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UBER EATS のこと、はじまり

夜の配達を終え、自宅で小室哲哉のマイナーコードをそれとなく含むセミアップテンポなミュージック制作のユーチューブを聞きながら、いまの私のなりわいについて、熟考することにした。

UberEats は自分もよく注文者として利用するが、よく似たドアツードアのサービス、セダン乗用車でいろいろな目的地に連れて行ってくれるタクシー、キャブと比べて割と安価で、実質いち配達500円程度の配達料金でレストランで食べるのと同じ食事が自宅に居たままでできるといっても使い方によってはそうとなる。

もうこのプラットフォームができてからは7~8年程度以上年月が過ぎているといえるが、わたしが街中で配達員に初めて印象深く心に焼き付いた、見かけたのは、大阪市内に住んでいた時に国道1号線をゆっくり、いや悪い言い方かもしれないがトロトロ同じ向きに流していたのを4~5年前に目にした時である。

当初は、自身郊外で生まれ育ったためお弁当などの配達は軽バンで複数食をまとめて効率よく配達するものであるといった固定観念があった。ところが、UberEatsはこの概念を覆した。自前で配達員、配達の機材を抱えることなくアウトソーシングという形で、しかも大阪市内の人口密集地ではあるが、自転車という自動車よりも速度の劣る乗り物でもって、配達する食事数も一食以下から、さらに同時に配達員がいつでも、どこでも、自分の配達したいときに注文を受け付けることができるギグワークの形式で。

もちろん、スマホやその通信機能、高性能な情報処理回路、ソフトウェア上の進化もあっただろうが、いくぶん実業家とはレスペクトに値する職業であるとも思えるような、レボリューション(革命)のひとつとしてあるかもしれないとも思った。

ここで言えることは、UberEatsはいまだ進化途上の更新する必要のある、いいかえれば粗いサービスで、常に企画していかなければならない、未来を模索している、試金石みたいなものだということである。

UberEats がその理念のもと、何かを達成すること、しつづけていくためにまずそれが何かを定めたほうがいいと思うが、課題をたくさん抱える中、古い言い方をすれば出前というフードデリバリー事業をどうしていきたいか、どのように捉えているかである。単なる店舗内配ぜん人の延長としてでもいいし、タクシードライバーのような存在としてでもいいが、今Uberは一強として何でもチャレンジしていっているが、はたして顧客は満足しているのか。課題は解決しつつあるのか、そもそも課題ととらえているのか。

まあ、まず解決する課題を絞ることがいえるし、方向性を定めるひつようもあるくらい、フラッグシップで前途を見定める必要がある存在と思う。その中にいち配達員もいるかもしれない。

わたしが思うのは、UberEatsは確かにもてはやされてはいるが、そのサービスが歩留まりがわるく、顧客によってはハズレとか、ガッカリもあったりするのではないかということである。その延長が閑散期であり閑散な時間帯でもあるだろう。

買い物という行為は最終的に作業化すると思う。だからそれは機械化できるし自動化できるし、他人が代わりをすることも可能だと思う。ただ、価格の負担がある、買い物自体が楽しみであることもあるのでUberEatsが選ばれない時があるが、もっと今よりダイナミックなプライシングで配達員をもてあそばせないようにしてほしいところである。

はじめてUberEatsを頼んだ時、それは私にとって感動商品だった。身支度をし、お金の所持を確かめ、自宅に鍵をかけたりしてやっと数百メートル先のハンバーガーショップに行き、時には長い列に並び、調理の待ち時間や受け渡し商品の確認その他、わずらわしい食事までの手続きの場所すべてからワープすることができる。

自転車配達員である私のわがままかもしれないが、Uberはそこに焦点を当ててもいいかと思う。

配達というより代行。そして四人前より遠距離より一人前多め二人前くらいほどほどの距離いつもの味。あれもこれもというより差別化特化は生き残りの有効な戦略だろう。分社化してもいいかと思う。

これからもテクノロジーを駆使しながらいろいろとアイデアを提供してくるであろうが、今までの顧客も大事にしながら UberEats は、欧米発祥らしくいつまでも自由闊達で前向きな、アップトゥーデートでちいさな失敗はおそれない配達員にもやさしいプラットフォームであってほしい。

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