【刀剣乱舞】謎解き山姥切国広の引用和歌の歌意と意図との一解釈

※何の話かという説明と「山姥切国広の雅力やべええええええええ知ってた死ぬしんでしまう」という感情を必死に生八ツ橋でくるんだ(くるめたとは言っていない)記事はこちらです。

今回の記事では歌に集中します。大丈夫です私は既に致命傷です。

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■こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ

漢字変換するなら

「来ぬ人を (待つ)松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ」

でしょうか。わかりやすく恋歌でわかりやすい言葉が並んでるので本当に私は死んでしまう。いや死んでる場合じゃない、解釈をば。

現代語訳するとこんな感じ。

「来ない人を待つ私ですが、“まつ”と言えば松帆の浦では夕凪の時間に藻塩を焼くそうで、その塩のように私は身も焦がれる思いであなたを待っています」

謎解きゲームでは山姥切国広は他の4振りとはぐれ、単身で合流者が来るのを待っています。そんな状況でこの歌を選ぶのが巧いポイントひとつめ。

それから歌の舞台は「松帆の浦」、つまり海辺です。山姥切国広は名の通り山と強く結びついた刀だと思うのですが、そんな彼が敢えて海の歌を選ぶことで「自分が本来いるべきじゃない場所に来てしまった」(※実際彼は意ならず2021年に来てしまった)という事実と不安とを伝えてくるようです。巧いポイントふたつめ。

巧いポイントみっつめは、歌仙が指摘した通りこれが本歌取りということです。本歌取りとは元にある歌を踏まえた上で後世の人間が新たに詠んだ歌で、ポジションとしては刀の「写し」に近いでしょうか。役割は全然違うでしょうが、とにかく本歌取りの歌を敢えて引用したなら他の誰でもない「写し」である山姥切国広の痕跡であるという証にもなります。とても巧い。

■「まつほのうら」本歌

ということは本歌を踏まえると山姥切国広の引用した歌と意図がより深く解釈できるのでは? と調べたらオーバーキルを食らった。出典は『万葉集』第6巻です。

名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三

万葉仮名はとても読めないので有識者の書き下し文をさらに引用。

名寸隅(なきすみ)の、舟瀬(ふなせ)ゆ見ゆる、淡路島(あはぢしま)、松帆(まつほ)の浦に、朝なぎに、玉藻(たまも)刈りつつ、夕なぎに、藻塩(もしほ)焼きつつ、海人娘女(あまをとめ)、ありとは聞けど、見に行かむ、よしのなければ、ますらをの、心はなしに、手弱女(たわやめ)の、思ひたわみて、たもとほり、我れはぞ恋ふる、舟楫(ふなかぢ)をなみ
――「たのしい万葉集(0935): 名寸隅の舟瀬ゆ見ゆる淡路島松帆の浦に

現代語訳するとだいたいこんな感じ。

名寸隅の舟瀬から見える淡路島の松帆の浦に、朝凪の時は玉藻を刈ったり、夕凪の時には藻塩を焼いたり、そうして過ごす海女の乙女がいるとは聞きましたが、逢いに行こうにも方法がないので、勇ましい心はなくなり、かよわくも心は萎り、右往左往しながら、私はあなたを想うばかりです。舟も楫もないために。

本歌を踏まえると山姥切国広が引用した歌は、まず前提として自身のことを想いながらも来てくれない相手がいて、そんな相手を待って身を焦がしていることがわかります。外野的には「御託はいいからお前らさっさとくっつけ」案件ですが、それはさておき山姥切国広ですよ。

本歌取りとわかっているなら本歌のことも知っているはず。つまり他の4振りにしろ本丸で待ってる審神者や他の刀にしろ、「自分と合流したがってるやつがいる」前提に立てていると解せます。ボロボロのままでいい、朽ちてしまっていい、すぐに飽きるだろう、自分は写しだからとぼやいてきた山姥切国広・布が。6年の歳月尊いな……? すいませんちょっと深呼吸させてください。

■私訳・山姥切国広

以上を踏まえた上でこの歌を山姥切国広風に変換するとこうなるんじゃないでしょうか。

「あんた(達)は会う術がないと心さまよわせているんだろうが、写しの俺は訳のわからないこの場所で、あんた(達)を待ち焦がれているぞ」

ぜっっっっっっっったい迎えに行きます(行った)。

■あらしふく みむろのやまの もみぢばは たつたのかはの にしきなりけり

2首目に移りましょう。実はこちらの歌はまだ解釈に悩んでいるのですが、とりあえず漢字変換するとこう。

「嵐吹く 三室の山の もみじ葉は 竜田の川の 錦なりけり」

わざわざ現代語訳しなくてもいい気もしますが一応。

「嵐が吹く三室山の紅葉の葉は、竜田川を彩る錦なのだった」

紅葉といえば能の「紅葉狩」でしょうか。頼光四天王の1人・平維茂が戸隠山に向かう途中、女に化けた鬼神と遭遇しそれを退治するという話ですが、山姥切国広・極と山姥切長義の実装記念イラストが紅葉の絵だったので鬼神を山姥とみなし両者と結びつけることも可能かなと。

山、紅葉、錦、そしてこの歌も本歌取りであるならば、「山姥切の写しである国広の傑作はここにいるんだぞ(強調)」という、1首目いわば“記名”でしょうか。2首で青い海と赤い山が揃って、色鮮やかにしてスケールが大きい。百人一首で紅葉を歌った歌は他にもありますが、ひときわ直球で強烈なのはこの歌だと思います。何せ「なりけり」だぜ……これはまさしく山姥切国広の痕跡。好きです。

■深読み1:本当に本歌取りなのか

さてこの歌をネットで軽く調べたところ、本歌取りと明記してる記事はほとんどありませんでした。本歌とされる歌も

「竜田川 もみぢ葉流る 神奈備の 三室の山に 時雨ふるらし」

……現代語訳すれば「竜田川にもみじ葉が流れている。神奈備の三室の山に時雨が降っているらしい」で、先述の歌と組み合わせたところで特に物語の広がりも見せず、本歌と本歌取りの関係である必要性も感じません。「山姥切」を表すために引用された歌なら、たしかに本歌取りである必要はない。……というところまでこの歌で表していたら凄いけど、さすがにないかなぁ。

何にせよ山姥切国広が引用した歌が本歌取りであろうとなかろうと鮮烈なのは間違いなく、「写しだとかどうだとか関係ない、俺は俺だ、国広第一の傑作・山姥切国広なんだ(断定)」を表現した引用となると巧すぎていっそ引くし、それはもはや極の境地では……。

■深読み2:引用歌と本歌と「紅葉狩」

両歌を繋げられるものが能「紅葉狩」でしょうか。鬼神が化けた女は

「時雨が降るたび紅葉の色が深まる(ので隠れ家を出て紅葉を観よう)」
「山深く踏み入れば川面を埋めた紅葉が流れをせき止めてしまうほど」
「これ以上行けば“錦の紅葉”ももはや無い」

と、両歌に出てくるキーワードを散りばめてきますが、どれもどことなく不穏な響きがあります。ひとつめは言葉だけ聞くとそうでもないのですが、維茂側からすれば「紅葉につられて立ち現れた化生に遭遇した」ので、あまり喜ばしいことではありません。

鬼神が隠れ家を出た理由は「生きながらえて知る人もいなくなり、秋の風情で寂しさがいや増した時に見えた紅葉に懐かしさがこみ上げて」です。知る人もない孤独は痕跡を残した山姥切国広がまさに味わっているものです。

刀剣男士は斬ったものの属性が呪いのように付与されます。山姥切国広も山姥……「紅葉狩」の鬼神の要素を負っているかもしれない。ならば。

もしあのまま誰とも合流できなければ。鬼神のようにさまよい出て、寂しさを埋めるために行きずりの人と形ばかりの心を交わし。そうして清い流れはせき止められて濁り、錦のような華やかさも失い、人を喰らう鬼になってしまったのでしょうか。

あるいは紅葉の赤は藻塩(山姥切国広の身)を焦がした炎の赤かもしれず、紅葉を深める時雨は彼の心の涙かもしれず。

それほどまでに彼が追い詰められていたなら、迎えに行けたこと、彼を綺麗なままでいさせられたことに安堵するとともに、これからも独りにさせるわけにはいかないと改めて思うわけですよモンペ審神者もうすぐ7周年の身としては。

そうは言っても「紅葉狩」は、神にお告げと太刀とを賜った維茂が鬼神を調伏して結末を迎えます。化け物退治の刀である山姥切国広が体現するとなれば維茂の刀が最もふさわしく、どれだけ追い詰められても加護を得て己を取り戻し己が心の鬼を断てるんだろうなぁ。

あるいはその加護こそが、彼にとっての審神者なのかもしれない。

■結論:山姥切国広はほっとけない

両歌を解釈してみて共通するのは「山姥切国広は寂しいとダメになるやつだな……?」ということです。

ゲームでは重傷者が出ても行軍を指示すると止めてくれるようになりましたが、刀にとっては粗末に扱われている証左、あるいは破壊宣告です。実際そのように受け取り不信や抗議を示す刀もいるようですし山姥切国広も通常時は抗議の色を滲ませてますが、極めるとめちゃめちゃ冷静に止めてくれます。

対して、極めても不安が見える台詞は放置時と長期留守時なんですよね。前者はあからさまにため息をついて気を引き、明確に抗議する。後者は自分が無為のものに戻る不安を示してすがるような言葉を放つ。そういえば正月も「相手をしてくれる」ことに喜んでいました。

山姥切国広、寂しいとダメになるやつなんだな? オーケー任せろ構い倒す。つまり今年もいつも通りだ。

書き始めた時には思いもよらなかったところに着地しましたが、それもまた書くことの楽しみでもありました。今年もぼちぼち書いていければいいな。

今年もよろしくお願い致します。

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