皇統を失う事は日本語を失うことに等しい
令和2年11月8日、立嗣子の礼が行われた。
心よりお慶び申し上げます。
日本と皇室の末永いご繁栄をお祈りいたします。
この立嗣子の礼は秋篠宮殿下が次代の天皇、皇位継承順第一位である皇嗣となられることを内外に示される行事であり、去年の5月から行われている御代替わりの一環であり、この行事をもって今上陛下御即位の儀式の結びになると聞く。
この儀式についても新型コロナウィルスの影響で延期されてきたという。
新型コロナウィルス、コロナ禍は色々な所に影響を及ぼしていることは非常に恐ろしく感じる。
とは言え、それでも、ぼくら人類は少しずつでも新型コロナウィルスに勝ちつつあるのを今日改めて感じた。
今回は昨今話題になることが多い、皇室、皇位継承についてぼくなりの考えを書いておこうと思う。
▼女系天皇
現在、各テレビ局や雑誌、評論家、政治家の発言などでも話題にあがるのように「女系天皇」を容認するかどうかという議論がある。
ぼくはいわゆる「女系天皇」には反対だ。
何故ならば、それはぼくらが日本語を失うことに等しいと考えているからだ。
これを聞くと「このハゲはまたバカなことを」とお思いになる方もおられると思うが、ぼくは至って大真面目に考えている。
ぼくが生まれたのは昭和48年。もちろん、昭和天皇の御代である。
言うまでもなく、昭和・平成・令和と生きてきている。
その生きてきた中で母国語は日本語であり、世界中にあるどの言語よりも日本語が一番馴染みがある。
うまく使えているかどうかはわからないが・・・
この日本語が少しずつ変わっていく事はある。
単語が増えたり、言葉の意味が増えていったりすることはある。
誤用が本来の意味と並列して述べられることもあったりもする。
しかしながら…日本語そのものの本質は変わっていないと感じている。
▼世界で唯一の文化
我が国は2680年の歴史があり、万世一系で天皇陛下というご存在が受け継がれてきている。これは世界で一つだけだ。
ぼくごときがすべてを語れるわけではないが、世界を見回しても日本というのは珍しい国だ。
王朝が変わらず一つの国が続いてきたのは日本が世界で唯一だ。
不遜なものの言い方だが、皇統は文化であり、風習であり、日本独自のものである。
また、この「代わり」となるものはありえないと考えている。
今、私たちが、これを変えてしまっては、日本そのものが世界に存在しなくなってしまう。
2680年が神話の世界を含めているという話があったとしても、少なくとも、794年平安京遷都の時代から1300年以上、続いてきた伝統であり文化であることは確かなことだ。
▼変えること
女系天皇容認の方やもっと強いご意見の方ももちろんいらっしゃるだろう。
皇室なんか必要ない、と。
さらに言えば、時代錯誤だというご意見の方もいらっしゃると思う。
政治や風習、もちろん文化も変わらかったものはない。
大きくも小さくも変わってきている。
天皇陛下、皇室の在り方も時代によって変わってきたのは史実だと考えている。
また、1000年以上続いてきたものを古臭いという意見も目にしたことがあるし、現代に即して変えていく事が必要だという意見も目にする。
変える事、変革することがどこかワクワクもするし、変えていく事で見えてくるもの、わかってくるものも確かにある。
ひょっとすると、皇統も変えたら、色々別なものが現れてくるような気もする。
しかしながら。
ぼくはやっぱりこの皇統というものを大きく変える事、根幹が変える事は反対だし、今、現在生きているぼくらが今の感覚だけで変えてよいものだとはどうしても思えないのだ。
▼大統領とは違う
今この記事を書いている時、2020年の秋はアメリカ合衆国の大統領選の話題でもちきりだ。
アメリカ合衆国の国家元首はアメリカ国民の選挙によって民主的に選ばれる。ぼくには詳しい知識はないが、それは初代大統領から続く伝統ではないだろうか。
今、色々な騒がれている、トランプ大統領・バイデン氏がどちらになるかという問題は、アメリカ合衆国の国民が正当な選挙で選んでいるのだから―――ぼくには当選してほしい候補、気持ちはもちろんあるが―――どちらに決まったにしろ、文句をいう事ではない。
そして、アメリカ合衆国の大統領と日本の天皇はいずれも国家元首であるけれど(天皇は規定はされていないが・・・)大統領は選挙で選ばれ、天皇は皇統で践祚されていく。
こうしたはっきりとした違いがある。
他国にしてもそうだ。国家元首である人が”どのようにしてなったか”というのは、その国その国によって違うのだ。
ぼくは日本の皇室・皇統は世界に誇れると感じている。
▼日本語がなくなってしまったら
皇統と私たちが使っている日本語を同列に語るのは恐れ多いが、日本語には皇統と同じように、日本の伝統や風習や文化がたくさん詰まっている。新しい言葉も過去の言葉を元にして出来上がってくる。
敬語なども日本の文化の一つだと思う。
言葉というのはコミュニケーションツールに留まらず、どこの国の言葉でもその国の文化であり、習慣であり、風習だと思っている。
その言葉が消えたら、文化や風習、習慣がなくなってしまい、まったく別のものになってしまう。
また、「自分の意思」を間違いなく伝える事ができるのは「母国語」ではないだろうか。だからこそ「母国語」は大事であり、これを無くすことは死に等しいのではないだろうか。
皇統は、私たちにとって特別でもなんでもなく、私たちの見えない意思であると考えている。
日本語を消す事ができないように、皇統も消す事はできない。
皇統が消えてしまうということは、日本語が消えてしまうに等しいとぼくは考えている。
日本語が消えたから英語を喋れば良いという事にはならないと思うし、皇統が消えたら代わりはないのだ。
だからこそ、真剣に守るべきものではないだろうか。
もし、日本語がなくなってしまったら・・・
日本の文化は消滅してしまうだろうし、日本と言う国さえ維持できなくなってしまうのではないだろうか。
日本語が優れているとか、他の言語がダメだ、ということではない。
そこで暮らす人が普段使っている言葉がなくなるということは、その人たちの生命を奪うと言っても過言ではないはずだ。
皇統・皇室も同じだと考えている。
畏れ多いが、皇統・皇室がなくなってしまったら、日本の文化は消滅してしまうだろうし、日本という国はまったく別の地域になってしまう。
こうした事を書くと、「国民がいて、国民主権なのだから、国はなくならない」というご意見もあると思うが…ぼくはそうは感じない。
異質の、まったく違う国になってしまうと考えているのだ。
日本語がなくなってしまった世界のように、日本と言う国の根幹が変わってしまっては、まったく別の”途切れてしまった”国になってしまうとぼくは感じている。
さらには、昭和・平成・令和と生きてきて、天皇陛下・皇室がない、ということを考えたこともないし、日本と言う国に皇室がないということが想像もできない。
それは日本語がなくなってしまうことが想像できないくらい、ぼくにとってはあり得ないことなのだ。
▼人権とか男女の問題ではなく
皇統は男女の話や人権の話ではなく、こうした意思の話だと考えている。
1300年続いてきた文化や伝統を絶やしてしまうことは、日本だけでなく、世界にとっても損失のはずだ。
世界で唯一無二のものを消せる権利などというものを誰も持っているわけがない。
もちろん、「日本なんかどうでもいいぜ。古臭いこと言ってないで、どんどん変えるべき」という意見や「日本が唯一というのが許せん、天皇制自体いらん」という意見も耳にする。
しかし、なぜ皇統が受け継がれてきたか今一度私たちは考えるべきではないだろうか。
1300年以上の間、皇統を途絶えさせる、変える機会はあったはずだ。しかし、受け継がれてきたのだ。
断絶の危機もあっただろうけれども、誰かの意思と行動によって皇統は守られてきた。
これは、日本そのものの意思であるように思う。
国とか国民とかではなく、2000年以上にわたり、この土地に住み、真剣に生きてきた人々の見えない意思なのではないだろうか。
祖先の工夫や苦労がつまった、守り伝えてきた皇統そのものを失わせることは、ぼくには到底考えられない。
もし、ここで皇統が失われたとしたら、それは日本語を失うこと以上の苦しみがやってくるように思う。
自分の意思を正確に表現できなくなる辛さ以上に日本は世界にも、日本国内にも意思を示せなくなると考えている。