子の条件なのか。出エジプト記では「あなたの父母を敬え」が、社会的規定としては、第一のものとされています。親を尊敬することは、秩序の根本となる戒め。これが旧約以来の伝統です。そうであるのに、ここではその父母を含む一族すべて、加えて自分自身を憎むことが求められている。それらを憎むこととイエスの弟子になること、この二者を滑らかな線でつなぐことは、容易ではない。
親兄弟を心底憎む者がいたとします。相手を殺しかねない勢いでこの人は親兄弟を憎んでいる。イエスによれば、その人はその時点でもうイエスの弟子です。イエスの言葉を文字どおりとれば、そうなります。殺意を充満させている人が、いったいどのような意味でイエスの弟子なのか。これは相当に悩ましい問題です。という次第で、みんなで頭を抱えてしまいました。
「憎む」をどう理解するか
「憎む」と「イエスの弟子」の間につながりをつけるために、聖研の間中、みんなであれこれ考えました。その思案の方向は、大きく分けて二つあったような気がします。一つは、「憎む」という語の意味を薄めるという方向です。もう一つは、親密な他者を「憎む」という状況に否応なく追いやられた人を想像する、という方向です。
まず第一の方向から。「憎む」を意味するギリシャ語(ミセオー)には、文字どおりの「憎む」以外に「軽視する」という意味もある。アラム語(イエスが使用していたと想定される言語)の相当単語にもそのようなニュアンスが込められている。だから本文で出てくる「憎む」を文字どおりの感情語と読む必要はない。軽視する、無視する、という認識の問題として理解したらどうか。第一の方向を支えたのは、「憎む」についてのこうした理解です。
その方向で考えを拡張していけば、次のような理解に行き着きます。親族のような親密な他者および自分に頼らないこと、依拠しないこと、それが弟子の条件として勧められている。文字どおりの「憎む」ではなく、親密な他者や自分に頼らないこと、つまり神に頼ることが、弟子の条件だ、というわけです。
こうした理解はとても合理的で、頭に入りやすい。ああ、そうなんだ、という納得もすぐ出てきそうです。ですが、聖書を読む場合、このような「合理的」な理解には注意が必要です。合理性の基準に沿って読もうとするあまり、本文が死んでしまう可能性があるからです。ごつごつした本文が滑らかになったところで、本文が死んでしまっては元も子もない。いまの場合でいえば、「憎む」を合理的に理解してしまうと、どうしても「憎む」という語に含まれている迫力というか熱量が薄められてしまう感じがします。ここではやはりギリシャ語ミセオーの第一義(憎む)にこだわった方がよいように思います。
親密な他者を憎む状況に置かれた人
第二の方向の話に行きます。第二の方向とは、親密な他者を「憎む」という状況に否応なく追いやられた人を想像する、という方向なのでした。こういう方向で考えていくと、イエスの弟子になるという道筋がより鮮明に見えてくるのではないか。これが、この方向の話を支える関心です。
家族円満な人を出発点に置くと、家族を含む親族一同を「憎む」という事態がなかなか想像しにくい。イエスの弟子になるには、親族一同を「憎む」ことが大前提、と言われても、ほんとうに困ってしまう。「憎め」と言われたからといって、憎しみが湧き出てくるものでもないし、「憎もう」と思っても、憎めるものでもない。だからここでは、そのようなケースではなく、否応なく親族一同を憎まざるを得ない状況に追いやられた人のことを想像すべきではないか。甚だしい無理解、暴力、虐待に長期間晒され、相手を憎むことしか生きるすべがなくなってしまった人。こうした経験をする人はたしかにいるかもしれない。
あるいは、イエスの弟子になると宣言しただけで、ひどい妨害を受ける人のケースを想像してみてもよい。「宗教」とか「信仰」とかの言葉を聞いただけで、怖気をふるう親。そういう親は、その道に進ませないように徹底的に妨害するだろう。親子の激しい攻防のうちに憎しみが子に宿る場合もあるのではないか。数年前から話題の「宗教二世」の場合、親が宗教の当事者で、親の迷妄にはたと気づいた子が、ときに親との間に激しい戦いを展開したりします。ここでも、憎しみは発生するかもしれない。
親密な他者への憎しみに満たされてしまった人は、この世で頼りになる者をすべて失い、イエスに向かうだろう。イエスしか頼るものがない。イエスの弟子になるとはそのようなことではないか。第二の話の要点は、このようにまとめられます。否応なく親密な他者を憎む状況に追いやられた人は、イエスの弟子たる条件を備えた人にほかならない。
たしかにこのように把握すると、「憎む」と「イエスの弟子」はつながります。ただこのつながりは細い。やせ尾根です。この尾根を歩むことのできない膨大な数の人々がいるからです。その人々はどうしたらよいか。「否応なく親密な他者を憎む状況に追いやられた人」の物語を聞いても、はあそうですか、で終わってしまいそうです。この人々はどうしたらよいか。イエスは「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命」を憎まないなら、弟子にはなりえない、と語りました。偶々そうした状況下に置かれた人がイエスの弟子になる、と言ったわけではなく、弟子たるものはすべてその道(「憎む」)を通らなくてはならないと語ったのです。「憎む」ことは、すべての弟子にとっての条件です。つまり「憎む」ことは弟子にとっての必然。イエスはそのように語っているわけです。ですので、やせ尾根にあまり拘泥することは、方針として妥当性を欠く。弟子になるための一般的な条件として「憎む」を考えたいと思います。
イエスの弟子になるとは何かという問題
「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命」を文字どおり「憎む」ことが、弟子になるにあたっての絶対的な条件である。これまでの検討をとおして、そのことが確認されました。この内容は本文に書かれてあることそのままです。つまり振出しに戻ってしまったことになります。イエスの言葉を何とか理解可能なものにしようとする試みが、あえなく潰えて、元の場所に戻ったわけです。
今回の箇所(ルカ14:25-35)は、弟子の条件をめぐるイエスの言葉がその大半を占めています。聖研では、その冒頭に置かれた内容(「親密な他者および自分を憎む」)に参加者の関心が引き寄せられてしまい、その先にはなかなか行けませんでした。というか、冒頭の内容がともかく難物だったのです。そういうわけで、冒頭のフレーズにある「憎む」→「イエスの弟子」の帰結の部分、つまり「イエスの弟子」になることそのものについては、手をつけることさえできませんでした。
この報告では、振り出しからの再出発にあたって、このことを少し考えておきたいと思います。イエスの弟子になるとは何か。これが問題です。この問いは一見簡単そうに見えます。たとえばマルコ福音書に記されたペトロとその兄弟アンデレのことを考えると、そこに何の問題もないように思える。イエスに「ついて来なさい」と言われたので、ついて行った。それだけです(マルコ1:17-20)。二人は漁師でしたが、仕事を捨て、父を捨て、イエスに従った。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)というイエスの言葉を、文字どおり地で行くような話です。「憎む」ことが要件として求められていないので、簡単に見えるということなのかもしれません。
「憎む」が求められると、その理解しがたさのゆえに思考が渋滞する。その渋滞の中から、帰結として掲げられている「弟子になる」とはいったい何かという問題が浮上してくる。このような経緯で、弟子になるとは何かという問題を考えるに至った。このように理解しておきたい。弟子になるとは何かを考えることによって、「憎む」問題にも新たな光が差し込んでくるかもしれない。そのようなかすかな期待をもって話を前に進めたい。
イエスに倣う
「イエスの弟子になる」ことについてもさまざまな角度から光をあてることができそうですが、ここでは、一つの点だけに注目します。それは弟子は師に倣うという一般的な事実です。師は定義上弟子に先行します。後行する弟子が「師のように」と思い、行動することは、当然だろうと思います。イエスと弟子の関係においてもこうした事情があったとしても不思議はない。
福音書にはイエスの弟子たちの宣教活動が描かれています。ルカ福音書では、72人もの弟子たちが、「サタンが天から稲妻のように落ちる」と語られるような霊的な活動をしていたとされます。この弟子たちには、イエスの権威が乗り移っているような感じがします。「弟子」という言葉で彼らをイメージしてしまうと、やや狭い。ここではもう少し広く考えておきたい。イエスの時代から現代にいたるまで、イエスに従って生きようと思った人は、数多くいたと想像されます。そのような人たちのことを思い描きながら、弟子と師の話をしたい。
イエスはゆえなく迫害された人を放っておくことができなかった。イエスの弟子たらんと欲する人もまた、迫害のただ中にいる人のことが気になって仕方がない。結果から見れば、イエスの弟子を自認する人は、イエスと同じようなことをしている。イエスに倣っている。少なくとも客観的に見ればそのように見える。
弟子になるが弟子になれない
ただイエスと弟子の間には、一般的な師と弟子の関係とは異なる点が一つあります。それは、イエスと弟子の関係においては、弟子は究極的には決してイエスに倣うことができないということです。いま「究極的には」と書きました。そこではイエスの十字架のことが念頭に置かれています。弟子にはイエスと同じようにふるまうことができる。迫害されている者、困窮の中にいる者を助けるかもしれない。イエスがそうしたように。そこまでは弟子にも可能です。弟子はイエスに倣うことができる。しかしその弟子もイエスの十字架を負うことはできない。十字架の一点において、弟子はイエスに倣うことができない。十字架は唯一のもの、一回起的なものだからです。「究極的には」倣えないと述べたのは、そのためです。
むろん、一般の師と弟子の間にも、「弟子は師のようにはなれない」という事態は存在すると思います。ですが他方「出藍の誉れ」ということもあります。つまり一般的には師と弟子の差異は絶対的なものではない。この点がイエスと弟子との関係とのちがいです。
繰り返します。弟子は師に倣う。イエスの弟子とはイエスに倣う人です。しかしその人も十字架の一点でイエスに倣えない。弟子とは師に倣う人なのですから、倣えないその一点で、その人はイエスの弟子ではない。イエスの弟子になるとは、究極的にはイエスの弟子になりえない自分を知ることを含むのです。弟子になることが、同時に弟子になれないことでもある。このことは、イエスと弟子との関係においては、根底的な規定です。
憎むことが命じられる意味
弟子になることの意味を以上のようにとらえたうえで、本題である「憎む」ことに戻ります。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」という親密な他者および自分自身を憎むことが命じられたのでした。この親密な他者は、一般には、その人を他にかけがえのない存在として熟知し、愛している人です。熟知し、愛する他者。そのような他者一般を代表する存在として、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」が選ばれていると言ってもよいくらいです。ここでは自分自身もまたそのカテゴリーに入ります。自分自身については、自己愛というややこしい事象も考慮しなくてはなりませんが、ここではこの問題には目を瞑ります。
その人を固有の存在として愛する人を憎む。これが命じられていることですが、それは端的に無理と言わざるをえない。偶々そのようなシチュエーションになることはあるかもしれませんが、系統的に、一種の必然として彼らを憎むことには、明らかに無理があります。人間としての自然に反すると言ってもよい。憎しみしか感じないロボットにでもならない限り、人はその境地には達しない。この人々を系統的に憎むことが弟子の条件でしたから、「無理」と考える人は、その時点で弟子失格となります。イエスの言うとおり、「弟子ではありえない」。
弟子になることは同時に弟子になれないことでもある。先ほどそのことを確認しました。それはイエスの弟子である人にとって根底的な規定なのでした。その角度から見ると、憎むことを命じられた相手を前にして「無理!」と思う人は、この根底的な規定を生きていることになります。憎めという命令を自覚し、憎もうとするたびに、その人は不可能の壁に跳ね返され、弟子になれないと実感する。弟子になることが同時に弟子になれないことでもあるという現実を経験しているわけです。
命じる側の立場からいま述べたことを言い換えるなら、次のようになります。弟子になることの不可能は、イエスと弟子の関係の根底にある規定だ。弟子になることの不可能を経験してもらうためには、かけがえのない人を憎むことの不可能を心の底から経験してもらうほかない。ここでは、憎むことが命じられることの意味をこのように考えておきます。
希望のありか
これまでの話をまとめます。イエスは「憎め」の命令をとおして、弟子になることは無理と語っている。少なくとも真の意味での弟子になることは無理。これがイエスの真意だ。このように述べてきました。
これは結構辛いことではなかろうか。少なくとも、イエスについて行きたい、弟子になりたいと思う人にとっては。ついて行きたいと言っても、無理!と言われるわけですから。それはつまり弟子志望者を拒絶しているに等しい。そう言われてしまえば、うなだれて引き下がるしかないでしょう。あの愛に満ちたイエスはどこに行ったのか。ペトロに「ついて来なさい」と語ったあのイエスはどこに行ったのか。不満の一つも言いたくなります。ともかく今回の箇所におけるイエスの言葉には、希望はない。ように見える。
弟子ないし弟子志望者は、十字架の一点においてイエスに倣うことができないのでした。十字架はイエス固有の事実だからです。そこに行けない以上、拒絶されているとも言えますが、不思議なことに、イエスにおいては、その拒絶こそが希望の根拠になります。以下説明します。
イエスはまったくゆえなく十字架上で殺された。どこから見てもイエスには殺される理由はない。であるのにイエスは父なる神の命令に従い、まことに従順に死を経験した。これがキリスト教信仰の根底にある内容です。イエスがこの極北の死を死んだがゆえに、イエスは理不尽さにおいてすべての人の先を行っていることになります。理不尽さの極みのような人生を歩む人でも、その人の先には必ずイエスがいる。このことに気づくことによって、その人は孤独から解放されます。世の人はみんな幸せそうに暮らしている。こんな理不尽な人生は俺一人。まったくの独りぼっち。そのように孤独をかこつ人の前を実はイエスは歩いている。それに気づくことによって、その人はイエスという真の友をもつに至ります。先行するイエスはどんなときにもその人に寄り添い、その人のことをとことんわかってくれているからです。
「拒絶」が希望の根拠になるとは、このような意味においてです。十字架は、そこに近づきえないという意味で拒絶ですが、そうであるがゆえに人にとっての希望なのです。聖書はそのように語っているように思えます。