見出し画像

使える人間だけを友達にする

『自分を嫌いな人は価値がない』
どこのSNSだったか、誰が書いていたのか分からないが・・・
この文字列を見た時にものすごい違和感を感じた。

と同時にぼくが、バイトにいそしんでいた時のセンパイの言葉を思い出した。
「自分に有益な使える人間だけ友達にするのが成功の近道だ」

▼自分を嫌いな人間

ぼくも40代後半になってきたので、それなりに人生を過ごしてきたし、たくさんの人と出会い、仕事や遊びをし、恋愛もしてきた。
今、現在進行形で家族がいて、仲間がいて、友達もいる。かつては恋人もいた。

当然のことながら現在は疎遠になってしまっている人もいる。
ぼくの事が嫌いな人、苦手な人も当然いるだろうし、ぼくごときに好意をもってくれる人もいる。
またぼくが…苦手・嫌いという思いを持っている人も少なからずいる。

ぼくの事が嫌いな人、苦手な人に価値がないのか言えば・・・
けしてそうではないと考えている。

『嫌い』になった原因は色々あると思う。
ぼくの性格かもしれないし、ぼくの見た目かもしれないし、ぼくの思想信条かもしれないし、ぼくの考え方や行動かもしれない、ぼくと利益が相反しているからかもしれない。
そのどれもがその人にとって合わなかったのかもしれない。

ただ、その人にもきちんと「価値」があるはずだ。
もっと言えば、”僕にとっても”価値はあると考えている。

だから『自分を嫌いな人は価値がない』という文字列を見た時に違和感を感じたのだ。

▼自分にとって価値のない人

ではぼくがどういう人が価値がないかと考えているかというと・・・
そういう人は思い当たらない。

これはなにも聖人君子ぶっているわけではない。
例え、敵だとしても価値は必ずあるはずなのだ。
ぼくが今、「誰かと戦っている」(戦争・戦闘いう意味ではなく、仕事上でも)としても、その戦いには必ず理由と意味があるし、相手に価値がなければ『戦う』という”自分”の行為にすら価値も意味も無くなってしまう。

同時に『戦う』意味や価値がないからと言って、相手に価値がないと言ったら、そうではないと思っている。

自分が嫌いな人、自分の事を嫌いな人であっても価値があり、それを認められるかどうかはその時次第であるし、気持ちとは別に「相手」の価値を認めることは生きていく上で大事な要素だと考えている。

とはいえ・・・ぼくのことが嫌いな人はたいてい、ぼくのやることなすこと、喋る事などについて「否定」をしたり「認めない」事が多いのだから、いい気分はしない。
いい気分はしないし、それが、ぼくや家族、仲間の身や心の危機につながることであれば戦うこともある。
ぼくも人間だから、その人間を心の底から嫌い、軽蔑することもある。

ただ。
やっぱりだからといってその人に「価値」がないかと言えばそうではないと感じている。

▼価値というもの

冒頭に書いた『自分を嫌いな人は価値がない』という言葉を書いた人がもし、『自分を嫌いな人は自分にとって価値がない』ということであれば、ここまでの違和感は抱かなかったと思う。

何故ならばそれはその人が抱く感情だから。他人のぼくにはどうにもならないと思っただろう。
けれども、『自分を嫌いな人は価値がない』という言葉には恐ろしささえ感じた。

つまり、自分と合わない人、自分の事が嫌いな人に対して「価値がない」ということは存在さえ否定しているとさえ感じてしまったのだ。

もちろん、この言葉はどこのだれが、なんのSNSで書いたか覚えていないし、この文字に違和感を感じたが・・・ぼくはこの書いた人に対して「価値がない」とは思わなかった。

ぼく自身、価値とはその人の生き方、仕事観、死生観、人生観に通じていると思っている。だからこそ、価値がない人間はいないと考えているのだ。
この世の中に価値がない人間などいない。
ただ・・・他人の価値がぼくに合う時と合わない時がある、とは考えている。

だから人に嫌われるし、人を嫌いにもなるのだと考えている。

▼センパイの一言

ぼくが言葉としての『仕事観・死生観・人生観』と書きだしたり言い出したりしたのはここ、5,6年だ。前にも記事にしたが、元海上自衛隊の伊藤祐靖さんのご著書やご発信に影響されているからだ。

だた、それ以前にも似たような「気持ち」は持っていたと思う。
だから、20年以上前に役者をやりながらバイトに勤しんでいた時のセンパイの一言、
「自分に有益な使える人間だけ友達にするのが成功の近道だ」
というのにも当時とっても違和感を持っていたし、今でもこういうことを言っていたセンパイを敬う気には正直なれない。

もちろん、自分に害を及ぼす人と喜んで友達になろうとは思わない。
と同時に、「有益な使える人間だけ友達」にするという事にも賛同はできない。今も。

▼使える人間、使えない人間

何故なら、友達というのはそういう観点でなるものではないと考えているからだ。
ぼくの友人や仲間を見た時に「有益」かどうかで見る目を持っていないし、実際、友達が有益かどうかなんてわからない。
時には自分の利益になるような行動をしてくれる時もあれば、反対意見を持っていて、考えや行動が合わない時だってある。

また「使える人間」という事についても、非常に違和感、嫌悪感すら持つような考え方だと思っている。

もちろん親しい間柄の冗談だったり、陰口で「つかえーな」と言ってしまうことは誰にもあるだろうし、口に出さなくて思うことはあると思う。
そういう時のことを思い出すと、自分の予想とは違う、望んでいない、ぼくにとってはつまらない行動や言動を見たり聞いたりすると…口にしたり思う事がある。

つまり、自分の意に沿うかどうかという事を無意識に考えてしまうのではないか、と思っている。
センパイの言葉がこの意味での「使える人間」と言っているのであればぼくはやっぱりこの考え方には賛同できないのだ。

『仕事』をやる上で言えば、仕事ができない人よりも出来る人とやったほうがいいとは思う。イメージとしては自分が「楽」できる仕事が想像できる。
それでもやっぱり、仕事ができるかどうかは「ぼく自身」の判断によることは大きいだろうし、たとえ「仕事ができない」という人間と仕事をしたとしても、『仕事』そのものが完遂できないということはないと考えている。
(もちろん、仕事によっては技術や考え方、資格もある。それはまた別のことだと考えています。)

反対にぼくが「この人は仕事ができる」と感じている人と一緒に仕事をしたとしても、それがぼくの考え方ややり方と著しく違ったり、「楽」できるかなと思っていても、実際に仕事時間が予想より長くかかってしまう可能性もある。

▼独裁者や王様じゃないから

改めて書くが、『自分を嫌いな人は価値がない』と書いた人もセンパイも価値がない人間だと思っていないし、ぼくにとって無益でもないし、使えるかどうかはわからない。

ひとつだけ言える事は、この考えはぼくには合わない、ということなのだ。

そして、この二つに非常に違和感を持ったのは・・・
ぼくはけして王様でも独裁者でもない、という思いなのだ。

自分を嫌いな人と無理に付き合う必要はない、とぼくは思っているし、
自分に害を及ぼすような人と友達になることは避けるべきだ、と考えてもいる。

ただ、自分を嫌いな人に価値がないという考え方や、自分にとって有益で使える人間だけを友達にするという考え方は、王様や独裁者の考え方ではないか、考えているのだ。

もちろん、人間だから、嫌なモノは嫌だし、
自分の好きなものや自分のことを好いてくれる人に囲まれて過ごしたい。

ただ、ぼく自身気を付けていきたいと思うのは、普段の暮らしでも仕事でも、遊びでも・・・ぼくと違う考え方、感じ方の人と交わることで、ぼくの考え方、仕事観、死生観、人生観も変わっていく事があるのではないかとも思っているし、時には批判をされ考える事で、新たに得られるモノが数多くあると考えている。

自分の意に沿わないからと言って価値がないとは思えないし、友達になれないという思いは・・・ぼくの中では非常に悲しい考え方だと感じている。

いいなと思ったら応援しよう!

武藤賀洋
舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!