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一月九日

今日は一月九日。誕生日だ。正直言って誕生日などどうでもいい。くそくらえだ。しかし、そうゆうわけにはいかないのだ。この世に生まれたことを祝うのだ。実際、この世に生まれてきたことは本当に祝うべきことなのだろうか、疑問である。今現在死にたい死にたいと嘆いているのに生まれてきておめでとうと言われるのなんて嬉しくないし、喧嘩売っているのかお前らとさえ思ってしまう。しかし、私の生まれた日、両親は喜んだだろう。祖父母も喜んでくれたに違いない。そんな待ちわびられていた純粋でちっさな女の子が今では死にたい死にたいといいながら手を泣きながら切って、その場に頭を抱え込んでしゃがみ、叫んでる。人生何があるか分からない。

ここからが本題。小説を書き始めようと思う。パソコンに向かってみたが、書くことは特にない。しかし、生きた証を残したい。必死に生きてきた十八年間を誰かに知ってもらいたい。消えそうな自分の存在と向き合いたい。

中学三年の秋、柑奈はODをした。自分の存在に失望して、真っ暗な未来におびえて、今、この一瞬から逃げたくて、自分を見て欲しくて。田舎の真っ暗な、消えかかった電灯が一つある細い道で薬を飲んだ。飲んで飲んで泣きながら飲んだ。涙が止まらない。震えが止まらない。何も考えることができない。死んでしまうのかふと思った。怖かった。本当はこんな現実でも、死にたいといいながらも、生きたかったのだ。ほかの人と同じように笑って生きたかったのだ。普通を必死に求めてた。しかし、探しても探しても普通なんて見つかるはずがない。なぜなら普通なんて存在しないからだ。普通なんてものは空想だ。死にそうな私達が求めている普通ははるかに高い。そうなんだ。普通なんて幾らでも高くなっていく。そして、普通なんて幾らでも低くできる。死にたくない。そう泣き叫んで必死に助けを求めて電話をする。無意識にいろんな人に電話をかける。何回かけてもでない。最後の呼び出し音が終わって切れる時、絶望する。死にたくない。死にたくない。助けてと。

結局病院に行って、一日入院しただけでなんともなく、自殺未遂に終わった。

それから2年後の一月九日、誕生日に自殺は決行だ。もう後戻りはしない。これでやっと楽になれる。もう苦しまなくてすむんだ。ごめんなさい。ぱぱまま。今までありがとう。いろんな考えが頭に浮かぶ。首吊り自殺のよくあるロープの結び方をGoogleで検索する。難しすぎた。そんなのできない。しかし、最後だから時間をかけてロープを結んでみようか。いや、なんでもいいから早く終わりにしたい。ドアノブにロープを引っ掛け、首をかける。涙が頬をつたった。死にたいはずなのに、この人生とやらに終わりを告げたいのに、なぜだろう。涙が出る。死にたい死にたい言いながら自分を傷つけていた日々は無駄ではなかったのか?いや、今まで必死に自分を言い聞かせて頑張ってきたのは無駄になるのか?そんなの嫌だ。だけどもうこれ以上頑張れる気力も残っていない。私はどこで道を踏み間違えたんだ。愛されて育ったのに、いろんな事を経験したはずなのに、どこで道を間違えたんだ?私は早く気付くべきだった。そこで修正するべきだったんだ。しかしもう遅い。もう少し早く死ぬべきだったのか、もう少し長く生きるべきなのか、それとも今死ぬべきなのか。そんなことは分からない。誰にも分からない。

死にたいのではない。死ななきゃいけないのだ。今の現実に満足してないわけではない。そして、誰よりも幸せな生活を送れていることも自覚している。けれどこの先、これ以上の辛いことに耐えれる自信がないのだ。生きていれば辛いことは山ほどある。頑張っても頑張ってもその頑張りを潰すように次から次へといろんな事が被さっていく。そんなのはもう御免だ。やめてくれ。早く抜け出したいんだ。

そして柑奈は18歳で人生を終えた。自死という選択をし、後悔をするのだろうか。死後の世界はあるのだろうか。誰にもわからない。なぜなら、死んだ人間は帰って来ないからだ。誰も教えてはくれない。二度と会えないんだ。

柑奈のお母さんはずっと泣いている。涙が枯れることを知らないように。お父さんはただ立ち尽くす。なんでこの子が。なんでって。昨日まで笑ってたのにって。なんで気づかなかったんだろうって責めるんだ。自分のせいだって責めて責めて、どん底に突き落とされる。

柑奈の部屋のドアを開けようとする。足がすくむ。手が止まる。このドアの向こうで自殺していたんだ。首を吊り、だらんとなった手と足がはっきりと脳裏に浮かぶ。もう居ないはずなのに、この扉を開けたら死体がぶら下がっているのだ。そして首には青黒い跡があり、その死体は言うんだ。ごめんねと。


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