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札バン研究所「月光グリーン『雪月花』全曲解析」①

こちら、札バン研究所

札幌を拠点とするバンド、略して札バン。

その音楽を研究する今回は、2003年結成、月光グリーン。

セカンド・アルバム『雪月花』に収録された全9曲の内、1~3曲目を解析する。

改めてのライブバンド宣言


デビュー・アルバム『蛮勇根性』は、かなり幅広い音楽性を示していたが、セカンド・アルバムでも、この本質は当然踏襲されている。

しかし、前作と違うのは、バラードがなく、アップテンポの曲で押しまくっていること。これは、月光グリーンが正式デビューを経て、さまざまなライブを重ねてきた中で、改めて「オレたちはライブバンドだ」と自己認識し、その宣言をした、と捉えたい。

その証左として、まず1曲目「夜が明けるまで」の歌詞が、ライブそのものをテーマにしていること。8曲目の「こぶしというアンテナで」も同じようにライブをテーマにしていること。そして、この2曲をそれぞれオープニングナンバー、ラストナンバーと見立て、9曲目の「行こうぜ」をアンコールとするなら、拍手や喝采のSEまでは入っていないものの、まるでライブのセットリストのような曲順であることが挙げられる。

さらに、全ての曲がフェイドアウトではなく、きっちり終わっていることにも注目したい。2曲目の「雪よ」など、最後は大サビの繰り返しなので、むしろそのまま余韻を残してフェイドアウトするのが常道。なのに、敢えてしっかり歌いきってギターのコードをじゃらんと流すところまで収録している。その理由も、ライブではフェイドアウトがないからではないだろうか。

それにしてもジャケット。

前作同様、切り絵風のイラストで、トーン&マナーは揃っている。しかし、前はメンバー、つまり野郎三人が汗だくでシャウトする顔を描いた実に男臭い絵柄だったのに、一転してセーラー服、お下げ髪の女子高生に雪が舞うというセンチな世界観。

背景色も、赤から青にがらっと変わっているし、タイトルも『雪月花』。これで「せつげっか」と読むように、わざわざルビが振ってある。ちょっと大正ロマン風。確かに、前作には竹久夢二を明らかに想起させる「宵待草」という曲もあったのだが。

しかしこれではまるで、パンクロックから叙情派フォークに鞍替えしたかのようで意表を突く。

とはいえ、サウンドはもちろん、前作同様、「和」のテイストが濃い、独自のロック。

メンバーも引き続き、

 テツヤ 激情ボーカルギター

 ハナ 右手残僧ベース

 チュウ 撲殺ドラム

2007年9月19日発売。

作詞作曲は、「いろはにホヘヘイ」のみテツヤとハナの共作。他は全曲テツヤによる。

#1 夜が明けるまで

   夜が明けるまで 歌い明かしましょう

   夜が明けるまで 踊り明かしましょう

サビの歌詞の通り、ライブでのオープニングナンバーを想定して書かれた曲だろう。これから始まる音楽絵巻への期待感が、いやがうえにも盛り上がる。

ジャケットの抒情的な印象をいきなり裏切って、冒頭は、ハナによる激しいベースのプレイから。かなり歪んだ音色で、ガシガシとグルーブを刻むところに、ハイハットのカウントでドラムとギターが入ってくる。長めのイントロは、ギターもまた思いっきり歪んだ音色。しかし、フレーズらしいフレーズを弾くのはここだけで、歌が始まってからはフレーズというより、ほぼノイジーなサウンドで空間を切り裂くようなプレイになる。

特筆すべきはやはりまず、歌詞だろう。

  心の闇を狙って 悪魔がそこで見ている

  ここには用事はねぇハズさ ここではみんなが笑ってる

「ここ」とはもちろん、ライブ会場。「みんな」とはオーディエンス。

いや、よくテツヤが「ライブはミュージシャンとお客さんがつくるもの」と言っているから、オーディエンスのみではない。バンド自身はもちろん、PAやお店のスタッフも含めて「みんな」が一丸となって音楽を楽しんで笑っている。

地上で、最も幸福な場所のひとつ。それがライブの場であることを語るのに、対極にある悪魔を持ち出すというコントラストの冴え。一気にわれわれは月光グリーンと一体化し、次の一節を一緒に叫んでしまう。

  そうさ オレらが悪魔を宇宙に飛ばしてやるんだ

メロディーは、「和」を感じさせるヨナ抜き五音階で、月光グリーン独特の節回し。「さい! さい!」という祭の囃子言葉的な掛け声も、日本人の血を騒がせる。

西洋音楽的な意味での調性には馴染まないタイプの旋律だが、一応キーはEmになるだろう。

コードはほぼワンコードで、和声的な響きよりも、先に書いたようにノイジーな音響性を重視したサウンドづくりだ。

ボーカルも、やはり歪んだ声質で、乱暴に歌う。先の「飛ばしてやるんだ」の個所など、歌詞カードにはこう書いてあるが、実際には「飛ばしてやんだ」と「る」を飛ばしたワイルドな符割り。

サビは全員のユニゾンで、やんちゃな男子感が満載だ。


#2 雪よ

2曲目もアップテンポのロックナンバー。しかしキーはC#mで、歌詞も哀愁を帯びたラブソング。ジャケットの抒情的な絵柄はここから採られたものだろう。したがって、この曲がアルバムのリードトラックという位置づけになると思われる。

面白いのは、リズムである。

イントロからAメロは速いテンポの8ビートが続く。それがBメロで倍テンになり、2拍の変拍子的なブレイクを挟んでサビになるのだが、その時、リズムは倍テンのままなのだ。

倍テンとは、それまでの2拍を1拍に数えて、2倍ゆったりしたテンポにするアレンジのことだが、これは普通、Bメロのみで使われる。つまり速いテンポで始まり、途中にゆったりしたパートを入れ、サビでまた最初のアップテンポに戻ると、よりスピード感が強調されて盛り上がるわけだ。

ところがこの曲では、一番盛り上がるべきサビまでもが、倍テンのままなのだ。

恐らくその理由は、歌詞が非常に内省的で、自分で自分のズルさを告発するような内容だからではないか。

聴き手に呼び掛けるようなメッセージ型であれば、速いテンポでたたみかけて説得力を出す方法もある。しかし、自分自身を見つめる歌詞が、あまり速いテンポでは言葉が流れてしまい、その痛みが伝わりにくい。

もしかすると、当初この曲は、Aメロも、Bメロとサビのゆったりしたテンポで歌われていて、ある意味バラード寄りの楽曲だったのかも知れない。それをアルバムのコンセプトが「ライブバンド宣言」になったので、テンポを速くし、その流れでAメロを歌うことにした、という経緯も考えられる。

ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」という曲も、初めはロッカバラードだったのを、プロデューサーのジョージ・マーティンがアドバイスして、速い8ビートにしたというエピソードがあるが、レコーディングの時か、デモ制作の時に、誰かからのサジェッションがあったとも考えられる。

それはともかく、Aメロのドラム。2拍目の裏を食うパターン自体は割とよくあるが、チュウのプレイには独特のグルーブがあって、実に心地よい。その秘密が知りたいのだが、あいにく、ドラムは演奏できないので、まったくわからない。あの太い音色が生み出す効果ではないかと想像するのだが。

ラスト、テツヤは珍しく裏声のみで「雪よ 雪よ」と繰り返す。メロディーも下降ラインが強調され、あたかも「歌の雪」が降ってくるような、賛美歌的な美しさに満ちている。


#3 底なし沼

ギターリフからつくられる曲がある。70年代の、クラシックなハードロックでよくあった手法だが、この曲もそうではないかと思う。冒頭ギターのみで始まるし、全体にギターサウンドが主役になっている。

キーはEmで、ブルーノートであるB♭の音を効果的に多用したリフである。これも、ロックの王道。ただ、70年代のロックでは、よりブルースに近く、この音をストレートには弾かない。チョーキングを用いて、B♭に近い微妙な音程、いわゆる微分音を使うのに対し、ここでははっきりとB♭を弾いている。そればかりか、オクターブ奏法も用いて、強調さえしているのは、むしろ80年代後半から90年代以降のメタル文脈から出てきた奏法だ。

ここでも、速いテンポと倍テンを行き来している。サビでは、バックがノイズに埋もれるような速いビートなのに、ボーカルは一音一音を長く伸ばした、ゆったりしたノリなのも面白い。

それにしてもここのドラムはものすごい手数だ。隙間を絶対つくらねーぞ、という強烈な意志が空間を埋める勢いで、ジョン・ゾーンのようなパンキッシュ・ジャズにも通じるカオス。ボーカルの、能天気と言おうか、妙にあっけらかんとした不思議なニュアンスが、その上を他漂う。

これは、歌詞が「底なし沼」をテーマにしているからだろう。

「底なし沼」は身動きが取れない状況のシンボルだ。つまり、まったく進むことができない状態。

通常、人は、こういう場合に焦る。何とか脱出しようともがく。

ところがこの歌の主人公はまったく動じない。なぜなら、それでも足踏みはできるし、「変わらぬ風景だけど オレが変われば 輝く」からだ。

足を踏み続けろ、「止まると沈む」

この「止まると沈む」という箇所でも、バックがブレイクして、ボーカルだけになるのだが、その、開き直っているというのか、皮肉まじりというのか、とぼけた味わいが濃厚に出ている。

底なし沼にはまった男とは思えない達観。

これを音で表現したのが、カオスなバックにのほほんとしたボーカル、というアレンジではないか。周囲がどんなに目まぐるしく、混沌とした底なし沼状況でも、自分のペースでのんびり、とほほんと、しかし諦めずに足踏みを続ける主人公というわけだ。

最後の方の歌詞には、はっとさせる言葉もある。

  底なし沼なんてのは 誰が測れるか

  足が届くと思え 心呑まれるな

 確かに!

 底がないということを、誰も知ることはできないのだ。底がないと思ったその先に、実は底がある可能性は常に残る。だから、それが底なしであると人は「知る」ことができない。ただ、「そう思い込む」だけである。

 つまり、「底なし沼」は人の心が作り出した幻想なのだ。「足が届くと思え」ば、その幻想は消える。

 まるでチェスタートンを思わせる、逆説!


To be continued……

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