時に手段が目的になってしまっても良いのかもしれない

今日はまるで梅雨が空けて、真夏が到来したかのような暑さだった。4月からAmazonでの配達を始めて以来、ずっと不織布マスクをしていたのだが、さすがにそろそろキツくなってきたので、今日は長らく家の片隅に眠っていたウレタンマスクを着けて配達していた。

やはり感染症対策には何も意味を持たないだけあって、とても呼吸がしやすく、汗で蒸れることもない。アリバイ的にマスクをするという意味では、この上ないマスクであろう。

ただ、そんな爽快感とは引き換えに「自分は何のためにマスクをしているのだろうか?」という疑問が常に付きまとっていた。

Amazonの配達システムは他の日本の大手宅配企業と違い、9割くらいは置き配(直接宅配ボックス含む)なので、ほとんどお客様と対面することは無い。感覚的には宅配便というより、新聞配達やメール便をしている感じだ。

なので、尚更マスクをしている意味を見出せないのだが、一応Amazonのルールでは配達中のマスクは義務付けられている。

そんな感じで感染症対策というよりは、そういうルールがあるからマスクをしているというのが実情なのだが、もはやマスクの存在意義とはそんなものなのかもしれない。手段が目的になっていて、その手段をちゃんと遂行できるかどうかが、一端の労働者にとっては大事なのだろう。

ただ、自分はよく海外の野球やサッカーを観るのだが、観客席を見渡せば誰もマスクをしていない。それどころか、密状態の中、大声で叫ぶように応援している。もう欧米人の感覚ではコロナ前の状態に戻っているのだろうか。

我が国の首相も海外に行けばマスクを外すし、日本に戻ればマスクをする。超VIPで迎えられた、かつてこの国を統治していた国の大統領も律儀にマスクをしていた。

この先、ある意味、マスクは民族衣装のような役割を果たし、着物や浴衣のように日本を象徴するファッションアイテムとなるのかもしれない。ステレオタイプな日本人を表現する時にマスクが用いられるということもあるのだろうか。

と、まぁここまで〝しがないおじさんのマスク事情〟というしょぼい話題を強引に引き伸ばしてみたのだが、今日はただ単にnoteの毎日投稿を更新するためだけに無理くり話題を考えた。

マスク同様に手段が目的になってしまっているのだが、意味が無いと思っていることの中に、何かしらの意味があるかもしれない。

はなから意味が無いと決めつけて何も行動しなければ、何も生まれない。ゼロはゼロのままだ。この一見、無意味だと思う投稿もいつか意味があるものになる日を信じて、とりあえず強引にでも毎日投稿は継続していこう。

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