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さよならテレビ、さよなら見る前の僕

先日、ポッドキャストで知ったドキュメンタリー映画「さよならテレビ」を見に行った。

テレビ業界の今後にそこまで興味があったわけではなくて、年始だし、なにか問題提起系の動画を見て意識を上げたかっただけだったんだけど、想像を超えた作品だった。
 
映画館に行くと、業界の人っぽい人たちもちらほらいたし立ち見ありの満員で、この作品への期待が高まって上映が始まる。
 
この作品、見ているのが結構辛かった。
特に途中で新人の青年が編集長に激怒されているのを見るのは、社会人生活数年の自分にとっては、生々しい自信の思い出が蘇ってくるシーンだった。
 
「さよならテレビ」を説明するのに、東海テレビが自社内を晒してでも作った「ドキュメンタリー」っていうのは一番説明しやすいけど、見終わった後にこの動画をドキュメンタリーと呼ぶことに躊躇がある。
 
TV業界・伝えることの葛藤よりも、ドキュメンタリーってなんなの?って問い見終わった感想としては強いかもしれない。
 
TVの現場をみて、あーTV業界ってこんな所なんだー、って考えるだけでは終わらない。
「真実を知るとはどういうことか」「そもそも真実ってなんだ」という巨大な問いを最後に受け取った気がする。

見終わって最初に感じたのは、作品中で自分が抱いた、あの感情は嘘だったのか?ということ。
 
感情が嘘って感じたのは初めてだったけど、最後で、それまでのすべての言葉が嘘に感じる。感情が嘘って何?

特に新人の青年が、エンディング前のやり取りで1番はっきりした声でやり取りしているように感じてしまったのが、なんとも言い難いもモヤモヤになっている。

もちろん時系列を崩すという構成の中ですべてが嘘ではないと思うけど、でも「真実」と信じる前提の上に作品をみることで、今までのドキュメンタリー鑑賞がなりたっているということを痛感させられた。
 
ふりがなを間違えて激怒される新人の裏に、社長から激怒されていたかもしれない報道長がいる。ドキュメントはしてるけど、それは新人に焦点を当てたドキュメントであって、ドキュメントされなかった事実は多分ある。
 

ドキュメンタリーってなんなのか、っていうこともそうだけど、そもそもドキュメンタリーであることって、人に何かを伝える上で重要なのかな?

これをドキュメンタリーと呼んでいいのかわからないけど、作った人には伝えたい方向があってそれが達成できれば動画を放送することの意義は達成できる。
 
ドキュメンタリーという呼び方は単に「真実を映し出す動画」という名のもとに、「真実を知った気になりたい人」に対して作られたマーケティング用語なのではないかとすら感じる。
 
一時期の「ソーシャル起業家」でも思ったけど、結局周りがどう感じるかが、そのカテゴリーを作っているんだよな。

本当は社会意義を訴えることが、自分の事業成長に一番寄与するから途上国のこと全然気にしてなくても、気にしたふりをすればいいだけなわけだ。
 
後はところどころ印象に残ったのは、
派遣の人が、飲み屋で元同僚と「短期的な数字ばっかり追う、暇つぶしみたいなことやって」、みたいなこと言ってて売上とか事業を俯瞰して考えられることがかっこいいとか思っていた自分からすると衝撃だった。

これ成し遂げたかったじゃん、ってことに実直に向き合ってる人のカッコよさ。
自分の事業が潰れていると言っていたし、本当は数字が大事ってことを分かっているけど、東海テレビくらいの大きさでチマチマ0.1%のために本質的じゃないことを考えるなんて、違うんじゃない?って問題提起のように思った。

あと自室で「自分なんて何も残せてない、自分なんてジャーナリストじゃない」と言っていた彼は、たぶんこの企画で何か残せるんじゃないか、社会を動かせるんじゃないかという高揚があったと思う。

そして個人的にはこんな作品を作った彼はとても大きなものを残したと強く思う。主人公はいないけど、彼なしには成り立たない作品だった。

年始一発目がこの作品で背筋が伸びました。
素敵な作品をありがとうございました!

後書き:
着地点としては最悪だけど、この作品をみて感じたことは色々あれど、結論としては自分を裏切らないのは味覚だけなのではないかってという結論かもしれない。

口に入れておいしいと感じたものが、胃袋に入ってめっちゃまずいと感じたことはないけど、
この動画を見終わって感じるのは、見たもの・聞いたものが胃袋に入ってから、
「あれ、あれ本当はまずかったんじゃない?ねえ??」って叫ばれているようでした。


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