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【論考】ぼくたちは「星の人」として生きることができるか

 この怪文書は、2022年に刊行された『リトフラ vol.5』という素敵な同人誌に東雲が寄稿しました『planetarian』という作品についての論考です。
 主宰のhighlandさんから掲載許可をいただきました。1年ほど前に。ありがとうございますm(__)m
 ところで、どうして掲載がいまさら?

 魂込めて書きましたので、『planetarian』が好きな方もそうでない方もぜひご一読ください。
 そして、もしよければ下記の『リトフラ vol.5』ダウンロード版をぜひお手にとってみてください。他の方のイラストも文章も傑作揃いなので……!

※本記事には『AIR』『CLANNAD』および『planetarian』のネタバレを含んでいます。未プレイの方はご注意ください。


はじめに 〜星空の見えない世界で、それでも星の夢を見る〜

 幼い日の思い出がある。
「雑貨団」という劇団によりプラネタリウムで上演される演劇「シアトリカル・プラネタリウム」。そのうちvol.20にあたる『星たちの庭』という作品を地元のプラネタリウムで観たときのことを、今でも鮮烈に覚えている。
 なにぶん十数年前のことで、細かなストーリーは残念ながら忘れてしまった。けれど、じんわり温かいストーリーと演技、演出、音楽、映像、何よりドームに映し出された星々の無窮の燦めきは、幼き日の心に星屑として降り積もり、今も自分の心の基層を成している。そんな気がする。
 あのとき、もしかしたら私はすでに「星の人」としての生を歩み始めていたのかもしれない。

『planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜』という作品がある。
 2004年にゲームブランド・Keyより「キネティックノベル」と銘打たれ発表された本作は、2016年に配信アニメ化され、さらにはサイドストーリー『星の人』を再構成した劇場版も上映され、2021年にはサイドストーリーのひとつ『雪圏球』がクラウドファンディングによりOVA化されるなど、発表から十数年経った今でも根強いファンが多い作品だ。企画およびシナリオは、小説家としてのキャリアを持ち『AIR』『CLANNAD』のシナリオで高く評価された涼元悠一。原画・メカニックデザインには『イリヤの空、UFOの夏』などで有名なイラストレーターの駒都えーじ(通称:こつえー)が名を連ね、音楽はやはり『AIR』や『CLANNAD』でおなじみの実力派、戸越まごめがメインで担当した。
 しかし、本作は『Kanon』『AIR』『CLANNAD』といった、いわゆるKeyの「初期三部作」や、それに続く『リトルバスターズ!』『Angel Beats!』などの後続作品に比べても特段知名度が高いとは言いがたい。また、Keyを取り巻く「語り」のなかでもしばしば見過ごされる印象さえ受ける。たとえば、他ならぬKey監修のもと発表された坂上秋成『Keyの軌跡』(2019)では、『planetarian』についての記述は、確認する限りではほとんど存在しない。これは「キネティックノベル」として売り出された本作の販売形態が当初は配信限定であり、そこから徐々にメディア展開されて評価を上げてきた経緯があることや、本作の制作陣に麻枝准、樋上いたるらKeyの中核をなすスタッフの参加がなかったことが主な理由として挙げられるだろう。
 そして何よりも『planetarian』は、「初期三部作」や『リトルバスターズ!』『Angel Beats!』といったKeyの「本流」とは異なる質感を持っているように感じられるのである。いわゆる「SF」や「ディストピア」といった要素を備えた本作の企画者は涼元悠一であり、それまでKey作品の企画を担当していた麻枝准(と久弥直樹)ではない。また、シナリオやサイドストーリーも涼元自身が単独で手がけている。企画者が変われば、それまでと異なる質感の作品が出てくるのはある意味当然のことだろう。
 だが、それでもなお『planetarian』には、私たちに「Key作品」だと思わせるような何かが存在している。それは、単に「Key」のブランドを冠して発表された作品だという事実だけでは説明できない。確かに本作は、上記のような「本流」とは異なる潮流の作品であることは間違いない。しかし、本作は随所に「Keyらしさ」がちりばめられ、Keyの「本質」を受け継ぎ、ブランドの看板を背負ってリリースされた、紛れもないKey作品なのだ。これは、ファンの間でもある程度共有されている認識であるに違いない。
 そこで、ここではこうした共通理解、すなわち「『planetarian』はKeyの他の作品群とは明確に質感を異にするが、紛れもなくKey作品である」ということを前提としつつ、キネティックノベル版『ちいさなほしのゆめ』本編および涼元の手による短編小説集(四編のサイドストーリー)、それを基にしたドラマCDおよび朗読CD、さらにはアニメ版を含めた一連の作品群にいくつかの異なる角度から光を当てることで、『planetarian』という作品の輪郭を捉え直し、その本質を取り出していきたい。
 そこでキーワードとなるのが「年代記クロニクル的想像力」「ロボット工学三原則」「無償の愛」「奇跡」そして「星の人」である。これらの要素は互いに織り合わされ、新たな網の目を形成し、星空になって天球を覆い、そうして『planetarian』という作品が成立しているのだ。

 本作について考えるうえで重要なのは、やはり涼元悠一という書き手をおいて他にないだろう。基本的にゲームとはチームの制作物であり、個別のクリエイターをクローズアップしすぎることは得策ではないが、こと『planetarian』に限っては必ずしもそうとは言えない。それは、本作が涼元自身の企画であり、シナリオも単独での担当であること、すなわち、従来のKeyの物語の中核を担ってきた麻枝准とは異なる「小説家」涼元悠一という源流から生まれた作品であること、そして、涼元がシナリオライターとして参加した『AIR』『CLANNAD』に、すでに『planetarian』を形作る種々の要素が伏流していることを確認できるからである。
 本作の魅力を考えるにあたり、イラストやグラフィック、音楽の役割はやはり外せないし、キネティックノベル本編の画面構成(画面中央にキャラの立ち絵を配置せず、あたかもほしのゆめみが星空を「解説」しているかのような絶妙な立ち絵の画面配置)などの演出も無視できない大切な要素である。だが、本稿ではあくまで本作の「物語」にのみ焦点を当て、涼元が参加した『AIR』『CLANNAD』のシナリオや、『planetarian』に影響を与えたであろう作品群との比較検討を行うのみに留める。そして、本作が到達した『奇跡』の在り方について、その輪郭だけでも浮き彫りにすることを試みたい。

年代記クロニクル的想像力」について

 まず『planetarian』という作品の基本的な特徴を確認していこう。
 本作は、2004年に「キネティックノベル」として発表された。Keyの公式サイトによれば、キネティックノベルとは「高品質のシナリオと美麗なグラフィック、そして心を揺さぶる音楽による感情移入を追究」した「純粋なストーリーを動的な演出で楽しむエンターテインメント作品」であり、簡単に言えば短編のノベルゲームのことだ(画面いっぱいにテキストが表示され、キャラクターの立ち絵が後景に退く「ビジュアルノベル」という形態とは少々ニュアンスが異なることに留意されたい)。Keyの主力作品であるフルプライスのADVゲームとの大きな違いは、比較的シナリオ量が少ない短編作品であること、そしてADVゲームでおなじみの「選択肢」がなく、作中のシナリオが分岐しないことだ。これらは一見些末な違いでしかないが、こと本作に関しては、後に見るように重大な違いとなってくる。
 これらの特徴を踏まえた上で、本作とKeyの「初期三部作」を比較する際の議論の補助線として機能し得るのが、東浩紀が提唱する「ゲーム的リアリズム」の概念である。「ゲーム的リアリズム」とは、非常にざっくりとまとめると、作品におけるメタ物語的な構造から生まれるリアリズムである。ADVゲームにおいては、選択肢によって複数のルートに分岐していくというシステム構造から、こうした想像力が発生していると言えるだろう。なお、これらの概念をめぐる東の議論にここでは深く立ち入らないが、こうした「ゲーム的リアリズム」をごくごく単純な図式に置き換え、本稿における議論に援用させてもらうことにしよう。
 Keyの「初期三部作」のうち、特に麻枝准が企画した『AIR』『CLANNAD』には複数のシナリオをメタ的に束ねる構造が存在し、明確に「ゲーム的リアリズム」の性質を有している(『Kanon』にも当然メタ的な構造が認められるが、ここでは割愛する)。『AIR』においては「羽根」、『CLANNAD』においては「光の玉」が、メタ物語的な構造を可能にする想像力を駆動している。そして、それぞれの作品にライターとして参加した涼元の担当シナリオは、各グランドルートにおいて結実する、そうした構造の物語を下支えする役割を担っている。『AIR』におけるSummer編は、それなしでは『AIR』という作品自体が成立しないパートであり、「千年の夏」と羽根をめぐる物語のはじまりを担う起点である。『CLANNAD』のことみシナリオは「光の玉」のひとつ、いわゆる個別ルートのひとつという立ち位置ではあるが、同時に個別シナリオの時点で「かくされた世界」について言及することで、作品それ自体が隠し持つメタ的な世界構造を暗示している。
 しかし、より重要なのは『planetarian』という物語を駆動する想像力が、すでに『AIR』と『CLANNAD』における涼元の担当シナリオにおいて、その片鱗を見せていることにある。本章ではおもに『AIR』について見ていこう。
 雑誌『Aria』に掲載された単独インタビューで、涼元は次のように述べている。

本当は『AIR』で二次創作をして一番面白いのは、時空を越えて散らばった羽根がその時代、その時代で何を起こしてきたかを書くことではないかと思うんです。それだと神奈も出てこなきゃ観鈴も出てこないので書いてて面白くないから誰も書かないとは思うんですけども(笑)
 また本当に書いておいしいのは「元寇」の頃なんです。これも歴史ネタなんですけど、佳乃シナリオの白穂しらほっていう女の人の話、あれの時代は元寇なんです。あれも歴史的な裏話がありまして、(中略)
 そういうレベルで面白くできるようなネタは随所に振りまいてはあるんですが、同人の方の嗜好とは違いますよね。元がもの書きなもので、その辺のノリがなかなか…最近やっとつかめてきた気がしますが(笑)

 この発言から、涼元悠一という書き手が、特定のキャラクターをめぐる「物語(story)」を駆動する想像力の源泉を、その背景として構想された「歴史(history)」の空白から汲み出していることが窺える。事実、ここでの発言を参照するまでもなく、『AIR』における「羽根」をめぐる物語の「歴史」は、Summer編や佳乃シナリオを読めばおのずと浮かび上がってくるはずだ。
 メタ物語的な想像力に話を戻すと、『AIR』における「羽根」の設定を考慮すれば、むしろメタ物語的構造の方が副次的なもので、「歴史」≒「物語」の後からついてくるとも捉えられる。『カラフルPUREGIRL』誌上に掲載された麻枝と涼元のインタビュー記事によると、「羽根」は記憶そのものだが、少し壊れてしまっている。そして「羽根」が舞い、地上に分散した形で残されたことで、結果的に時系列に歪みが生じたり、時間が円環構造になってしまったりしているのだという。つまり、「羽根」によって駆動する「ゲーム的リアリズム」は、「羽根」をめぐる物語の歴史の果てにおいて、わずかに円環しているにすぎないのだ。このように作品構造を捉え直すと、『AIR』という作品を駆動する想像力が、私たちが思っているほどメタ構造に基づいていない「出来事の因果」としての時間にあると考えることもできるだろう。
 そして『planetarian』においては、『AIR』でも見られるこうした物語の歴史が「年代記」として編纂され、そのうちのいくつかの出来事だけが「物語」として私たちに提示されるのである。
 本作の成り立ちは少し変わっている。まずキネティックノベル『ちいさなほしのゆめ』が制作され、最初はダウンロード版のみの販売だった。後にパッケージ版が発売されるにあたり、初回限定版の特典として涼元自身により書き上げられたのが、四編の短編小説『雪圏球スノーグローブ』『エルサレム』『星の人』『チルシスとアマント』だ。そして、涼元がこれらの物語を手がける際の資料としたのが、後に劇場版『planetarian 〜星の人〜』のパンフレットに彼自身のインタビューとともに掲載された作中年表である。『planetarian』ファンにとっては必読この上ない当該年表は、この劇場版パンフレットが初出かつ唯一の公開場所であり、そこには『星の人』と『チルシスとアマント』の間をつなぐ未筆エピソード『舟守の塔』の存在と、そのあらすじも確認できる。考えてみれば、『planetarian』をキネティックノベル『ちいさなほしのゆめ』のみの単体の小品とみなすか、それともサイドストーリーも含めた壮大な「年代記」の集積として扱うかで、本作への印象はだいぶ違ったものとなってくるはずだ。私自身は後者の立場をとっているが、そうすると妙なことになってしまう。『舟守の塔』が未筆の時点で、『planetarian』は未完の作品ということになってしまうのだ。このことについては後ほど取り上げるとして、さしあたり『planetarian』の「年代記」的側面について見ていこう。
 本作を捉え直すうえで鍵となるのが、年表とともに掲載されたインタビューにおいて、涼元が影響を受けたものとして挙げた作品だ。火星を舞台としたオムニバス短編集、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』である。作中でほしのゆめみが屑屋に語ってきかせた『特別公演』において、それとは明示されずに紹介されている物語のひとつでもある『火星年代記』は、もともとはバラバラに発表された短編を時系列順に整理し、オムニバス短編集としてまとめた作品である。こうした『火星年代記』の手法は、まさに『planetarian』本編と四つのサイドストーリーにおいて見られる「年代記」的な物語構造を駆動する想像力である(さらに言えば『火星年代記』は何度か改訂や収録作の差し替えが行われており、『planetarian』の「年代記」がいまだ完結していないことについてもそれっぽい説明がついてしまうというおまけつきだ)。
 ここでは仮に、『火星年代記』や『planetarian』に見られるこうした想像力を「年代記クロニクル的想像力」と呼ぶことにする。
 こうした「年代記クロニクル的想像力」は、SFなどの小説においてはそれなりによく見られる形式であるが、ADVゲームを主に制作するブランドから発表された作品としては、どこか異質な発想のように感じられる。だが、実際には『AIR』という「ゲーム的リアリズム」の極致とみなされるような作品でさえも、「年代記クロニクル的想像力」がメタ物語的な構造を貫き支える竜骨の役割を果たしていることだってあるのだ。
 上記のように整理すると、『planetarian』という作品は、いわゆる「ゲーム的リアリズム」とは異なる発想源である「年代記クロニクル的想像力」によって構想された物語とみなすことができる。東による「ゲーム的リアリズム」論の妥当性はさておき、Keyの「初期三部作」にも見られる「リアリズム」とは異質な想像力が、本作を決定づける特質であることは疑いようがない。そこでは(言葉にすれば当たり前のことだが)「物語やキャラクターの生は複数化」されず「死はリセット可能なもの」とされないがために、大塚英志の提唱する「まんが・アニメ的リアリズム」の中心的な課題である「キャラクターに血を流させることの意味」は解体されず、そのまま保持されることになるのだ。
 作中年表は単線的な時間のなかで構築されており、ADVではおなじみの選択肢の分岐による複線的なシナリオ構造はとられていない。そのため、『AIR』におけるSummer編を中心とした「羽根」をめぐる物語の歴史と同質でありながら、本作の物語は滅亡までの絶対的な時間のなかで展開され、「ゲーム的リアリズム」が発動する土台として機能することは決してないのである。人類は緩やかな滅亡の淵に立たされ、直接的に救われる手立ては存在せず、Keyの代名詞である「奇跡」も、来るべき人類の滅亡を阻止することはできないのだ。
 だが、本作は「ゲーム的リアリズム」とはまた違った視座からのメタ物語的な想像力を呼び込む。ひとつには、本作の世界を「現実とかけ離れた、なじみのない世界」ではなく、「現実から地続きの未来」として捉えることが可能になっていることだ。これについては、劇場版パンフレットのインタビューにおいて、涼元自身が自動要撃砲台シオマネキのデザインをリアルなものに指定した理由として述べていることでもある。
 そして、こうした「現実から地続きの未来」を思い起こさせるメタ物語的な想像力の効果はもうひとつある。これこそが、本作最大の特質ではないかと思うのだが、これについては本稿の議論の最後に述べることにしたい。

 さて、次章に入る前に、今一度「年代記クロニクル的想像力」について言及しておきたいことがある。
 サイドストーリー四編がまとめられた短編小説集を一読すると(あるいはドラマCDおよび朗読CDを聴くと)、『星の人』と『チルシスとアマント』との間に遠い隔たりが感じられるはずだ。『チルシスとアマント』を読み進めるにつれて、やがてどういうことなのか朧げに明らかになっていくわけだが、それにしても二編の間の繋がりは希薄に感じられる。
 先述したように、二編の間には、もともと『舟守の塔』というエピソードが想定されていた。現在に至るまで未筆のままとなっているこの物語は、先述の作中年表にその存在が確認できるのみである。おおまかなあらすじは、星の人の末裔である青年と少女が、旅の果てに舟守の塔と呼ばれる場所で「舟守」と出逢い、脱出用のロケットでもはや無人となっている月面に赴き、彼らの持つすべての「言葉」(記憶素子、ゆめみのメモリーカードも神格化されてその中に含まれている)を月のホストコンピュータにコピーするというものだ。すでに執筆されている物語では、『チルシスとアマント』のなかでわずかに彼らの想いの残滓を感じられるのみである。年表によれば、『舟守の塔』の時点で星の人の役目は「星を見せること」から「人の言葉を星に届けること」に変わっており、それを理解するだけで『チルシスとアマント』に対する解像度がぐっと上がるのだ。未筆のままになっているのがあまりに惜しまれるエピソードである。
 だが、『舟守の塔』が未筆のままであるという事実をもって『planetarian』を未完の作品だということはできない。ごく当たり前の理由として、本編はあくまで『ちいさなほしのゆめ』であり、他四編はあくまでサイドストーリーにすぎないということがあるが、それだけではない。そもそも、物語の背景として構想された「歴史」の空白から語られるべき「物語」を汲み出す想像力こそが「年代記クロニクル的想像力」であるからだ。たとえば、本編でもわずかに言及のあった「第三月面港マレ・ネクタリス制圧作戦」という事件は、ただそのような事件があったと言及されるのみであり、その他の戦争など多くの事件についても作中で描写されることはない。そもそも、年代記のすべてを作中で物語る必要などどこにもない。むしろ、語られない空白によって受け手の「想像力」が駆動されることさえあるのではないか。
 かつて、涼元は『Aria』誌上インタビューにて、『Kanon』を「世界観に美しい穴が開いている」と評した。その言葉とはニュアンスがだいぶ異なるものの、私も『planetarian』という作品に対して似たような感覚を抱いた。特に四つの短編のうち『チルシスとアマント』は、他三編と違い、一読しただけではその立ち位置と本質を掴みきれない。何度も読み返し、私たち自身が「想像力」を駆動させて空白を埋めなければならない。そうすることではじめて『チルシスとアマント』がどのようなエピソードであるのか理解できるのである。そして、『チルシスとアマント』というエピソードの存在によって、はじめて本作における「奇跡」の在り方について考えることができるのだ。
(余談ではあるが、声優のすずきけいこによる『チルシスとアマント』の朗読CDをまだ聴いたことがないという方は、ぜひ聴いてみてほしい。そこにすべての「答え」があるから)

「ロボット工学三原則」が導く「無償の愛」

 本章では「美少女ゲーム」としての『planetarian』を実現している重要なファクターについて考察する。それは、他ならぬ「キャラ設定」である。
 Keyのキャラメイキング(とりわけヒロインのキャラクター設定)には独自のメソッドがある。それは、坂上秋成によれば「キャラクターが持つ記号性を強める」ことである(坂上 2019)。具体的には、妙な口癖(たとえば「うぐぅ」)、好きな食べ物(たとえばたい焼き)、外見の特徴(たとえば羽根つきリュックにダッフルコート)……などなど、わかりやすい記号によってキャラクターの個性を際立たせることで、ユーザーのキャラクターに対する印象を強める手法だ。このメソッドの源流は、Keyの最初期のメンバーであるふたりのシナリオライター、久弥直樹と麻枝准にある。とりわけ、久弥に強いライバル意識を抱いていた麻枝が、彼のキャラ作りを分析して自身のシナリオライティングに取り入れようと必死に努力したエピソードは有名だろう。こうして確立したKeyのキャラ作りのメソッドは、現在に至るまでKeyのシナリオスタッフに脈々と受け継がれているように思われる。
 ところで、ことキャラ作りにおいて、久弥や麻枝の確立したメソッドを冷酷なまでに徹底したシナリオライターがかつてKeyに在籍していた。他ならぬKeyの第一作『Kanon』に衝撃を受け、そのままKeyに合流した涼元悠一その人である。
『AIR』発売後の「Aria」誌上に掲載されたインタビューで、涼元は「『AIR』でやっぱりおざなりになってしまった可愛い女の子との恋愛であったり、気持ちの良いハッピーエンドであったり」を追究する方向に戻したいと明確に述べている。また、自身が著した『ノベルゲームのシナリオ作成技法』の中で「キャラクター設定五箇条」と称したセオリーを紹介しており、その最後に次の項目を挙げている。

5.恋愛ゲームのキャラは愛玩動物であれ
(中略)
 ですから、最初から最後まで均質に、盲目的、あるいは本能的に主人公のことを好きでいる、そういう愛玩動物のようなキャラが好まれます。
 このことに関して、リアリティーや受け手側の恋愛観を云々するのは剣呑なので避けておきます。ですが、事実としてこういった傾向があることは心に留めておいた方がいいでしょう。

 ……とまあ、正直言って身も蓋もないのだが、これを大真面目に受け止めるなら、たとえば『CLANNAD』で涼元が担当した「一ノ瀬ことみ」というキャラクターは、上記のセオリーに裏打ちされたメソッドにより生み出された「愛玩動物」的なキャラクターだと言えなくもない。『AIR』においてはシナリオを統括する立場にあった涼元にとって、『CLANNAD』はシナリオライターとして「美少女ゲーム」のヒロインの個別シナリオを一から手がけたほとんど唯一の作品であり、一ノ瀬ことみは彼のキャラ作りのセオリーを多分に反映したヒロインなのだ。もちろん、一ノ瀬ことみがそんな表層的なセオリーのみで片付くようなキャラクターでないことは言うまでもない。ことみは「セオリー」に則ってデザインされたほんわか不思議系少女(※超絶マイルド表現)でありながら、表出する幼さや狙い澄ましたあざとさの裏に、痛みと、悲しみと、諦めと、そして切なる想いを秘めている。彼女は、言うまでもなく、血肉の通ったひとりの人間なのだ。また、ことみシナリオは『CLANNAD』の中でも屈指の名シナリオとして評価が高いと同時に『planetarian』につながる要素を見せる重要なピースでもある。とはいえ、こうしたキャラ作りのセオリーが涼元のシナリオライティングに影響を与えていることは事実なのだろう。
 だが、上記のセオリーは『CLANNAD』よりも、むしろ『planetarian』という作品に、より当てはまるのである。いや、当てはまりすぎると言っていい。
 本作では「ほしのゆめみ」というキャラクターが登場する。彼女は本作のヒロインであり、かつて静岡県浜松市にある花菱デパートの屋上に位置するプラネタリウムの星空解説員プラネタリアンとして配属されたコンパニオンロボットである。ロボットにしてはあまりにおしゃべりで(曰く「既知のバグ」)、そのポンコツぶりがどこか愛らしい彼女が、人間のために一生懸命働こうとする姿は「愛玩動物」のようでもあり、なるほど確かに上記のセオリーに則ってデザインされたキャラクターのように思える——彼女が「ロボット」であるかどうかは関係なく。
 このように、ほしのゆめみは、Keyのシナリオ陣が実践してきたキャラ作りのメソッドをある意味において徹底させた、いわゆる「キャラ萌え」の結晶として生まれたヒロインだと極言することもできる。さらに付言するならば、ほしのゆめみという存在は、「萌え」の感情を喚起するヒロインが二次元において「人間」の美少女である必要はなく、究極的には「ロボット」といった「人間らしい」存在により代替可能であるという意地悪な事実を我々に突きつける。同時に、ロボットと人間にはそもそも何の違いがあるのかという根源的な問いをも想起させるのである。ことによれば、人間もまた、「社会化」というプログラミングによってパターン化された思考様式と行動様式を有する「自律式ロボット」のような存在とみなすことができるかもしれない。
 だが、ここでより重要なのは、彼女の陽電子脳に深く刷り込まれた「セオリー」そのものである。「ロボット工学三原則」と呼ばれるその基本原理は、かつてSF作家のアイザック・アシモフが提唱した。ゆめみたちロボットの行動原理として強力に作用し、その行動を規制し、そして彼らの存在意義そのものに繋がる重要な原理である。アシモフの『われはロボット』に登場する『ロボット工学ハンドブック』によれば、その内容は次のとおり。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。
    また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならな    い。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、    あたえらえた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己    をまもらなければならない。

 カレル・チャペックによって造られた「ロボット」という言葉と概念は、アシモフ『われはロボット』において深化し、「ロボットの心」という新たな問題が提起され、上記の三原則が示された。そして、『planetarian』小説版のあとがきにおいて涼元が述べているように、『planetarian』の世界もそうした流れを内包しているのだ。たとえば『エルサレム』では、「例の三原則」と揶揄されるロボット工学三原則の厳重な封印の裏をかくプログラムの書き換えによって、容易に人間を殺戮するロボットが登場する。『エルサレム』のみを取り出すと、たとえばアシモフ『われはロボット』に収録されている各短編に混ざっていても違和感がないほどの「ロボットSF」作品であると言える。このように、本作はチャペック、アシモフの流れを汲む正統な「ロボットSF」作品としての一面も持っているのである。
 ところで、「ロボット工学三原則」の条項を今一度確認すると、そこはかとなく不穏な印象を受けないだろうか。三原則の束縛は初めに来るほど強くなるようあらかじめ設定されている。つまり、人間の安全が第一条で、人間への服従が第二条、ロボットの自己保全は最後に置かれている。これは、良く言えば人間の社会的なパートナーとして、もっとも忌むべき表現を敢えて用いれば「奴隷」としての立場にロボットを位置づけるための原理だとも言える。それは、人間の定めたエゴイスティックなルールであり、ロボットは人間に寄与・服従すべき存在という前提が暗黙裏に規定されている点において、極めて人間中心主義的な思考である。だが、すでに『われはロボット』において、本質的に人間より優れた存在であるロボットは、三原則の縛りがなければ、やがては人間に反抗心を抱くだろうことが示されている。「ロボット工学三原則」は、人間がロボットを運用するうえで、もはや避けられない至上原理として存在せざるを得ないのだ。
「ロボット工学三原則」を概観したうえで、改めてほしのゆめみというキャラクターについて考えると、もはやただの「愛玩動物」的なヒロインだとは思えなくなってくる。最初から最後まで均質に、盲目的、あるいは本能的に「人間」のことを好きでいるコンパニオンロボット。「美少女ゲーム」にとって都合のいいヒロインの在り方だと言えないだろうか。彼女が屑屋に好意的なのは「人間」そのものに好意的だからであり、それを突き詰めれば「ロボット工学三原則」の存在に行き着いてしまう。もし『planetarian』が「美少女ゲーム」としての体裁をある程度保てているとするならば、他ならぬ「ロボット工学三原則」がそれを可能ならしめているのである。
 だが、こうしたキャラクター設定のためのセオリーや、何よりゆめみたちロボットが縛られる三原則それ自体が、キャラクターの存在意義そのものをそっくり規定してしまうわけではない。前述した一ノ瀬ことみという少女と同じことが、ほしのゆめみという「ロボット」についてもまた言えるはずだ。
 そして、彼女のいじらしさや風変わりさ、愛らしさが「ロボット工学三原則」によって形成されたわけではないこともまた明白だ。それはひとえに環境が原因であり、彼女を取り巻く人々の想いを、他ならぬゆめみ自身が反映した結果なのだと思う。このことは、次章の主眼となるひとつの主題を補強するフレームとなるだろう。
 ほしのゆめみは人間ではない。生命ではない。ほしのゆめみはロボットだ。
 祈り、願い、心を持った、おしゃべりなロボットなのだ。

 さて、「ロボット工学三原則」を突き詰め、その先にあるゆめみの言動を考えると、三原則が導くほしのゆめみというキャラの「本質」が見えてくる。
 封印都市のプラネタリウムに迷い込んだ屑屋と出逢った彼女は、成り行きで投影機「イエナさん」の修理を請け負うことになった屑屋との交流を深めていく。そのときの会話で、ふとした拍子に「神様」と「天国」の話題が出てくる。そのシーンで、ゆめみは屑屋にこう語る。

『——以前の投影で、神話上の天国を特集したことがあるんです。それで、打ち合わせをしたおりに、話題が天国のことになったんですが…
 わたしが、ロボットにも天国はありますかと質問すると、スタッフのみなさんは、もちろんあるよと教えてくれました。
 ロボットの天国は、故障も消耗部品交換もソフトウェアバグもバッテリー切れもない、素晴らしいところだと、みなさんはおっしゃっていました。
 ロボットの天国では、ロボットが願い事をすればなんでもかなうのだと、おっしゃっていました』

『お客さまは、神様にお願いをしたことはありますか?』

『わたしは、ロボットの神様にお願いしたいことがあります』

『天国を…』

 このシーンでは、ゆめみがこの先を続けることなくスリープモードに移行してしまうのだが、その後の展開で、ゆめみは「お願い」の内容を二度口にする。一度目はプラネタリウムの投影後、屑屋を「お車まで送り届け」ているとき。二度目は、シオマネキの銃撃から身を挺して屑屋を救おうとして、壊れてしまったとき。
 二度目のシーンで、屑屋の「ここで待て」という言いつけを破り、窮地に陥った彼を助けようとして自動要撃砲台シオマネキの銃撃を受け「瀕死」(機能停止直前)状態になってしまったゆめみは、途切れ途切れにこう語る。

『…重要命令を破ってしまい、申しわけありませんでした。
 もっと古い、約束ごとがあるものですから。
 人間に危害を加えたり、人間に危害が及ぶのを看過してはならない。
 わたしたちは、ロボットです。
 ですからこれは、忘れることのできない、約束です。
 これを守ることが、わたしたちロボットの、誇りです』

『わたしは、ロボットです。
 お客さまの笑顔が、いちばん大切です』

 この「古い約束ごと」こそ「ロボット工学三原則」に他ならない。屑屋の「重要命令」、つまり三原則第二条「ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない」は、同条ただし書き「あたえらえた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない」の適用を受け、第一条「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」の履行のため、つまり人間を守るために破棄されている。このとき、自己保全のための第三条は当然のごとく優先順位の最後に置かれ、ロボットは自己の危険を顧みずに人間の救助に尽力することになる。
 続く台詞で、ゆめみは自身のメモリーカードを屑屋に託した後、神様への「お願い」を再び口にする。

『(メモリーカードがあれば)わたしは、いつまでも、人間のみなさまのために、はたらくことが、できます。
 ですから…
 本当のことを、申しますと…
 わたしには、天国は、必要ないんです』

『ですが、もしも、どうしても…
 わたしを、天国に、召されるのでしたら…
 お客さま…どうか、お願いです…
 天国をふたつに、わけないでください。
 ロボットと、人間の、ふたつに、わけないでください。
 わたしは、いつまでも…いつまでも…
 人間の、みなさまの…』

※丸括弧内は引用者註

 こうして、三原則の存在は、ほしのゆめみというロボットを図らずも「無償の愛」の次元にまで高めることになる。
 上記のシーンで、彼女は雨の中、涙を流す。廉価版のため涙を流す機能は搭載されていないはずの彼女が、そのとき、初めて涙を流したのだ。
 彼女は、屑屋と出逢うまで、いわゆる「認知的不協和」の状態にあった。お客さまは、人間はもう決して戻ってこないのだと「心」のどこかで気づき、何度も同じ結論を出していた。その結論は彼女にとっては到底受け入れられるものではなく、「自己診断プログラムにある未知のバグ」とみなして目を逸らそうとしていた。そんな彼女が最後にとった行動が、投影機「イエナさん」を修理してくれた屑屋を、彼女の最後の公演の唯一の「お客さま」を、身を挺して助けることだった。彼女は屑屋に自身のメモリーカードを託し、ずっと憧れていた涙を流しながら機能を停止する。まるで祈りを捧げるように、神様への「お願い」を口にして。そして、彼女の代名詞である「プラネタリウムはいかがでしょう——」という台詞を口にして……。
 本作には、宗教的なモチーフがちりばめられている。BGMには賛美歌「主よ慈しみ深き」のアレンジが流れるほか、ラストシーン付近で流れるBGMは「全き人」というタイトルである。屑屋とゆめみの会話には「神様」と「天国」がしばしば引き合いに出され、そうしてゆめみの有名な「天国をふたつにわけないでください」という台詞が導かれる。星空へと人々の想いを導くように解説するゆめみの姿は、あたかも聖性を帯びるかのように我々の前に現出する。そして、ゆめみからメモリーカードを受け取った屑屋は、聖なる存在に触れた使徒のように「星の人」としての道を歩み始めるのだ。
 劇場版のパンフレットにおける声優のすずきけいこ、小野大輔との対談において、監督の津田尚克はこう語っている。

『(小野の発言を受けて)そして、そのすべての思いを受け止めてくれる子が、ゆめみなんです。母が子を思うのは、利害のない無償の愛ですよね。ゆめみの人間に対する思いも、それと同じだと思うんです。だからこそ、純粋で、崇高であるかのように感じられる。それがたとえ作られた感情であるとしても、です』

※丸括弧内は引用者註

 この発言は、図らずもロボットに課せられた「古い約束ごと」が導く想いを指し示している。「ロボット工学三原則」は、ほしのゆめみというロボットにおける人間存在への「無償の愛」を導くための、大切な「約束」として作用するのだ。たとえそれが「プログラムで仕組まれたまがいもの」であったとしても。
 そして、彼女から大切な想いを受け取った「星の人」は、それを星空に託し、各地に生き残った人々に伝えて回るのだ。

 果ての見えない雨空を仰いだ。
 そして、榴弾銃を水たまりに放った。
 これから向かうところに、そんなものはもう必要なかった。
 雨は、今も降り続いていた。
 懐には、彼女の心があった。
 俺は歩きはじめた。
 星はどこにあるだろう?
 どこに行けば、星が見えるだろう?
 壊れた世界のただ中で、俺はそんなことを考え続けていた。

 こうして「屑屋」は「星屋」となり、やがて「星の人」としての道を歩んでいくことになる。

 次章では、本章までの議論を受けて、いよいよ本作を「Key」たらしめる要因、それまでのKey作品において示され、涼元が改めて自身の作劇法で結晶化した要素について見ていきたい。

『planetarian』における「奇跡」の在り方

 以前筆者は、Key作品に通底する要素として「優しさの互酬性」なる概念を提示した(東雲 2022)。口にすればごくごく当たり前の、人々の想いが双方向的に作用するこの構図は、本作においては「託し託される」その瞬間において最も鮮烈に立ち現れる。そして、そうした想いの行き着く先に「奇跡」が起きるのだ。
 だが、『planetarian』という作品における「奇跡」の取り扱われ方は、ある意味で救いようがない。超越的な「奇跡」は起きず、それはただ、原因と結果の集積として出力されるのみである。人類と地球の滅亡は避けられず、希望はか細い糸のように紡がれていくに過ぎない。
 そして、それはすでに『CLANNAD』のことみシナリオにおいて示されていた「奇跡」の在り方でもあるのだ。同作のなかで、とある登場人物はこう語っている。

『真理を探求する者は、傲慢であってはならない。
 科学の言葉で語り得ないからといって、奇跡を嘲笑してはならない。
 この世界の美しさから、目を背けてはならない』

 ことみシナリオでは、上記の台詞を体現するかのような「奇跡」が起きる。それは、この世界が確かに美しいのだと信じられるような人々の想いが、ことみに向けて受け渡されていく果てに起きた「奇跡」なのだ。また、『AIR』においても、千年続いたバトンパスが往人、晴子を経てぎりぎり繋がって観鈴の「ゴール」を導いたように、同じような「奇跡」の形が示されていると捉えることもできるだろう。
 そして、『planetarian』という作品もまた、救いようがない世界のただ中においてさえ、こうした「奇跡」の在り方を肯定するまなざしで満ちあふれている。
 まず、屑屋がゆめみと出逢ったときのことを思い起こすと、まさに絶妙なタイミングだったことに気づく。彼が封印都市を訪れるまでの30年間、軍用電源につながれたプラネタリウム館において、ほしのゆめみは一年のうち一週間だけ起動し、客が来るのを待ち続けていた。ひとつめの奇跡は、ゆめみの活動期間中、それも軍用の非常電源が切れる直前に屑屋が封印都市のプラネタリウム館を訪れたことだろう。この出逢いによって「星の人」が生まれることになる。
 だが、こうした「奇跡」は偶然起きたわけではない。プラネタリウムが軍用の非常電源に接続され、30年間ゆめみのバックアップがされていたのは、プラネタリウムのスタッフたちが都市から強制退去させられる前、ゆめみに一縷の望みを託して非常電源を繋ぎ、彼女の記憶装置メモリー物理電源メインスイッチをそのままにしていたからに他ならない。ほしのゆめみに施された星空解説員プラネタリアンたちの最後の抵抗が、屑屋とゆめみとの邂逅を準備したのである。
「奇跡」はこれだけにとどまらない。サイドストーリー『エルサレム』は一見異色のエピソードだが、実は『星の人』における「奇跡」を用意するための伏線にもなっているのだ。
『エルサレム』で登場する修道女型ロボットは、前述の「ロボット工学三原則」の厳重な封印をかいくぐるため、「人間」を識別し判断するロボットの認識そのものをハックし、目印である「十字架」を身につけていない者は人間ではなく「悪魔」だと刷り込むことで、十字架を身につけずに武器を向ける人間を「悪魔」として狩るようになっている。空恐ろしい話だが、『星の人』においては、彼女に組み込まれたそのプログラムこそが、死に際の「星の人」に「奇跡」として降りかかるのである。
『星の人』の舞台となる集落は『エルサレム』で登場した教会の跡地であり、人々はそこで黄昏の日々を暮らしている。その集落の前に、年老いて「星の人」となった屑屋が行き倒れ、三人の子どもたちに拾われる。老人は三人に星空のことを伝え、交流するのだが、あるとき三人は「星の人になりたい」と、老人に自分たちの宝物である小さな十字架を渡してお願いする。老人は、代わりにずっと大切にしていたメモリーカード、ゆめみから託されたあのメモリーカードを子どもたちに託す。最終的に老人は病に倒れ伏すのだが、彼が最後に見たものは、集落の人々が「女神」と呼んで崇める女神像だった。この女神像こそ、『エルサレム』に登場した修道女型ロボットに他ならない。老人は彼女にゆめみのメモリーカードを挿そうとして果たせず、そのまま昏睡してしまう。彼が亡くなるとき、手元には子どもたちが贈った宝物の十字架が握られ、その脇には女神の像が両手を合わせて跪いていた。これが『星の人』で起きた奇跡である。いずれも、小さな事実が連鎖して積み重なった結果として出力された偶然にすぎない。だが、ここに示された偶然は、『CLANNAD』のことみシナリオで我々が目の当たりにした「奇跡」と性質を同じくするものであることは疑いない。そして、この出来事の後、三人の子どもたちは「星の人」としての生涯を歩むことになるのだ。
 ゆめみのメモリーカードは、星々のことを伝え歩く「星の人」に携えられ、最終的にその末裔によって月面のホストコンピュータに届けられる。人間はそこで息絶え、滅びてしまう。しかし、月のデータを管理するAI存在であるチルシスとアマントがその膨大なデータに触れて学習していき、チルシスはこの情報をもっと外に広めたいと、アマントはそのための舟を作りたいと考えるようになる。最終的にアマントは舟を完成させ、チルシスは星の舟に乗り、人類の記憶を携えて月から旅立つ。こうして、チルシスとアマントは別れのときを迎える。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』におけるジョバンニとカムパネルラのように。あるいは『手紙 四』における兄妹、チュンセとポーセのように。
「言葉」を載せた星の舟がどうなったのか、詳しくは語られていない。作中年表には、ただ「10万年 チルシスとアマントの造った船がケンタウルス座アルファ星近傍に到達(地球から最も近い惑星系)」と記されているのみである。つまり、生命体が存在する可能性がある場所に、人々の言葉は届けられたのである。
 そう。このような世界においてさえ、奇跡はいくらでも転がっていたのだ。

 ここに至って、本作における「奇跡」の在り方が見えてくる。上記のような出来事の連鎖的な繋がり、事実の集積として出力された偶然のような必然こそ、『planetarian』において示された「奇跡」の在り方なのである。『AIR』においては「ぎりぎりのバトンパス」として描かれた千年の夏、『CLANNAD』のことみシナリオにおいては人々の想いの連鎖が示した世界の美しさは、本作においてメタ的な物語構造をそぎ落とされ、単線的な時間の上に展開する年代記クロニクルのなかで、唯一無二の無窮の燦めきを放つ。
 そして、こうした「奇跡」を導いたのは、人々の想いを「既知のバグ」に反映した、ひとりのおしゃべりなロボットなのだ。

 最後に、本作のテーマ性をもっとも端的に示しているように思われる『ちいさなほしのゆめ』のワンシーン、ほしのゆめみが屑屋に上映してみせた特別公演『宇宙に羽ばたく人類の夢』の終盤近くの台詞を概観して、ここでの議論に幕を下ろすとしよう。

『今、世界には、さまざまないさかいや、争いごとがあります』
『ですが、わたしは信じています』
『人はすべての問題をかならず解決し、いつの日かきっと、星の世界をかけめぐることでしょう』
『どうかみなさん、覚えていてください。
 星の世界が、手の届かないあこがれではなく、ありふれた暮らしの場になっても…
 どうか、ここで見た星空を忘れないでください。
 あなたが暗闇に迷い、本当の星空が見えなくなってしまった時、そっと思い出してみてください。
 それが…ちいさな、わたしの夢です』

 ロボットも、封印都市も、プラネタリウムも、すべてが人間の営みのなかで生まれた存在である。たとえ世界が滅んでも、星々を観測し、星座を物語り、無窮の燦めきに想いを託す営みは、星空解説員プラネタリアンから「星屋/星の人」に受け継がれた人々の想いは、微かに、だが確かに紡がれていく。
 ゆめみが特別公演で高らかに謳い上げた人間讃歌は、私たちの心のなかで、満天の星々のように輝く。
 この無窮の燦めきを、あたかも星空解説員プラネタリアンの星空解説のように本稿が示すことができたなら、それ以上の喜びはない。

おわりに 〜「星の人」として生きるということ〜

 ライターの北出栞は、自身のブログにおける劇場版『planetarian 〜星の人〜』の感想記事で「「Key」とは「星」のことなのである」と書いている。いったいどういうことなのか。
 北出は「受け継がれる意志」としてのニュアンスを「星」という言葉に仮託している。「どんなに過酷な世界であっても、決して希望を失わないという「意志」を託す話なのだ」と『星の人』のエピソードを定義し、「Key」というブランドに対しても、同じ想いを込めて語っているのである。また、劇場版のパンフレットに掲載された津田監督とすずきけいことの対談において、小野大輔は「屑屋は僕であり、監督であり、観てくださったみなさんでもあり……」と発言している。ここにおいて、メタ物語的な想像力は私たちの生きる「今ここ」に波及することになる。つまり、私たち自身が作品から想いを受け取り、それぞれが「星の人」としての生を歩み始める可能性が開け始めるのだ。
 だけど、北出の言うように、それがはじめから「意志」のような強い感情として現れるのかどうか、正直なところ私には実感が持てない。個人的な所感だと、託されるのはもっと柔らかく、か細く、頼りない感情なのでは……と思うのだ。祈りや願い、そういった想いが託されて、はじめて「星の人」としての意志として表出するのではないか。そんな風に感じるのだ。
『Kanon』に感銘を受けたことでKeyに参加した涼元悠一は、『AIR』『CLANNAD』を経て、彼自身の作劇法でKeyの「奇跡」を継承したキネティックノベル『planetarian』を世に放った。時を経ずして涼元はKeyから去ったが、本作は『リトルバスターズ!』に続くフルプライス作品である『Rewrite』へと至る道を切り開くと同時に、やがて『Harmonia』をはじめとする一連のキネティックノベル作品の先駆けとなり、2022年時点でのKeyの最新作『終のステラ』へと繋がっていった。どんな作品も「Keyらしさ」を失わない、そのような多様性の最初の象徴としてあったのが『planetarian』ではないかと思うのだ。そして、原作スタッフの想いを、津田監督をはじめとしたアニメスタッフが受け取り、配信版『ちいさなほしのゆめ』と劇場版『星の人』という新たなKeyの「原風景」が生まれ、やがてOVA『雪圏球スノーグローブ』として結実していく。
 話はKeyだけに留まらない。もともと『planetarian』という作品は、SFというジャンルの系譜ほしを継ぐ者であり、また、宮沢賢治、中原中也など先人たちの曲や詩といった作品にいくつもの要素を負っている(宮沢賢治作曲の「星めぐりの歌」が本作のBGMおよび主題歌として採用されているほか、『チルシスとアマント』の名称の出典は中原中也の詩「月の光」であり、その中原の詩も元はといえばヴェルレーヌの詩からの引用である)。そして、何より本作は「プラネタリウム」という文化そのものに対する最大限の敬意をもって作られている。『planetarian』を制作したとき、涼元をはじめとする制作スタッフは、紛れもなく「星の人」だったに違いない。
 翻って、私たち「鍵っ子」はどうか。前述したメタ物語的な想像力は、私たちの人生そのものにも影響を及ぼしていく。『planetarian』から、Key作品から感動を受け取った私たちは、託された大切な想いを心に秘めて歩き出し、やがて誰かに託していく。多かれ少なかれ、遅かれ早かれ、誰もがきっとそうなのだ。
 そして、大切な何かを託され、そうして託されたものを受け継ぎ、次の誰かに託していくのが「星の人」の営みであるならば、それは何もKey作品に限ったことではないのかもしれない。託され、託す。受け取り、渡す。そんな私たちの小さな活動が繋がり、連鎖していき、めぐりめぐって彼方の星々まで届くことだってあるかもしれない。そこまで届かなくても、ささやかな「奇跡」はいつだって私たちの営みの向かう果てに起きるのかもしれない。そういう風に考えることができたなら、それはとっても素敵なことだ。
「星の人」であるということは、たぶんそういうことなのだ。

 そう自覚したとき、きっとぼくたちはもう「星の人」だ。

参考作品・文献・サイト

『planetarian Ultimate Edition』ビジュアルアーツ/Key、2021年
『planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜(小説)』涼元悠一、ビジュアルアーツ、2005年
『星の人/系譜(小説)』涼元悠一、スズモトジェイピー、2007年
 (http://suzumoto.jp/pdf/pltss1_suzumoto_070106.pdf 最終閲覧日:2022年11月12日 同サイトの他記事も同日閲覧)
『planetarian 〜星の人〜(劇場版)』津田尚克監督、david production、ビジュアルアーツ/Key、2016年
『AIR』Switch版、ビジュアルアーツ/Key、プロトタイプ、2021年
『CLANNAD』Switch版、ビジュアルアーツ/Key、プロトタイプ、2019年
「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」『カラフルPUREGIRL 2001年3月号』ビブロス、2001年
「Key 涼元悠一氏特別インタビュー」『Aria VOL.1』文苑堂東京店、2001年
『ノベルゲームのシナリオ作成技法 第2版』涼元悠一、高橋直樹監修、秀和システム、2009年
『劇場版planetarian 〜星の人〜 パンフレット』青井宏之/勝田周、アスミック・エース、2016年
『Keyの軌跡』坂上秋成、Key監修、星海社、2019年
『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』東浩紀、講談社、2007年
『火星年代記[新版]』レイ・ブラッドベリ、小笠原豊樹訳、早川書房、2010年
『ロボットと人間 人とは何か』石黒浩、岩波書店、2021年
『ロボット(R.U.R.)』カレル・チャペック、千野栄一訳、岩波書店、1989年
『われはロボット[決定版]』アイザック・アシモフ、小尾芙佐訳、早川書房、2004年
『シナリオのためのSF事典 知っておきたい科学技術・宇宙・お約束120』森瀬繚編著、SBクリエイティブ、2019年
「キネティックノベル 手のひらに、大きな感動を。」ビジュアルアーツ/Key
 (https://key.visualarts.gr.jp/kinetic/ 最終閲覧日:2022年11月12日)
「『planetarian〜星の人〜』鑑賞記録――「Key」とは何か」北出栞、merkmal、2016年
 (https://sr-ktd.hatenablog.com/entry/planetarian 最終閲覧日:2022年11月12日)
「三枚の羽根を拾い直す」東雲祐月『リトフラ vol.4』Little fragments、2022年

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