「映身生」のつくりかた あとがき
この文章は、今月20日~23日にかけて北千住BUoYで開催されている「映身展2020」に出展させていただいた
「映身生」のつくりかた
という作品のあとがきとして執筆したものです。作品をご覧になっていない&「映身」をご存じない方は読んでも何の話かさっぱりかもしれません。ごめんなさい…!
はじめに
作品をご覧いただき、ありがとうございました。
本当はこの文章を本の最後に挟み込もうと考えていたのですが、それぞれ完成したものを見てみると、この文とを抱き合わせることで作品の解釈がかなり限定されてしまう、もっと言えば作品の邪魔にも成りかねないと感じました。そのため一度完成された作品そのものと、作者である私の意図を別物としてお見せするためにこのようなまどろっこしい手段を取らせていただきました。
「映身生をレシピ本にする」と思いついた日
実はこの作品のアイデアは、まさに一年前、新宿眼科画廊で開催されていた「映身展2019」を訪れたその帰り道に生まれたものでした。
毎年2月ごろに行われる映身展に出展するには新年度が始まって割とすぐにざっくりとした企画案を提出する必要があり、まだ映像身体学科に入りたてでひよっこ(実は今もほぼ同じ)だった私は「今の私にはなんのスキルも表現出来るものもない…」と出展を諦めました。
しかし実際に会場に足を運べば、そこには技術や経験に縛られない形で生み出された素晴らしい作品がたくさんありました。私はろくに深く考えもせず新しい世界に怖気づいて出展を踏みとどまったことを、本当に本当に後悔しました。
と同時に、
つくづく映身生そのものが実に多様で、
つくるものもとことんバラバラであるということ、
なんなら同じ学科に属しているという共通点がなければあの作品たちが同じ会場に展示されてるのも奇跡みたいなもんだよなぁと思っていました。
「映身生」という言葉さえなければ、
私たちはばらばら…
あれ…?でも私たち、普段から随分と「映身生」という言葉に、画一化されたイメージに、自分たちをわざわざ括りつけているような…?
このなんでもない気付きのようなモノは新宿の路地で生まれたが最後、バイバインをかけられた栗まんじゅうみたいに増殖と拡張を繰り返し、家に着くころには
「映身生」のつくりかた
というタイトルで私の頭の中をいっぱいに埋め尽くしていたのでした。
「映身生らしさ」アンチとして
「映身生」という言葉は、私の通うキャンパスではよく「個性的」「風変わり」「クリエイター」という響きをもって使われます。
他学科の人に自己紹介をすれば「確かに映身生っぽいね!」と言われ、そんなエピソードを同じ学科の仲間内で自虐気味に語る、そんな会話は確かに日常の一部です。
ですがその「映身生」という言葉の軽薄さを、私はふとした時から徐々に強く感じるようになっていきました。
周りを見渡せば、
制作を行わない=「映身生らしくない」
と自信を無くし、
もっと何かを作ったり、難しいことを考えたりして「らしく」いなければ
と意識し始める人も…というより、誰よりも自分がそう感じていることに気付きました。
改めて文章に書いているとつくづく思います。こんな馬鹿馬鹿しいことはありません。
制作に協力してくれた普段私が敬愛する友人や、その友人の紹介で出会った映像身体学科(専攻)の学生さんたちは、一人残らず眩さに溢れた素晴らしい人ばかりでした。
でもどれだけ私がその人を強く慕ってインタビュー、撮影、執筆、編集に何十時間かけても、その人の全てをこの本に描き切ることは誰一人出来ませんでした。
そしてそれは当然のことなんです。20年必死で生きてきた人の人生がB5一枚でまとめられてしまう筈がないし、そこからはみ出す可能性は「映身生」なんて鍵括弧つきの三文字で括れるようなものではないんです。
むしろその「描き切れなさ」にこそ、所属に縛られない、その人の誰にも侵せない核のようなものが詰まっているんじゃないかと感じています。
結局、私たちがすべきことは「映身生」なんて言葉で自分たちの専門を限られた領域に括りつけることではなく、もっと肩の力を抜いて、胸を張って、自分の可能性の有無なんかを心配する前に学びたいことを学び続けることなのかもしれません。どシンプルだけど大切なこと。ウイルスから身を守りたければ手を洗う。疲れを取りたければよく眠る。もっと知りたければ本を読み作品に触れて学ぶ。
やりたいことをやったその結果、「映身生」らしさから外れてしまっても、何の問題もないと思います。「○○生」なんて言葉は外部の人間が特定の所属の学生をまとめて呼びやすくするために生んだ言葉であって、その中にいる我々がその呪いを自分たちに課す必要はどこにもないんじゃないでしょうか。
やりたいことを突き詰め、真摯に学ぶすべての人は素晴らしい。
作品そのものがこのメッセージを発せている確信は持てていません。ただこの作品を制作する過程で、私は個人的にこう感じるようになりました。
縛りと偏見に満ちた「『映身生』のつくりかた」というタイトル、会場から浮くほど幼いおままごとのような作品の在り方。これらの持つ不完全さが、作品を前にした誰かをそっと肯定できることに小さな望みをかけて。
2020.02.18
鹿の子