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「創造的脱力」の要約

若新雄純さん著の「創造的脱力」を要約してみました。

破壊しないで、「脱力」する

従来のよくできた社会システムの多くは、どうやら耐用年数がすぎ、人や組織のあり方を窮屈にしてしまっている。 私たちの日常に多様なスタイルや解放的な文化をつくりだしていくには、この「かたい社会」のシステムや人間関係を、中心ではなく周辺部分からゆるめていく脱力的なアプローチが不可欠になる。白黒をはっきりつける二項対立的思考や問題解決手法には限界があり、ズレや違いを認め周囲と柔軟に関わり合い、試行錯誤しながら変化と広がりをつくっていく「ゆるいコミュニケーション」が必要だ。

「グラデーション」をつくる

大学を卒業したら、週五日で正社員として働くのが「ふつう」。しかし、価値観が多様化した現代でそれは健全なことなのか? そんな思いで「週休四日・月収十五万円」の仕事を若者に紹介する「ゆるい就職」というサービスを始めた。北欧では20代の時間は自分の可能性やライフスタイルを模索するためのモラトリアムとして設定されている。これは「甘え」ではなく、人生の充足感を得るための「健全な寄り道」だ。健全な寄り道として、正社員か否かではない「週三で真剣に働く」といったグラデーションを社会につくる必要があると考えた。

「グラデーション」のある社会では、絶対的な正解が存在せず、自分の外側ではなく内側から答えを探さなければならない。しかしそうすることで、人生の主権を取り戻すことが出来る。

マズローの段階欲求説によると、「自己実現」とは「ありのままの状態」を体現し続けること。つまり、自分の欲やエゴを認めつつ、周囲との変化や関わり合いを通じて、自分の能力を発揮していくことである。
大学時代、A君という真面目で自己主張しない後輩がいた。ひょんなことからA君にパンダの着ぐるみを着せてみると、他者との関わり合いの中で徐々に陽気な性格に変わっていった。これは着ぐるみによって「真面目なA君」というペルソナから解放され、新しい「自分らしさ」を発見したということだ。こういった実際の自分に生じる「ゆらぎ」こそ歓迎すべきだし、それが「自分」という存在を主体的に生きることに繋がる。

今の社会では「ゆらぎ」は排除されてしまう。本当の意味での自己実現とは、成長や変化という「過程」そのものであり、結果主義のマネジメントでは追求出来ない。ではどうすればいいのか? 答えはなく、試行錯誤を重ねて、新しいコミュニケーションのあり方を模索するしかない。

JKが主役の、ゆるいまちづくり

市民主役のまちづくりを行うには、まちづくりなんかに興味を持たない人にあえて関わっていく必要がある。そんな思いで市役所に『JK課』をつくった。最初に参加してくれた女子高生は、「なんか面白そう」程度の動機だった。彼女たちに目線を合わせるため、外部からの批判があってもあえて「JK」という名称を使った。会議では雑談の延長線上でまちに対する悩みを出し合い、自分たちで問題を見つけていった。大人がリードするのではなく、JKたちの活動をサポートするスタンスを取った。周辺の人からは”あやしい”と批判されたが、逆風を受けたことで彼女たちの中にはプロジェクトに対する「覚悟」が生まれていた。

僕は市役所職員に「女子高生に『教える』という態度で接しないで欲しい」とお願いした。「教える/教えられる」という関係性では、グラデーションを排除してしまう。まちづくりに求められるのは当事者同士の試行錯誤であり、「自分で考える」という主体的な経験によって、彼女たちも成長することが出来る。だから、活動がネットで叩かれたときは、僕らも同じ目線でただただ一緒に悩むことにした。
挨拶をしない女子高生に対して、どうしても指導をしたいという職員もいた。僕は指導はしないで欲しいと頼んだ。信頼関係を築いていけば、自然と挨拶するようになると考えたのだ。しばらくすると、女子高生は職員にも仲間意識を持つようになり、挨拶するだけでなく下の名前で呼び合うようになった。まさに「ゆるいコミュニケーション」だ。

図書館の空席情報が分かるアプリの考案・運用、地元パティシエとのスイーツの開発、コスプレして清掃する「ピカピカプラン」の開催など、彼女たちは活躍の幅を広げていった。彼女たちの「ゆるい提案」がまちづくりにどのくらい効果があるのかという検証はないが、「新しい何か」を始めるための「ゆらぎ」を生むことが出来た。「ピカピカプラン」ではゴミ袋のデザインをかわいいものに変更した。それでどれだけ清掃効果がアップしたかは不明だが、彼女たちは「このまちの大人は意見を聞いてくれる」と思い、それを見た市民も「このまちは思ったことを提案できる環境なんだ」と思う。この経験こそが、これからの地域社会に必要なのではないか。

ニートだけの、ゆるすぎる会社

ニートを集めて全員を取締役にする。そして彼らに主体性を期待してみる。なぜだかそんな「場」をつくってみたくなった。ニートは社会不適合者で無能な弱者だと思われがちだが、実態は実に多様。高学歴な人、特殊なスキルを持つ人、マイペースな人、そして本当に何もやってこなかった人。そんな多様な少数派を集めて会社をつくれば、「新しい何か」が生まれるかもしれない。社会からズレているならズレているなりの働き方があるのではないか、と考えたのだ。

当然、「ふつう」の会社になりようが無く、メンバーにも「僕にも答えはわからない」と伝えた。早々に辞めていくメンバー、何時間も掛かる会議、会社内での衝突、迷惑を掛けてしまった外部企業への謝罪……。まさにぐちゃぐちゃのカオス状態。それでも、ルールはゼロからメンバーと話し合って決めるという「原始的なプロセス」を重視した。大げさな言い方をすれば、「民主主義」が出来る試行錯誤を経験してもらうことで、彼らに当事者意識を芽生えさせたかったのだ。「プロセスの体験」があれば、この会社を自分たちのものとして考えられるようになる。そして、既存のシステムとは違う「新しい何か」を見つけられるかもしれない。

メンバーの一人が「レンタルニート」という事業を始めた。1時間1000円で自分を遊び相手として貸し出すサービスだ。そのサービスはあえて約束の時間をアバウトに伝える等、「クオリティが低いこと」を堂々と宣言していた。そのおかげで依頼者には「予想よりちゃんとしていた」と良い評価を得られることが多かった。僕は彼なりの工夫に感心した。

ニートがニートのまま社会と関わる。お金が欲しくなったら、欲しい分だけ稼ぐ。「それじゃ半人前のままじゃないか」と言われるかもしれないが、どうしてニートか一人前かということにこだわるのだろうか。「半人前」という人生のバリエーションがあってもいいはずだ。

ズレた若者たちの、いろいろな就職

「ふつう」の就活には馴染めない「就活アウトロー」の若者たち。彼らの屈折したエネルギーを活かせないかと考え、彼らを対象とした採用プロジェクトを始めた。まずは彼らと企業の経営者を集め、互いに身分を伏せた状態で「欲」や「死」といった抽象的なテーマを話し合うワークショップを行った。その中で、入りたい会社、きてほしい人材を互いに見極めていけばいいと考えた。最終的には、約50人の参加者の中から20人以上の内定者が出た。

翌年には「就活アウトロー採用」を正式名称とし、社会からズレて遠回りしてきた若者たちを募集した。すると、前回以上に多くの若者が集まってきた。時代の変化により、今の若者は報酬やポストといった外的な動機ではなく、自分の個性の発揮や人間関係の充実といった内的な動機を求めるようになってきている。若者たちと企業のギャップを埋めるには、柔軟なコミュニケーションが必要になる。つまり、「採る/採られる」というマッチングではなく、「関わる」「ともに変わる」といったリレーションシップが大切なのだ。

冒頭で紹介した「ゆるい就職」でfreeeという会社に就職した若者がいる。彼は高学歴でコミュニケーション能力が高く、元々は大企業の正社員をしていた。彼なら週休四日で十五万円稼げる仕事なんていくらでも見つかりそうだが、その条件だと単純作業の仕事しか見つからないと話していた。彼は就職後、週三勤務ながら仕事ぶりを評価され、業務内容をレベルアップしていった。freeeの社長は、「フルタイムじゃないからといって、仕事を制限するのはナンセンスだ」と語ってくれた。働き方に関係なく、能力に応じた仕事を任せていってもいいのではないか。

「ゆるい就職」では長期的なキャリアアップが出来ない、という指摘もある。しかし現代では、他人との比較の中でランクを上げていくようなキャリアアップには限界がきている。むしろ、ライフスタイルや価値観の変化と向き合い、仕事のやり方や内容、人間関係などを柔軟に変化させる「キャリアストレッチ」が大切になってきている。
自分の「核」を持ちながら柔軟に自己変容していく。そんな、「中身はかたく、外側はやわらかい」キャリア観が必要になってきたのだ。

かたい社会に変化をつくる

「かたい社会」は画一的で窮屈だが、何をすべきかが明確。そのおかげで、僕らはどこでも快適に過ごせるようになった。しかし、「失われた二十年」という言葉もあるように、「かたい社会」は限界がきている。そんな今の日本に必要なのは、「かたい社会」に「ゆるい部分」をつくる、脱力的アプローチだ。それまであたりまえだったものを一度手放して、カオスの中で試行錯誤だらけのコミュニケーションをはじめるのだ。

そこで重要な意味をもってくるのが「おしゃべり」だ。「いいおしゃべり」は、目標や到達点を決めず、休み時間にするような脱力的な状況でこそ可能になる。そういう場でなら、悩みや違和感を口にでき、立場や役割を超えたユニークなやり取りができる。このゆるいコミュニケーションの連鎖から、変化や広がりが生まれていく。

「新しい何か」はどのように生まれるのか。僕は、「かたくてつまらない→ゆるくてつまらない→ゆるくて魅力的→かたくて魅力的」というプロセスを経て生まれると考える。情報通信サービスを例に挙げる。固定電話とファックスは「かたくてつまらない」ものだ。これが、「ゆるくてつまらない」初期のパソコン通信、「ゆるくて魅力的」な初期のインターネットや携帯電話を経て、今の「かたくて魅力的」なスマホになったのだ。(ここでいう「かたい」とは「まとも」であること、「ゆるい」とは「あやしい」こと、とも言い換えられる。)固定電話がいきなりスマホになった訳ではない。
つまり、新しい社会文化をつくりだすときには、不安定で混沌とした「ゆるい」「あやしい」プロセスを必ず通過しなければならないのだ。

「かたくてつまらない」社会を飛び出すのは、勇気がいり、不安なことだ。しかし、攻撃的になる必要も、何かを破壊する必要もない。ただその混沌とした状況を脱力して楽しめばいい。そのためには、そこにいる人間一人ひとりを感じることが大切だ。混沌とした空間で不安を感じているのは自分だけではない。お互いにその不安やとまどいを素直に認め合い、共有することで、試行錯誤の不安定なプロセスを一緒に乗り切っていくことができるはずだ。

「ゆるいコミュニケーション」が、「新しい何か」をつくりだしていくのだ。


※「破壊しないで、「脱力」する」の要約文は本書からそのまま引用しました。

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