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イイコトカウンター

Twitterでは何回も書いているし、このnoteにも書いた事があるけれども、ぼくはこの歳になって年甲斐ものなく、スティッチに夢中なのだ。

そう、あのディズニーのスティッチだ。

スティッチの身につけているモノの中に「イイコトカウンター」なるものがある。

▼アニメを見ていて

日本で放送された日本版のアニメを見ていると…その物語の中に『イザヨイ島にあるちたまの石の伝説』というものがでてくる。
それは、善行・いい事を43個行うと地球の力がたくさん詰まっているちたまの石の力で願いが叶うと伝えられている、というものだ。

スティッチは物語の中で、この善行、「イイコト」を重ねて、ちたまの石に願いを叶えてもらおうとする。
自称悪の天才科学者、ジャンバが発明した腕時計型メカであるイイコトカウンターをスティッチは身につけ、善行を行うように日々暮らしていく・・・

このイイコトカウンター、『善行』をするとポイントが上がり、『悪行』(ワルイコト)をするとポイントが下がるといったものだ。

ぼくはこれを見た時に「イイコトカウンター」ほしいなぁ~と単純に思った。
黄色だし、スティッチを目指しているぼくとしては・・・必須アイテムだなぁ~と。

いい歳して。と思われるかもしれないが…毎回スティッチを見ながら、スティッチに少しでも近づけるように色々と努力している、つもりだ。

このスティッチのアニメをみていると、色々な冒険からたくさんの「イイコト」を重ねていくスティッチと仲間たちの姿が描かれている。
ただ。ふと感じた事がある。
ぼくができるイイコトってなんだろうと・・・

▼子供の時のイイコト

子供時代を思い返すと、親の手伝いをする、部屋を掃除する、親や先生の言いつけを守る、宿題をちゃんとする、友達と仲良くする、勉強をする、意地悪をしない、早寝・早起きする・・・などなど・・・
ぼく自身がやっていたか、できていたかどうかは別にして・・・色々と思い出す。

今から思えば、主に「褒められる」事が良い事につながっていたような気がする。
今、この歳になったから言えるのだが、子供の時にあれだけ大変だ、と思っていたお手伝いや宿題などなども…今の自分に置き換えると、仕事だったり家事などなど「やらなければいけない」事になってしまっていて、いつのまにか”当たり前”にやらなければいけないいけないことになってしまっていて、これらをやらないと…生活に支障がでてくることになっている。

▼今の「イイコト」

そう考えると・・・今、「イイコト」というのは一体何なのだろうと感じている。

子供時代、イイコトをすれば褒められた。
祖父母や父母、地域のおじさん・おばさん、先生など周りの大人に褒められるとそれはとても嬉しかった。
勉強をする、親の手伝いをするといった―――自分や自分の身の周りのことなのに褒められたことを覚えている。
褒められたからイイコトなのだと思っていたし、今、振り返ってみても、「ワルイコト」ではないのは確かだ。

ただ。
今現在、自分や自分の身の周りの事をしてもだいたいの場合は褒められない。それはみんな多かれ少なかれやっていることだからだ。
もちろん、程度の差はあるけれども、自分や自分の身の周りの人が生きていく事に必要な事を「善行」として捉えている人は少ないのではないだろうか。

もちろん、そうした行為は「悪行」ではない。むしろ、「善行」に近い、いや、「善行」そのものだと思う。
ただ、褒められることは少ない。

▼子供の頃と今と・・・

おそらく子供の頃は―――幸せなことに―――ぼくの周りの大人たちは、遵法精神だったり、やらなければいけない大切なこと、世の中のルールなど知っておくべきことなどをどうにかこうにか身につけさせようとしたのだと思う。

余談だが、ぼくのような子供にもし「ぼく」が何かを身につけさせようと思ったら、キレてる。絶対に嫌だ。
だって、わがままだし、人の話聞かないし・・・自分勝手だし。
そう思うと、父母は相当苦労したと思うが…なんとかそこそこの知識と経験を得てなんとかかんとか生きていけている。

話を元に戻して。
こうした子供時代に身につけさせなければいけないことは色々あるとは思うが…そうしたことの一環に「褒められる」という行為があったのではないだろうか。

だからこそ、「褒められる」=「イイコト」だと思ってきた。
もちろん、これは変わらない。大人になった今でも、お褒めいただくことはある。それは必ず『悪行』以外を行った時だ。

何故、今”『善行』を行った時”と書かず、”『悪行』以外を行った時”と回りくどい書き方をしたかと言えば・・・
自分自身、『善行』と思っていない事をした時もお礼をうけたり、お褒めいただいたりすることもあるし、自分が大なり小なりの「悪意」を持った事で褒められたことなんか一回もないからだ。

▼自分の為の行いと他人の為の行い

そう考えると、働いている事も家事も「悪行」ではけしてない。
「イイコトするぞ」と思ってなくても行わなくてはならない、暮らしや自己実現の為に必要なことだ。当たり前のことだ。
だからこそ、褒められたり、お礼をうけたりすると余計に嬉しく感じるのかもしれない。

だからかもしれないが…今、ぼくができる「イイコト」というのはなんだろうと結構真剣に分からないでいる。

自分の為と思ってやっていることでも、他人の為になることだってあるし・・・
逆に他人の為に、と思って行動した事がぜんぜん他人の為になっていない、ならないことも数多く経験してきた。

自分の為に動くことだって「イイコト」につながることもたくさんあるし、他人の為に動く事は「イイコト」なのは間違いないし、ただ、これらが、「イイコト」と言われる結果につながるかどうかは全くわからないのではないだろうか。

▼悪意と善意と

例えば、献血や募金など。
これは「イイコト」のひとつなのかもしれない。

ただ、万が一、万万が一・・・
こうした行為をする時に少しでも悪意があるとそれは「イイコト」ではなくなってしまうのではないだろうか…
下心というか・・・

「献血しているオレ、かっこいい」くらいは良いかもしれないが、献血会場で迷惑行為をしたとしたら…「イイコト」ではなくなる。
募金をしたとしても…それを永遠に募金した先方に恩着せがましく言っていたら・・・それは「イイコト」ではなくなると考えている。

また、人間関係でも同じことがあるのではないだろうか。
「少し困らせてやろう」などと思いながら…口では「本人のためだ」と言いつつ、意地悪なことをする。これは「イイコト」ではないと考える。
同じに見える厳しい事だとしても、している人の善意と悪意というのは非常に大切だと感じているし、これが伝わらない場合もあったりするから難しい。

もちろん、人間は完璧ではないし、本当に性格がねじ曲がっていない限り、人は「善行」をしようと悩み苦しむのではないかと感じている。
ただ、やっぱり、心の弱い部分があって、「悪意」に染まってしまう時が誰にでもあるのだ。
性善説を強く唱えるわけではけしてないが、少なくともぼくはそう思っているし、たとえ、性格がねじ曲がっている―――常に周りの人間を「困らせてやろう」とか「イジメてやろう」と思っている―――人間が居たとしたら、きっとその人は、持たない。

▼詐欺

だからというわけではないが…ぼくは詐欺という犯罪は非常に許せないと思っている。
人を騙して、得をするという「悪意の塊」のような犯罪は本当に許せない。

もちろん「嘘をついたことがない人間」などいないと思っている。
人は多かれ少なかれ、大なり小なり、嘘をついたことはあるはずだ。

ただ、やっぱり「こいつから金を引っ張ってやろう」といういやしい感覚、悪意を持って行動する人間の気がしれないのだ。
これこそ「悪行」であり、言い逃れできないほど悪意に満ちたモノだと感じている。

詐欺に限ったことではないが・・・人を傷つけよう、困らせてやろう、いじめてやろう、屈服させてやろうというような「悪意」を行動の源にするのは非常に危険だし、人間としてやってはいけないことだと思っている。

詐欺ではないが・・・ネット上でもそうだ。
匿名だからといって…誹謗中傷をする、というのは悪意が詰まった行動だと思うし、「議論」と言っていても、「議論」になっていないものをネット上で目にすることもある。
自分が正しいと思う事をしんそこ信じるは良いと思う。
それを応援するのも良いと思う。
ただ、自分と意見が違うからと言って、相手を罵ったり、貶めたり、「自浄作用を促す」ともっともらしい事を言って裁くような事をするのは、ぼくには『悪意』が見え隠れする。

▼改めてぼくのできる「イイコト」

話を元に戻して。
ぼくのできる「イイコト」は一体なんなのか。
褒められたい、ということではけしてない。もちろん、褒められればとっても嬉しいのは言うまでもない。

ただ。
子供の時のように褒められれば「イイコト」という気持ちにはなれないし、他人の為にすることが「イイコト」だとも思えないのだ。

はたまたスティッチのように、様々な事が起る、冒険の毎日とはほど遠い日常の世界に生きている。

別に正義漢を気取って、世の中の悪を正そうと思っていない。
ぼくの言っている事が全て正しいなどとも思っていない。
ぼくが考えている事、行っている事が全て正解だとも思っていない。

・・・・。
とはいえ。
ぼくにではできることがあるはずなんだ。
もちろんできることは小さくて少ないけれども。
常に「善意」だけの人間ではないけれども。
欲望にすぐ負け、「悪意」が顔をのぞかせるけれども。

それでも考えていきたい。
ぼくができる「イイコト」。
ぼくの生きる世界には・・・少なくともぼくの周りには・・・ちたまの石の伝説はない。
ないけれども、ぼくが心の中に持つ、「イイコトカウンター」のカウントが増えるように考えて、行動し、暮らしていく。

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武藤賀洋
舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!