白紙:「0⇨1」を生み出す大変さ
「noteを書こう」とPCの前に座り3時間が経過したが何も書くことができずに時間だけが経過してしまった。
書きたいことが無いわけではない。むしろ書きたい話題は沢山ある方だと思う。でも「何かを書く」ためには書く材料が必要で、今その材料のストックが切れているのかもしれない。
本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、ニュースを見たり、PCを触ったり、ご飯を食べたり、電車に乗ったり、サウナに入浴したり、モノを作ったり、絵画を鑑賞したり、現象に対して考えたり、誰かと話したり、思考を文字として外に書き出したり…
自分の中にある「書きたい何か」を外に出すにはそれなりのインプットが必要で、私は日常生活の中でストックしている「気になること」に対して自分なりに深掘りをして「自分にとっての結論」にたどり着いた時初めて「文章」として生み出すことができます。
今、3時間近く考えても何も書き切れないということは「白紙」の状態に等しいのだろう。今も苦し紛れに独り言の様に文章を書いては消して書いては消してを繰り返している。
大袈裟な表現かもしれないが、noteに自分の中にある考えをまとめて文章として表現することは、作品を創作していると言えます。生み出すとは「創ること」
ただし、それが「0⇨1」からの創造かと言われたら話は変わってきます。私が今まで書いてきた文章のほとんどは私自身が心に思ったことに対して独自に調査をして文章としてまとめたもの。ある意味「100」の寄せ集めに少しだけ新しい1を付け足しただけ。
つまり「0」という白紙の状態から、無から有を作り出すことはできていないと言えます。
今現在私の脳内は完全に白紙。
いつもの様に気になった「100」に対して掘り下げて掘り下げて「100」の集合体を作る作業をしていない状態。
何もない状態だからこそ今書いている文章は私が生み出した「1」と言えるのかもしれない。質は悪いけれど、紛れもなく無から生み出した有の文章。
私が尊敬する劇作家/元パフォーミングアーティストの小林賢太郎(ラーメンズ)氏は著書「僕がコントや演劇のために考えていること」で0から作品を生み出す「生みの苦しみ」に対してこの様に述べています。
0から1をつくるということは、とても難しいことです。けれど必死にもがき苦しめば0.1ぐらいは生み出せるものです。あとは、それを10回繰り返せばいい
小林賢太郎著「僕がコントや演劇のために考えていること」より
パソコンの前で唸った結果、苦し紛れに書いているこの文章は「0.1」のオリジナルであり、私がたどり着いた0⇨0.1の瞬間。
あとはこれを10回繰り返せば1になります。
もがき苦しむことは避けたいけれど、何かを書かないと…と意気込み、苦し紛れにたどり着いた「文章」は今まで書いてきたどの文章よりも「人間味」を感じて暖かさが宿る様で、なんだか今は書く流れにうまくのれている感覚がする。
生み出された「0.1」を生かすも殺すも自分次第。
白紙の状態でも苦し紛れの文章でも、生み出したら責任を持って遂行する。
何かをつくることは難しく困難な道であることはどの領域でも変わらず、避けては通れない道なのだろう。
平凡なことを毎日平凡な気持ちで実行することが、すなわち非凡なのである。
アンドレ・シッド(作家)
「続ける」ことは才能である。
それは趣味の世界でもそうで、好きなものに対して「毎日」やり続けることができる人は非凡なことで、継続は何よりも強力な武器であると同時に誰でも到達できる「天才」の入り口なのだと思っています。
何かを続けるためには覚悟がいる。
そして続けることは「飽きること」との戦いである。
「0.1」を作り続けていき、いつか「1」へ到達するためには継続することから逃げてはいけないし、現状から目を背けてはいけない。
苦しみの向こうにしか「創造」は存在しないのだから。
さて、noteに文章を書き始めてから1時間が経過した。
何も思い浮かばなかった時は絶望的だったが、一度書き始めてみると意外とスラスラと書き続けることができるものだ。
これが良い文章なのか悪い文章なのかは分からない。
自分の内側にある吐き出された小さい素材を必死に広げて伸ばして書き起こした文章に対して正当な評価をつけることは今の時点の私には難しいこと。
明日読み返したら消したくなるのかもしれないので、今のうちに文章を上げてしまおうと思う。