「好きなことを自由に書く」は意外と難しい
自由は不自由である
「好きなことを自由に書く」
「好きなこと」「自由に」…とても甘美で魅力的な言葉の組み合わせに感じる方も多いのではないでしょうか?
しかし、この言葉には見えない続きがあります。
「好きなことを自由に書く、そして多くの人に読んでもらいたい(そして、評価してほしい)」
好きなことを自由に書いた文章が不特定多数の人に読んでもらって、かつそれが評価されたら極上の想いを味わえることでしょう。
しかし、現実は甘くありません。
そもそも「自由」に書くという行為が意外にも難しい。
湧き上がる大きな執筆欲があり、その欲望のままに書き始めてみたとしても途中で行き詰まり、おそらく、最後まで完走することは無くペンを置くことでしょう。
自由に書くには書くための材料となる「引き出し」が多く必要なのです。
逆に書くことが制限されている時は、足りない部分を調べることで補うことができますし、何が足りていないのかが書いている途中で分かります。
不自由な制限が実は自身の執筆活動を助けてくれています。
例えばnoteも同じで、テーマを決めずに自由に書いても良いのですが、意外と長続きしません。
自由すぎると何も選択できないのが人間の性です。
自由であればあるほど人間は不自由になってしまいます。
好きなように書いた文章は誰にも読まれない
物書きを始めるとこんな勘違いをしがちです。
「インターネットに公開した文章は全世界に公開されるので多くの人が読んでくれる」
もちろんチャンスはありますが、現実はそうそう上手くいくものではありません。
まず、インターネットがどれだけ広大で、どれだけ多くの情報に溢れているのか想像してみてください。
よく「海」や「砂漠」に例える人がいますが、インターネットはどちらかといえばめちゃくちゃ大きな大都会です。
情報に溢れ、人に溢れ、複雑で広大な大都会で何のヒントも無く、たった一つの情報を見つけることは至難の業です。
街並みはリアルタイムで変化していきますが、あなたはその変化を意識して街中を歩いたことはあまりないと思います。
何なら「いつもと変わらないな」と言うことでしょう。
インターネットに投稿した「好きなように書いた記事」はこれに近いぐらい小さな変化です。
たまたま、その投稿した記事が「お!」と思われるタイトルでない限り、見向きもされません。
「読まれる」ためには相手が読みたい文章を書く必要があります。
相手起点で文章を書かなければスタートラインにすら立てません。
積み重ねていって大きな変化にする
私自身、noteで投稿をしていて「読まれている」時と「読まれていない」時の差は激しいもので、執筆活動の難しさを日々痛感しています。
しかし、これもまた不思議なものでインターネット上でも毎日コツコツと積み上げていくと見つけてもらう機会が増えていきます。
もちろん、相手起点を意識して文章を書いていることも要因だと思いますが、それでも読まれる機会は日に日に増えていっていることを実感しています。
好きなように書くのは難しいことですが、テーマを狭めて、自分が書ける領域の内容に特化すれば書き続けることはできます。
試行錯誤しながら投稿を続けていけば、自ずと「読まれる記事」が書けるようになるはずです。