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♯35 「狭い戸口から入る」とは何かを考えてみた/ルカによる福音書第13章18-30節【京都大学聖書研究会の記録35】

【2024年10月8日開催】

ルカによる福音書13:18-30を読みました。新共同訳聖書や聖書協会共同訳で「「からし種」と「パン種」のたとえ」(18-21節)及び「狭い戸口」(22-30節)という小見出しがつけられている内容がそこに含まれています。

「「からし種」と「パン種」のたとえ」の方では、「からし種」や「パン種」のようなごく小さなものが、大きなからしの木やパンになっていくこと、それが神の国に似ていると語られます。からし種の話は、マタイ、マルコと共通、パン種の話はマタイと共通(マルコにはない)です。

「狭い戸口」と小見出しがつけられた方は、「狭い門から入れ」というマタイ福音書の有名な言葉と共通する句(「狭い戸口から入るように努めよ」)を核に、マタイと共通するいくつかのテキストをルカの観点で編集して一つのまとまりとしている感じです。

「狭い戸口」(22-30節)の方が長いですし、内容もじっくり考えてみたいものなので、話の筋を少し詳しく追ってみます。

質問者を無視するイエス

ルカ福音書では、9:51以降、イエス一行はエルサレム行きの旅を続けているという設定になっています。マタイ、マルコでは、エルサレムに行くという話は、福音書の最後の方になって出てくるので、その点でルカは独特です。さて、そのエルサレムへの旅の途上、ある人がイエスに尋ねます。「救われる者は少ないのでしょうか」(13:23)。12:35あたりから「終わりの日」のことが度々話題として出てきますので、読む側(つまり私たち)は、そのことと、この質問との連関を想像してしまいます。尋ねた人は、「終わりの日」のこと、そこで滅びる者と救われる者とが分かれることなどの話を聞いていた。そこでの話から、救いの条件は相当に厳しいと感じた。救われる者は少なそうだ。だから尋ねた。「救われる者は少ないのでしょうか」。

イエスはこの問いに対し直接には答えない。のみならず、尋ねた人に向けた発話もしない。イエスは「一同に」向かって言葉を発する(23節)。イエスはその場に質問者などいないような顔をして、顔を一同に向けて話します。なぜ質問内容や質問者を無視したのか。註解書などを見ると、質問者の評論家的な問いの立て方に不満であったとか書いてありますが、よくわからない。

イエスはどんなことを話したのか。「狭い戸口から入るように努めなさい」。イエスはまずそう言った。そしてこの言葉が今回のイエスの発言全体を括っているように見えます。先にも少しふれたように、マタイ福音書にも「狭い門から入れ」という同内容の言葉が記されています。ただマタイの場合は、滅びに至る広い門との対比を前提としてこの言葉が発せられています。滅びに至る門は広く通りやすい、これに対し、救いに至る門は狭く通りにくい、君たちはあえて困難な道、狭い門から入る道を選べ。そう言っているわけです。困難な道とイージーな道の選択の対比。それがマタイの問題です。

イエスの挙げた注意点二つ

これに対し、ルカの方では、広い門との対比にはふれられていない。そうではなく、救いに至るドアから入ろうとする人はたくさんいる。たくさんいるから、入ろうとしてもなかなか入れない。その事態を指して、「狭い戸口」と言っているわけです。救いに人々が殺到する。だからドアは相対的に狭いものになってしまう。君たちは、何とかそこから入れるように努めなさい。そうイエスは言った。「努める」とは直訳すると、「闘いとる」(アゴニゾマイ)ということです。競争(アゴーン)という名詞から発する動詞の命令形が使われています。同じものをめざす他人と競い合って闘いとれ。これがイエスの勧めということになります。

その競い合いにあたって注意すべきことが二つある、とイエスは言います。この注意点を外すと、入ろうとしても入れない。一つは当たり前のことだが、タイミングの問題。ドアが閉められる前に行かなくてはならない。ドアロックされた後に行っても「お前なんか知らない」と言われるだけ。もう一つは、ドアの開閉を統御する主人と親しくしていたところで、あるいはその人の教えを受けていたところで、関係ないという点。そんなことを持ち出すと、「不正な者」と言われ、同じく「お前なんか知らない」と言われる。

以上のことを述べた後、イエスは、話を聞いていた「一同」が戸口から入れないことが、すでに決まっているかのような顔をして話を続けます。あなたがたは戸口から中に入れず、「泣き喚いて歯ぎしりする」(28節)。戸口の向こうは神の国で、そこではアブラハムたちや預言者たちが宴会をしている。あなたたちが入れない代わりに世界各地からいろいろな人がその宴会にやってくる。イエスは最後に「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者がある」と語り、話を終えます。

ユダヤ人批判

「一同」が戸口から中に入れない件、これはイエスの言葉をとおして語られた、ルカによるユダヤ人批判だという意見があります。アブラハム、イサク、ヤコブや預言者たちが戸口の中にいて、そこに行けない(キリストを信じない)ユダヤ人たち。たしかにそのように読むと、「人々が東から、西から、南から北から来て宴会の席に着く」という言い方も、ユダヤ人の代わりに異邦の民が世界中からやってきて神の国に入る、と解することができます。「後の人で先になる者があり 、先の人で後になる者がある 」という言葉も、ユダヤ人のことを言っているようです。ユダヤ人たちはたしかに選ばれた民として先にいた。しかし今は後になっているではないか。

そのように解すると、たしかに(中に入りたいと思っている)ユダヤ人には響くだろうと思います。しかしそれは裏から言えば、ユダヤ人でない人には響かないということでもある。おれには関係ない話だ。そう言われておしまい、となりかねない。なので、ここでは、イエスの話を、いまそれを読んでいる人みんなに向けた話として読んでみたい。

狭い戸口から入るように努めなさい

そのようなスタンスで今回の箇所全体をながめてみると、最も気になってくるのが、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉です。先ほど少しふれたように、ここでは、他人と競い合って、何とか戸口から中に入るように、と勧められているわけです。競い合うわけですから、何か頑張らなければいけないようです。しかし頑張っていったい何を得ようとしているのか。戸口から入るとはいったい何を意味するのか。戸口の向こうにはいったい何があるのか。それに一体何を頑張らねばならないのか。他人を蹴落としてまで頑張らねばならないものとは一体何なのか。こんな疑問がすぐに浮かんできます。

前者の疑問(頑張っていったい何を得るのか)については、答えは簡単かもしれません。それは「救い」だ、あたりまえだろう、そんなことは。そう言われてしまいそうです。では、後者の問い(何を頑張るのか)についてはどうか。私たちは何を頑張ることを求められているのか。何について他人と競い合うことが大事、と言われているのか。聖研の話し合いでは、このことに話題が集中していたように感じます。善なる行いではないか、いや善行重視は一種の律法主義で、それこそイエスが批判してやまないものではなかったか、などさまざまな意見が出ましたが、決定打には至らなかったように思います。つまりこの箇所を把握しようとすると、なかなかの困難が立ちふさがって、得心にたどり着かない。何を聞いても腹落ちしない。

救いという神のわざがなされるために、人間の頑張りとか競い合いとかが求められている(ように見える)。そこに、異物を飲み込むような違和感を覚えてしまう。人のなすことが神の決定に影響を与えるかのような問題構成そのものに無理がある。そんな感じがします。テキストの受けとめが進まない理由もそこにあるのではないか。

救いはどこにあるか

こういうときは、そもそものところに戻って考え始めた方がよい。イエスの言葉は、「救われる者は少ないのか」という問いに触発されて始まったのでした。この問いを発した人は、このエルサレム行きの旅の果てにやってくる「終わりの日」に、救われる人は少ないのか、を訊いたわけです。この人にとっては、救いは、その「終わりの日」に起きると予定されているものでした。救いとは終わりの日の問題だ。こういう人の言葉を聞くと、救いはほんとうにそこにしかないのか、と突っ込みたくなります。救いとは終わりの日のものなのか。

話を具体的にするために、先週読んだ「腰の曲がった女性」が癒される話のことを思い浮かべます。あの女性は、イエスに出会い、18年もの間悩まされ続けていた苦しみから一気に解放されたのでした。そのことは彼女にとっては、紛うかたなき救いでした。だからこそ彼女は「神を賛美」したのです。救いは神にしかできない。そして自身の経験を救いと思ったからこそ、彼女は神賛美を行った。

「腰の曲がった女性」を描いた箇所(13:10-17)では「解く」(リューオー)という言葉が多用されていました。それはイエスのわざが端的に「解く」ことだからです。人を縛っていて、その人を苦しめるあらゆることからその人を解く。解放する。それがイエスのなしたことであり、イエスと出会った人が実際に経験したことです。そしてこれこそがまさに救いである。そのように思います。救いとは、まさに今この場で主イエスによるこの解放が起こること、そのことにほかなりません。

縛りからの解放という救い

こう考えると、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いが宙に浮きます。イエスに出会って解放された経験をもつ人は、質問者の言う「救われる者」の範疇に入らないのか。質問者は、こうした解放経験の当事者を「いまだ救われていない人」の範疇に入れているのか。こうした人も「終わりの日」における救いをめざして頑張らねばならない。そう考えているのか。むろん当人に聞かない限りほんとうのところはわからないのですが、文脈上はそのように考えているとしか思えない。「終わりの日」にこそ真の救いがはっきりする。だからこそその数、救われる者の数が気になったのだ。

しかしだとすると、「腰の曲がった女性」はどうなるのか。あの神賛美の重みはどこに行くのか。あれは救いではない、ということになるのか。イエスに出会い、縛りから解放され、生き返った人たちの経験はこの際、無視しよう。その経験はたしかに「ある」が、「ない」ことにしよう。質問者はそのように考えているように見えます。この人にとっては、救いは終わりの日の問題なのです。現実に起きている救いには目が行かない。つまり「救われる者は少ないのでしょうか」という問いは、現実の基盤をもたない。先に「宙に浮く」と書いたのは、この意味です。

「腰の曲がった女性」が神賛美を行うとき、彼女はまさに救いのただ中にいる。これまでの思い煩いから解き放たれて、神の国の安息の中にいる。そのように感じます。イエスはこのような経験についてよく知っています。縛りから解放される人の爆発的な喜びをよく知っている。一方の当事者(癒しを付与する側)なのですから、それはいわば当然です。しかしそのイエスが、狭い戸口から入る競い合いに負けないように頑張りなさい、と言っている。このことはどう解すべきか。

イエスは何を求めているか

解かれる経験を実際にした人は、頑張りなさいとか競いなさいとか言われても、戸惑うばかりです。頑張れといわれても、何をしたらよいかわからない。それが正直なところなのではないかと思います。縛りが解かれたのは、自分が頑張って何かしたからではないし、他人と競合することとも無関係。「腰の曲がった女性」もそうでした。彼女も治癒をただ単に受け取っただけです。自分が努力して獲得したものなんかではない。他人と張り合うことなんか考えたこともない。それは、ただただ与えられたものです。

この女性は腰がまっすぐになったときに、治癒者の位置にいるイエスではなく、神を賛美したのでした。イエスではなく神賛美をしたことの背景には、この女性の18年にもわたる長い祈りがあったのではないか。前回そのように推測しました。日々の祈り。その祈りの中に、自ら被っている苦痛についての訴えが含まれていることは十分考えられます。ですから、腰がまっすぐになったときに、この女性は祈りが聞かれたと思ったにちがいない。彼女の即座の神賛美はそこから来ている。そのように考えます。

この女性にとって、真剣なのは祈りだった。全身の重みをかけて祈る。まさにそのような祈りだったのだと思います。この祈りは、イエスから見ると、懸命に神の助けを求めるふるまいに見える。何よりも太い神とのつながりを求めるふるまいに見える。イエスが狭い戸口から入れと言ったときに念頭にあったのは、このような人の姿だったのではないか。ふとそんなことを思ったりします。たしかにこの女性は、何かを獲得しようとして、得点をあげようとして頑張ったりはしていません。他人と競おうと思ってもいません。ただ真剣であることはたしかです。神にすべてを打ち明け、すべてを任せ、祈っています。そこに夾雑物が入る余地はありません。この懸命さをイエスは良しとした。

人の思惑には意味がない

イエスが今回の箇所で「狭い戸口から入るよう努めなさい」と言うとき、念頭には、少し前にイエス自身が治癒した「腰の曲がった女」の長きにわたる祈りの歴史があったのではないか。そのように考えました。腰の曲がった女の真剣な祈りを思い浮かべながら、イエスの言葉は発せられた。あの真剣さが君たちにはあるのか。私に従いていればもう安心、などと気楽に考えているのではないか。とんでもない。君たち一人一人が神に祈り、願い、祝福を乞う。それが神のわざの何よりの前提だ。イエスがそのように語っているように私には思えます。

先ほど、イエスが、狭い戸口から入るにあたっての注意点を語ったと述べました。一つは戸口に行くタイミングの話であり、もう一つは、戸口を統御する者との親しい関係の話でした。戸口が閉まってから行っても、もう遅い。「お前なんか知らない」と言われて終わりだ。「戸口を統御する者」との関係も同じで、親しさを振りかざして迫ってみても、「お前なんか知らない」と言われるばかり。それだけでなく「不正な者」とまで言われてしまう。先方が「お前なんか知らない」と言うということは、こちらが「私のこと知っているでしょ?」と問わず語りに言っていることを示唆しています。つまりこのような反応を示される人は、戸口のところで、「私のこと知っているでしょ?ならばなんとかしてくださいよ」という雰囲気を醸し出しているにちがいない。そんなことはモノの役に立たない。そうイエスは言っているわけです。イエスを知り、イエスと飲食をともにし、イエスの教えを学び(25-26節)、そういったことで何とかなると考えるのは大間違いだ。

イエスは腰の曲がった女の真剣な祈りを思い浮かべながら、狭い戸口の話をしたのではないか。そういう話をしました。むろんこのような想定に根拠があるわけではありません。「腰の曲がった女」の話と「狭い戸口」の話を勝手に結びつけるな。牽強付会そのものだ。そんな声も聞こえてきそうです。たしかに私の勝手な思いつきと言えばそれまでですが、「頑張り」とか「競い合い」という人間の努力が得点としてカウントされるという想定そのものは、あまり聖書的ではないというのもたしかなことです。人間の意図とか思惑などというものは、人間の側が想定するほど立派なものでも有用なものでも、信用できるものでもない。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)という言葉もあるほどです。それほど信用できない、というわけです。そのことを考えながら今回の箇所を読むとき、救いという目的を得るために「頑張ること」や「競い合うこと」をイエスが勧めたとはどうしても思えなかった。ここには何か秘密がある。その秘密をめぐって悪戦苦闘した結果が今回の報告です。

付記 なお「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」というイエスの言葉をめぐっては、以下で少し丁寧に考えてみました。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」『続・社会学者、聖書を読む』教文館、2020年、154-181頁。

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