顧みず他を嗤う愚劣

私は今、リチャード・ニクソン著の「指導者とは」という著書を読んでいる。元アメリカの大統領であるニクソンがこれまで出会った強烈な指導者についてまとめている。
歴史の教科書で出てくるような人物たちの人間味が知れるのはとてもおもしろい。そして、出てくる人物それぞれが個性的で確固たる哲学のようなものを抱えている。

最近の政治家というのは無為で無個性な人物で溢れかえっている。
確かに、SNSが発達し、失言や過失について目に入りやすくなった。しかも、あふれかえる情報の中で失言などの意図する背後の思考について注目されないことも多い。

やはり生存戦略的に無味無色になることは選択されるべきであろう。
しかし、少なくとも表には出さなくとも、胸の中に熱苦しい哲学というかエゴのようなものを持っていてほしいものである。

この本の中に、気に入った表現があった。

顧みて他を嗤う愚劣は、えてして英知と見誤られやすいのである。

p74


これは、ドゴールというフランスの大統領に対し、集まりの場で彼を漫罵の対象にする人々を批判した一文である。

やはり教養高い文章というのは格好がいいものだ。
そして、この言葉は、誰にとっても強い戒律となり、戒めである。

ド・ゴールは他国の指導者に対し、このようなことを強く言っていた。

全力を尽くして独立独歩しなさい

この言葉は、他者に依存せず、自力で歩みを進めることを強く勧めているのだ。

マイケル・サンデルの著書のタイトルである「実力も運のうち」
この言葉は、結果に対する原因変数が努力によるものは大した割合ではなく、環境など独力ではどうしようもないことが強くその結果に影響することを主張している。

ただそれは努力をしなくてもよいということではない。
その結果を知る前も知ったあとも、わたしたちの取るべき行動は変わっていいわけではない。

現状の持ちうる手段でより良い結果を得るにはやはり最善を尽くす必要がある。

マイケル・サンデルの主張は、相互補助の正当性を訴えるものであり、それは必要なことである。
ただ、現状の日本において弱者を名乗る欲望にまみれた悪人が幅を利かせ過ぎではないだろうか。

有名大学では、女子生徒に対する枠を設けたり、その授業料を免除する場合もある。NPOには、どれほどの支援の効果がされているのか正当に評価されないまま多額の税金が流されている。

資産が十分にある高齢者に対しても年金のような制度を維持するのは正当なのか私には理解できない。

私の友人には、祖父母に学費を出してもらい、車も買ってもらい、大学の卒業祝いだと100万をもらった人がいた。

それが悪いこととは思わないし、私は相続税というのはなくすべきだと思っているから子や孫に所得移転が起こることは良いことだと思う。

ただ、それが高齢者の中の一例だとしても現役世代が子供を諦めてまで拠出している社会保険料や税金が彼らの肥やしの一部となっていると考えるとその所得移転のあり方に疑問を抱く。

やはり、共助というものはもちろん社会の根底に当然として維持されるべきだが、我々の政治の努力というのが共助の拡大へと焦点を当ててはいけない。日本という国は福祉国家としてある程度の政策は実行済みである。ここからやるべきはその効果の検証と調整である。

決して制度の歪みを利用され、独立独歩で必死に生きている人々がバカを見る社会にしてはいけないと思う。
もしそのような社会になれば、その福祉にぶら下がるお荷物に溢れた社会となるのだ。

そのような社会に誰が希望を見出すのか?誰が誇りを持てるのか?
悲しいが現状の日本の向かう先はそんな社会ではなかろうか?

そう考えながら、無力な自分のカッコ悪さに嫌気が差すのだった。

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