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「愛にできることはまだあるかい」は帆高の心だった。

映画「天気の子」ネタバレします。

RADWIMPSのファンになって約10年。まだまだRADWIMPSが人気がなかったころ、私はまだ小学生でずっと洋次郎(RADWIMPSボーカル野田洋次郎さん)の声を聴いて過ごしていた。友達が嵐にはまって、いきものがかりとかが流行ってもなんだかんだRADWIMPSをずっと聞いていた。

きっかけは姉だ。うちは家が狭くて、姉と私は姉が家をでるまでずっと同部屋。基本的に姉の権力は私より強いために音楽はいつも姉チョイス。姉が友達から借りてきたのアルバムがきっかけだった。あれからずっと聴き続け、完全にファンになった。最初はRADWIMPSの歌の歌詞は正直理解できなかった。難しすぎる。

"約束したよね 「100歳までよろしくね」 101年目がこんなに早くくるとは思わなかったよ"  (me me she)

比較的簡単なこの恋愛ソングの意味さえなーんも考えずに歌ってた。てかこれが失恋ソングだと気づいたのはいつだ?でもなんだか声が心地よくて、ミーハーじゃない感じがしてずっと聴き続けて友達に薦めまくってた。

あれあれ、でもなんか超有名になってんじゃん。私も歌詞を理解できるような大人になってんじゃん。

天気の子。みちゃったよ、洋次郎。

映画公開前のライブで「愛にできることはまだあるかい」を聞いて、曲がリリースされてからずっと聴いてたのだけど、映画の中で流れた瞬間、涙どば―――――――――っ出てきたんだわ。もうやめてや。

映画のレポを書くほどの考察力を持っているわけではないんだけども、なんだこのRADWIMPSの表現の仕方は。

完全に帆高くんの心を歌っているこの歌詞。なんもない少年だけど、何かにもがいていてどうしても手に入れたいものがあって、彼なりの正義があって愛があって。。その葛藤と社会への怒りと心を歌った歌。

"諦めた者と 賢い者だけが
勝者の時代に どこで息を吸う

支配者も神も どこか他人顔
だけど本当は 分かっているはず

勇気や希望や 絆とかの魔法
使い道もなく オトナは眼を背ける"

(愛にできることはまだあるかい)

映画の中に出てくる大人たちは確かにどこか希望を失って、帆高たちだけが希望をもっているように描かれていた。どこか希望をもてないすたれた社会を描きその対象として帆高たち少年少女を描いていたように思う。それでもいいじゃんってね。

”運命とはつまり サイコロの出た目?
はたまた神の いつもの気まぐれ

選び選ばれた 脱げられぬ鎧
もしくは遥かな 揺らぐことない意志”

(愛にできることはまだあるかい)

陽菜と出会ったのも、本当に偶然で。その神の気まぐれを、ゆらぐことない意志として自分のものにする帆高は無茶苦茶だけど純粋でかっこよくて。その姿、私たち今の生活でそんな姿にであうことめったにないなって心揺さぶるものがある帆高の揺らぐことない意志。

”何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか

なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい”

(愛にできることはまだあるかい)

帆高が意志をもってかっこ悪くてもがむしゃらに陽菜に会いに行く姿。人によっては醜いかもしれない。ださいかもしれない。でも誰かがそう思ったとしてもよくって、醜いとかきれいとかそんなの帆高には関係なくてただただ陽菜に会いたかったそれだけ、ただそれだけ。

天気の子を見た人にはこの「愛にできることはまだあるかい」は見る前と後では感じ方が全然違うんじゃないかってそう思うくらいに帆高の心を歌った歌だと思う。

この歌と帆高の心の描写が合致したときに、涙、涙、涙。雨、雨、雨。

RADWIMPSは今日も私の師。いままでもこれからも、ずっと。

来年はライブ3回以上は行こう。よっしゃ。

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