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遠く離れて・・・

先日、令和3年2月23日は今上陛下のお誕生日でした。
謹んでお慶び申し上げます。

今上陛下のお誕生日に際して、陛下の記者会見の模様が報道されておりました。

今上陛下のお言葉に耳を傾けた後に思った事があります。
それは、想像する力、思いやる力というものについてです。

▼便利な世の中

今はテレビやラジオ、ネットも発達して、遠く離れている人の近況や著名人などの動向もネットやテレビ、ラジオなどでその人の声や姿を見て知ることができます。

と同時に色々な意見が飛び交い、今まで多くの人が受信専用だったのですが、全世界に向けて発信できるようになりました。
また、電話やメールと言ったツールも発達し、今は簡単にコミュニケーションをとることができます。

なんと素晴らしい世界になったのか、とぼくは感じています。

ただ。
そんな中で意識しないと忘れがちになってしまう事があるのではないかとも思っています。

▼玉音

令和の世の中ですから、天皇陛下、皇后陛下、皇族方のお声やお姿など拝見する事は映像などで比較的簡単にできます。
過去には上皇陛下のビデオメッセージがありました。
戦後は皇族方の動向がテレビなどで放送されることも珍しくなくなりました。

玉音(天皇陛下のお声)が初めて、全国民向けに発せられたのは終戦の詔、大東亜戦争敗戦時の昭和20年8月15日のラジオ放送だと言われています。
この時に多くの一般国民が昭和天皇のお声を耳にしたと言われています。

つまり、その時までは天皇陛下のご存在は知っていても、お姿もお声もしらない状態だったわけです。

「そんな存在を無条件に信じて、当時の人はバカだな」という意見もあるかもしれません。
または
「縦社会だから、偉い人(支配者階級)に従った結果、何も知らない一般庶民が従順に従っただけ」
というような感じもあるかもしれません。

しかし、いわゆる玉音放送前の日本人が闇雲に知らない存在をただ信じていたとも思いませんし、神武天皇から始まる総ての天皇は、常に国民に向けて「詔」を発していたと考えています。

▼わかりやすいもの、見えるもの、聞こえるもの

もちろん、現代社会において、目に見えるもの、聞こえるものが現実でありそれらを元に意見を交換する事は非常に大事です。
しかしながら・・・自分が知っている事わかっている事のみで世の中は動いているわけではなく、やはり人との関わりというのは自分が見たもの、聞いたもの以外のものも大切なことというのは存在すると考えています。

今はどこか「わかりやすいもの」というものが・・・自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたもの、自分で理解しやすいものがそう言われているような気がします。

しかし、ここまでコミュニケーションツールが発達していなかった時代には今よりさらに「見えないもの」「聞こえないもの」というものと暮らしていてその中で―――今から思えば不便ではあったと思いますが―――「わかりやすいもの」というものが確かに存在したのだと感じています。

その原動力になったのは思いやりとは想像力ではないかなと感じています。

▼今は会えないたくさんの人々

コロナ禍にあり、間もなく1年が経過しようとしています。
先ほども述べましたが、現代において、これだけコミュニケーションツールが発達しているわけですから、連絡を取ることは可能ですし、それぞれが発信することも受信することもできます。

しかし、発信できない人もいれば、受信できない人もいる。発信しない人もいれば、受信しない人もまたいると思います。

そうした中で自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたもの以外がたしかにこの世の中に存在し、生きているわけです。

先ほどの歴代の天皇陛下についても申しましたが、存在は知っていても、見る事も聞くこともできないからと言って…そのご存在がないわけではありませんし、他人に言われたから信じ込まされているわけでもないと思います。

きっと、コミュニケーションツールがこれだけ発達していなかったからこそ、想像力と思いやりは現代人以上にあったように感じています。

▼バランスよく

だからといって、「あの人は絶対にこう思っている」だとか「あの人は〇〇と言いたそうだ」という固定観念は非常に危険だと思っていますし、反対に自分の目で見たもの、耳で聞いたものだけを信じるというのもとても窮屈な生き方になるような気がします。

一時期、「忖度」という言葉がまるで悪者のように言われた時期がありましたが、そもそも忖度とは、

忖度(そんたく)は、他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮することである「忖」「度」いずれの文字も「はかる」の意味を含む。
Wikipediaより引用

という意味であり、ぼくはこの「心情を推し量る」というのは人間が持てる素晴らしい能力であると考えています。

つまり、自分で見て、聞いて、それでもわからない時に相手がどのように感じているのか考える能力だと思っています。

見たもの、聞いたもの、想像する事、思いやる心をバランスよく自分の頭と心で整理することでコミュニケーションはもっと深まっていくのではないかと考えています。

▼今だからこそ

このコロナ禍であり、発達したコミュニケーションツールがある中で実際に「見たもの」「聞いたもの」を信じることはけして悪い事ではありません。
しかし、その見たもの、聞いたものが自分にとって好ましくないものであったとしても、発信した人の心情を考えることはできると思いますし、実際に「見る事ができない」「聞くことができない」状況であっても、存在を感じる事はできます。

人は対面する時に色々な情報を得ます。
相手の表情、目の動き、声の調子、大きさ、身体の動きなどなど。
もちろん、現代の発達したツールでもそうしたことを感じる事もできます。

しかしながら、実際に対面した時の空気、息づかい、匂い、温度までは感じる事は未だできないと認識しています。

ですので、発達したコミュニケーションツールを利用しつつも、それらが不得意もしくはできないことはやっぱり、ぼくらの頭の心で考え、思いやり、想像する事が必要不可欠だと考えています。

今、このコロナ禍だからこそ。
人と会いづらい時だからこそ、この想像する事と思いやる心というのを今一度磨いていく機会なのだと強く感じています。


舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!