みえないものへの恐怖
ぼくは『見えないもの』というのは非常に怖く感じます。
他人がどう思っているのか、
他人が何をしているのか、
パソコンがエラーを発した時に何が起こっているのか、
車の調子が悪い時に何が原因なのか……
と同時に『聞こえないもの』に対しても同じような感覚を抱きます。
『見えないもの』は確かに怖いですが……見えていないもの、見ようとしていないもの、見る努力を怠っているものに関しては気を付けなければいけないぁとも感じています。
自分が見ていないだけで『見えない』と判断するのは……自分の判断能力を低下させ、危機回避する力を著しく下げているのではないか、とこのコロナ禍の―――約2年にわたる期間の中で感じています。
▼見えないウイルス
ぼくはもうすぐ50に手の届くオッサンですが……
この四十数年生きてきて、この『コロナ禍』ほど、全世界が見えない敵に翻弄されたのは初めてのような気がします。
もちろん、忘れてはいけない大震災や災害も目に見えないものです。
こうした『見えない』ものというのは非常に怖いと感じています。
新型コロナウィルスに関して言えば、未知のウイルスで世界中でロックダウンが行われ、日本でも『緊急事態宣言』というものが発令され、自粛が続きました。
見えないものがぼくらの生活を脅かし、誰一人として『これをすればOK』というモノがなかったのではないか、と思っています。
今は予防措置をし、ワクチンが広まり、ソーシャルディスタンスを意識している行動から、幸い去年のはじめよりも感染状況が劇的に変化しています。
このまま新型コロナウィルスが激減し、コロナ禍自体早く終われば良いと強く思っていますが……やはり、見えないモノへの不信・恐怖というのはつきまとっています。
▼SNS時代の情報の早さと偏り
十数年前に比べたら、今はインターネットの環境が劇的に変化し、それに合わせて世の中の動きも大きく変わってきました。
家に居ながら、食べ物や買い物をお願い出来る。
家に居ながら、映画作品や、本、音楽などなどを楽しむ事が出来る。
家に居ながら、ニュースをいち早く得る事が出来る……
などなど、今や暮らしの中にインターネットの恩恵は計り知れないほど浸透しています。
ぼくたち個人も発信がかなり自由になってきました。
プラットフォームとして、Youtube、note、Facebook、Twitter、Instagram、blogなどなどが登場し、色々な情報が行き交っています。
大手マスコミが発信する情報はもとより、個人が発信する情報の取得や閲覧は簡単に出来ます。
今回のコロナ禍でも有志の医師の方の発信があったり、外国に住んでいる方の発信があったりと情報の種類は多種多様であり、その量は計り知れません。
こうした情報の取得・閲覧方法は色々ありますが……
今の時代、SNSが情報源になることが多いのではないでしょうか。
例えば、最近は事件や事故の映像がテレビよりも早くSNSで拡散される事が多かったり、災害が起きた時にはいち早く情報が受け取れると感じています。
ぼくはこの情報源はとても便利であると感じています。
その反面、偏りが過ぎないように気を付けているつもりです。
ぼくは政治的には右寄りな考え方の持ち主ですが……
自分の意見と似た意見の人のSNSばかり見てしまわないように気を付けています。
もちろん、ぼくのフォロー/フォロワーさんにはぼくと似た考えの方が多くいらっします。しかし、全く違う考え方の方も同じくらいいらっしゃると感じています。
こうした政治的なこと一つとっても、ぼくと同じ意見を求める、というのは大変安心しますし、嬉しいことではあります。
しかし、それがすべて正しいか、という疑問は常につきまといます。
――もっと違う方法があるのではないか、
――実は前提が違うのではないか、
――違う思考があるのではないか
などなど、色々な考えを目にしているつもりです。
SNSは便利でもありますが――ぼく自身も気を付けているつもりでやってしまうことですが――偏ってしまうことがあります。
▼偏ると見えなくなるものがある
SNSから少し離れて。
実際の友人や家族、恋人、信頼できる人と話をしたとして。
その人が言っている事を無条件に信じる事ができるか、と言えば…
全くの他人と比べれば、信じるに値する条件はそろっていると言えます。
あいつが言っている事だから
とか
家族の言っている事だから
とか。
ある種の安心感もあるかもしれません。
また、有名人が自分と同じことを言っていたとしても…それはそれで安心感につながるかもしれませんし、自分の意見が「合っていた」と思うかもしれません。
しかし、ひねくれもののぼくは思うのです。
「もちろん、信頼できる人の話や尊敬している人の話は信用したい。けれども…妄信的に『無謬』の判断になってやしないか」
と。
つまり、「〇〇が言っているからあっているだろう」と思い込むことは、見えているようで実は目を閉じている状態なのではないか、と感じているのです。
もちろん、全ての人の言う事に疑いを持て。
言うわけではありません。
誰の話であれ、自分の頭で考えることが大切なのではないかと思っています。
▼時代と逆行する……
時代と逆行するような事を書きますが…
SNSや電子的な世界で実際の目で視たとしても…それを信じるに足るかどうかは分からないと感じています。
ぼくが書いているこのnoteも……SNSも人が運営し、人が使っています。
ですから、こうしたツールから見たり聞いたりすることは実際に”誰かがやっている”ことであるのは確かなことです。
しかし、こうしたツールにすべてが積み込まれているか……と言えば、NOだと考えています。
noteを書きながら思っている事を書かない事もありますし、
Twitterなどで書いている事もすべて本心ではないかもしれません。
SNSに書いてあるから本当だ、自分の目で見たから確かなことだ!と感じる事もありますが……しかし、そこで自分の頭でもう一度考える事が大事じゃないかなと思っています。
今はスピード時代ですから、判断も早くないとおいて行かれる気持ちになります。
しかし、実際に目にした事だとしても、『見えていない』部分や『見ようとしなかった』部分があるのではないか、と考える時間は必要ではないでしょうか。
ぼくは臆病者ですから、自分自身の判断の早さをなるべく早くしようと思っています。
しかし、その判断の早さは判断材料を少なくする、ということではなく、『見落とした』『見えてなかった』『見ようとしなかった』ものを検証する時間を早くしたいなぁ~と強く感じています。
見ないものは非常に怖いです。
完全にすべてが見える人はいないとも思っています。
ですから、見えないものにぶち当たった場合、なるべく多くの情報を集め、『見えてなかった』『見ようとしなかった』ものがないか確認していきたいと強く考えています。
ただでさえ、見えないモノは怖いのに、自分自身で見えないモノを増やすことがないように……このコロナ禍で気付いたことの一つです。