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伊藤計劃「ハーモニー」から、5の刺激的な思考
ここ数年で一番印象に残っているSF小説を挙げるなら、伊藤計劃の「ハーモニー」を挙げます。
21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――
それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはずの少女の影を見る――
『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
扱っているテーマが非常に刺激的であり先見性にも優れているため、折に触れて思い返してしまう作品です。
この作品で特に印象に残っている一節(思考)を、いくつか紹介してみます。
※ややネタバレありのため、余計な先入観無しで読みたい方はブラウザバックしてください。
死人(自殺者)を罰する方法が見つかれば、世界は喜々として死者を裁くだろう。
自殺未遂者にはたっぷりのカウンセリングと薬物治療が待っている。再度この出来損ないを、有用な社会リソースとしてセカイに組みこむために。 世の中の一員として、世の中で医療経済を回す一単位となり、社会的な機能を果たすために。わたしもキアンも、そうやって死の淵からふたたび世界に嵌めこまれたのだからよく知っていた。
「ハーモニー」が描くのは、人々自身が公共のリソースとみなされ、社会のために健康・幸福であることが義務化されたユートピア/ディストピアです。この社会において「自殺」は社会リソースを破壊する”恥知らずな行為”とされていますが、主人公(わたし)のトァン、友人のキアン、そして世界を憎悪しているミァハの3人はそんな社会だからこそ餓死することを選択します。
生命至上主義を押し付けられる息の詰まるような優しい世界から逃げ出す方法は、死ぬこと以外になかったのです。なんてシニカルで強烈な問題提起でしょうか。この辺りからストーリーと世界観にグッと引き込まれていきました。
ほら、あるだろう、人間が意識をデジタル化することに成功してコンピュータなりネットワークなりに居場所を移していくってSFが。そうなれば人間の肉体なんてのは、魂にとって時代遅れのデッドメディアに過ぎん。いつか人間が精神をデジタル空間に移行すれば、仮想のわたしの研究室で、フロッピーや磁気テープやフラッシュメモリの間に、魂のない人間がごろんと転がっているってのはあり得る話じゃないか。 「進化した意識を持つ人類」が生まれてきたならな。
そうでしょうか、とわたしは言った。
わたしは逆のことを思うんです。精神は、肉体を生き延びさせるための単なる機能であり手段に過ぎないかも、って。 肉体の側がより生存に適した精神を求めて、とっかえひっかえ交換できるような世界がくれば、逆に精神、こころのほうがデッドメディアになるってことにはなりませんか。
ある教授とトァンとの会話。テクノロジーが発達すれば人間の肉体が不要になり精神(脳)だけで生きていけるようになる…というのはSFでありがちな世界観です。しかし、生物的限界を抱えているという意味では、肉体も精神も同じです。肉体のせいで行動速度が制限されていたり老化が発生したりするのと同じように、精神のせいで目の前の欲望に負けたり合理的な判断ができなかったり、そして社会規範に反する思想を持ったり希死念慮を抱いたりしてしまいます。
この発想こそが、他のSF作品と一線を画す部分だと思います。未来の世界で人々が疎ましく感じるのは、果たして肉体でしょうか? それとも精神でしょうか? どちらが人間にとっての「制約」だと感じるでしょうか。
「規律なのよ。こうやって規律はわたしたちの生きる時間を、切り分け、仕分け、制御していくの。ややこしく言うなら、二時か三時にお昼食べたいっていうキアンの生理は、規律に抵抗しているんだけど、 キアンは規律の側にすり寄らない自分の生を疎ましく思っている。思ってしまっている」
(中略)
「学校の時間割は、昔っからあるものだけれどね。 皆が集まって飯を食ったほうが楽しいとか、仕事に便利だとか、そういうのが何となく精緻化されていつしか時間割に、規範になる。(中略)そういう目に見えないものが、いまやわたしたちの身体の生理を従わせようとしてる」
学校の昼食時間である0時におなかが減らない(ので、二時か三時にお昼を食べたい)ことを嘆くキアンに対して、ミァハはこのように答えます。この社会に存在する規範に対して強い抵抗感を持つミァハのイデオロギーがよく表れた台詞だと思います。
大雑把な意見で恐縮ですが、社会規範というのは共同体全体の幸福を高める上で重要なものだと思います。しかしそれは個人に最適化されたものではないため、生理的要因等でどうしてもその規範に馴染めない人にとっては不幸の原因となります。これは簡単に解決できる問題ではありませんが、”規律の側にすり寄らない自分の生を疎ましく”思うのは悲しいことだと感じます。
人間にとって存在してもよい自然と見なされる領域は、人類の歴史が長引けば長引くほど減ってゆく。 ならば、魂を、人間の意識を、いじってはならない不可侵の領域と見なす根拠はどこにあるのだろう。 人類は既に「自然な」病の大半を征服してしまっているというのに。「標準化された」 人体という妄想を社会常識にまで高めてしまったというのに。
「ハーモニー」の世界では高度な医療経済社会が築かれています。そのため、僅かな不健康でも機械によって発見され、どんな生活改善をすべきかフィードバックされます。この世界では”「標準化された」 人体”(健康的で正常で社会リソースとして万全な人体)という概念が社会常識になっていますが、よくよく考えてみるとそれはとても不自然なことです。まるで工場のパーツであるかのように一人ひとりの身体が”標準化”されていくのをイメージすると、なんとなく抵抗感があると思います。
”人間の意識をいじる”というのは更に大きな抵抗感があるかもしれません。が、仮にテクノロジーの発展とともに肉体の自然さが失われていくのだとしたら、精神(意識)の自然さを失ってはいけない根拠はどこにあるのでしょうか。
このような哲学的問いを真正面から突き付けてくるのも、本書の魅力です。
進化は継ぎ接ぎだ。
ある状況下において必要だった形質も、喉元過ぎれば不要になる。その場その場で必要になった遺伝子の集合。 人間のゲノムは場当たりの継ぎ接ぎで出来ている。 進化なんて前向きな語は間違ったイメージを人々に与えやすい。人間は、いやすべての生き物は膨大なその場しのぎの集合体なのだ。
進化は目的があって起こるのではなく、環境に適応した結果として起こる現象です。つまり、たまたま色んな個体がいてたまたまその環境に適した個体が生き残り繫栄していくということです。
だとすると人間が獲得している能力も目的による必然ではなく環境による偶然の産物で、そこに特別な意味など無いことになります。それなら、環境が変わると不要になる人間の能力もあるのかもしれません。それはなんなのでしょうか? 今後もし人間にとって「進化」と表現できる事象が起こるとしたら、その方向性は…。
これ以上は核心的なネタバレに繋がるので伏せておきます。感想だけ書くと、本書の結末はSFの強度として完璧だと思いました。こういう結末にならざるを得ない、といいますか…。とにかく見事です。
補足
「ハーモニー」がどのような科学的事実に基づいて描かれた作品なのかを理解するのに役立つ参考図書を紹介するエントリを書きました。こちらも読んでみてください。