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必要で信頼される人となる。

『必要で信頼される人となる』
これはぼくが通っていた中学校・高校の校訓だ。

この歳になったからかもしれないし、今だからこそなのかもしれないが…この言葉がとても大事であり、少なからずぼくの人生に影響があった言葉だと感じている。

▼当時は・・・

ぼくは中学受験をして、中高一貫校に入学した。
入学の際のオリエンテーションの時にたしかこの校訓について、先生から説明があったんだと思う。

その話の内容をまったく覚えていない。
今、思い出そうと思っても、どんな説明だったか思い出せない。
そもそもちゃんと聞いていたかどうかすら怪しい。

確かに中学に入ってすぐは…自分で言うのもなんなんだが、素直な子供だったと思っている。
小学生が卒業して中学に上がったからといってすぐに分別がつくわけではない。

だからきっと「この学校で学べば、必要で信頼される人になるんだろうなぁ」くらいに思っていたに違いない。
また別の機会に書くかもしれないが、学校内の行事、習慣の方ばかり鮮明に覚えていて、こうした今大切にしていることがすっかり抜け落ちているようだ。

▼不思議に感じていた校訓

学年が上がるにつれ、どうにも反抗期というか、今ではまったく意味の分からない時期があった。先生に難癖つけたり、校訓に関しても「意味がわからん」と思っていた時代が確かにあった。

今から思うと、先生方というのは辛抱強い方が多く、ご苦労が絶えなかったんだなと改めて感じる。
何故なら、こんなくそ生意気な、14,5年しか生きていないクソガキが、わかったような事を並べて文句言ってくるわけだから・・・。
今のぼくだったら、殴ってしまいそうだ。

話を元に戻して。
そうはいっても、当時この校訓に関して、
『必要で信頼される人』って、いったい何なんだよ、と感じていた事は確かだった。
とっても不思議な校訓であり、どんな奴なんだよと思っていた。

▼卒業してから

この疑問が解決されたのは、卒業してから。
卒業して何年もたってから、中学から数えると、ずっとずと後だ。

ぼくが今感じていることを書くと、
必要というのは、仕事に対する技術、情熱、態度を持っている人であり、
信頼されるというのは、仕事を完遂でき、オーダーやリクエストに応えていく人間である、と考えている。

ぼくは未だそういう人ではない。
ただ、こういう人になりたいとは思っている。

世の中には確かに「必要で信頼される人」というのがいるのだ。
この人でなければいけない。
この人に頼むと間違いない。
という人が。

最初にこれを感じたのは、卒業して俳優の勉強を続けながら、システムエンジニアとして働いていた時だ。
とある先輩の仕事ぶりを見てそう感じたのだ。

その先輩の知識もさることながら、仕事の進め方、上司や部下、同僚からの信頼感、知らない事に対しての調べ方など…
おそよぼくとはまったく違う、”出来る人”だった。
今思い出したが、唯一欠点があるとすれば、朝寝坊が多いくらいではないだろうか。
その人は、その欠点を補ってもあまりある人としての魅力と技術力に長けていたように思う。

その時は、まだ「こういう人が必要で信頼される人なんだなぁ」とははっきりと思っていなかった。
ただ、ぼく自身も「この人は頼れる!」とか「この人の変わりはない」とは感じていた。

▼色々な職場で見た「必要で信頼される人」

俳優を続けながら、様々なバイト先で会ってきた「必要で信頼される人」を思い出すとすごい人ばかりだ。

運転技術に優れ、トラブル経験にも長けていた人。ただ、口が悪い。
設計技術に優れ、業種に限らず、お客のオーダをまとめ、調整能力に優れた人。ただ、酒癖が悪い。
演出技術に優れ、素敵な文章を書き、俳優の信頼ももすごい篤い。ただ、めんどくさがり。

ここには書ききれないが…数多くの「必要で信頼される人」に会ってきた。
また、今のぼくの個人的な仕事で接してきてインタビューも行ってきた色々な業種の中にもそういう人なんだな、と感じる人がいた。

その誰もが欠点も持ち合わせていた。
しかし、その欠点が気にならない、むしろ武器として生かしている人ばかりなのだ。

その人でなければ進まない、ということではない。
その人がいる事で周りが安心できる人。
その人に頼まなければ、どうにもならないということでない。
その人がやることでより仕事が強固になる人。

こういう人が「必要で信頼される人」なんだとここ数年改めて感じている。

▼近くにもいた

そう考えると―――以前にも書いたが―――わが父と祖父は経師の職人であり、まさに「必要で信頼される人」であると感じている。

お客様からのオーダーをもらい、仕事を進め、繰り返し頼んでくれる人が多かった。父や祖父に頼めば、細かいことを言わなくてもばっちり仕上げてくれる、という事も当時のお客様から聞いた事がある。
世の中の風潮として日本間が衰退してしまい、年齢もあり、父の決断で店は閉まってしまったが、それでも父の腕と仕事を今でもご評価いただくことがあるのは息子としてもとても嬉しい。

子供の時に父と祖父の仕事を間近で見て、聞いて、感じていながら‥‥中学生の頃はまったくもって、「必要で信頼される人」が近くにいることを意識出来ていなかった。
あの時にもっと校訓を真正面から捉え、もっともっと父の仕事を見ていれば・・・

―――。
しかしながら。そうは言っても、気付くことができなかった事よりも気付いた今、改めて思いを強くしよう。

ぼくが尊敬し、誇りに思う二人が間近にいた「必要で信頼される人」だったのだ。

無論、尊敬している部分が多いが、祖父も父も欠点を持っている。
それでも、お客様はもちろん、家族にも、趣味の仲間にも町内の人たちにも・・・必要で信頼される人であり続けているのだ。

▼ぼくは・・・

こう考えると、ぼくは未だ、『必要で信頼される人』とはほど遠い、道のりは長いなと思うと同時に、少しずつではあるが、『必要』で『信頼』されてきているとは感じている。

舞台に関する技術、広報に関する技術、音声・動画編集、照明の技術、文章を書く技術など含めて学び得てきた事はたくさんある。
こんなぼくを必要としてくれる人がいる。

また、ぼくがお任せいただいた仕事で、「また」ご依頼をくれる方もいらっしゃる。そうしたことでぼく自身の自信にもなるし、「信頼」を少しずつではあるが、得られているなとは思う。

反対に、信頼を失ったことも得てきたものと同じくらいある。
また、技術も得れていない事柄がたくさんある。

きっと、おそらく。
ぼくが生きていく中で、生きているうちに「必要で信頼される人」となることはないだろう。
それでも「必要で信頼される人」に一歩でも二歩でも近づけるように努力することはできる。

その中で今以上に「必要」にしてもらい、「信頼」される仕事を行い、そういう人になっていこう。

▼仕事をしていく上で

ぼくが様々な仕事をさせてもらう上で、ぼくが関わらせてもらっている人の事を考えると「必要で信頼される人」が多い。
反対にそうでない人ももちろんいる。そういう人は疎遠にはなっていってしまう。

ただ、ぼくが正しいとは、そういう人たちが間違っているとかは思わない。
合わないだけなのだ。
必要と思う事柄が違うのだろうし、信頼する内容も違ってくるのだと思う。

だからこそ、今、ぼくを必要としてくれて、今現在のぼくを信頼してくれる仲間、仕事関連の方、お客様、お友達、家族は本当にありがたい。
今進めているこの歩みがさらに「必要で信頼される人になるための歩み」としていきたい。

▼示説打放

ちなみにわが母校の校訓が「必要で信頼される人」になる前の校訓は「示説打放」と言ったそうだ。

まず、示し、
示して分からなければ、説明し、
説明して分からなければ、打ち、
打って分からなければ、放つ。

という意味らしい。
これも、今の歳になったからなのか…少しだけわかってきたように思ふ。

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武藤賀洋
舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!