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35年前,8月12日

▼1985年8月12日。蒸し暑い夜でした。その日,警察官だった私の父は非番で家にいて,上の階の書斎でパソコンに向かっていました(当時はまだWindowsすらない時代でしたが,父はそのころからパソコンを始めていました)。私は下の階の居間でテレビを見ていました(どの番組かは覚えていませんが)。その時,ニュース速報で「日本航空123便が消息を絶った」という第一報が入りました。以下の動画は日本テレビの速報です。

▼何か事件が起きた場合,非番でも警察官は呼び出されると知っていたので,私は上の階に駆け上がり,父の書斎に向かって叫びました。「お父さん!日本航空の飛行機が消息不明だって!」と。墜落地点は群馬県の御巣鷹山の尾根でしたから,結果的に警視庁に勤務していた父には関係がありませんでしたが,日本航空123便の墜落事故というと,いつもその時のことを思い出します。

▼その時,群馬県警で遺体の検死作業の班長となって陣頭指揮をとった飯塚訓さんという警察官の方が書かれた手記があります。多くの方に読んでいただきたい保温ですが,特に医学部や看護学部など,医療系を志す受験生の皆さんにはぜひ読んでいただきたい本です。

飯塚訓『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』

▼墜落した場所の特定に時間がかかりすぎたため,遺体捜索作業が始まったのは,翌朝,墜落してからかなり時間が経ってからでした。この事故では乗員乗客524名中,520名の方が亡くなり,奇跡的に4名の方が生存していました。もし,もう少し早く墜落箇所が特定できていたら,生存者はもっと多かったのではないかと思うと悔やまれてなりません。

▼『墜落遺体』によると,最初は完全体の遺体が発見されたものの,次第に部分的な遺体しか発見されなくなり,中には泥の塊のように見えたものを水で丁寧に洗って広げたら人間の顔の皮だった,というものもあったと書かれています。

▼検死作業に携わった医師,看護師たちは,これほど壮絶な現場に遭遇したことはそれまでなく,戸惑いながら,それでも一人でも多くの遺体を遺族のもとに返せるようにと,空調のない体育館の中で奮闘しました。もちろん,飯塚さんをはじめ,検死作業に立ち会った警察官もそうです。心と体を病み,倒れる人もいる中で,たとえ髪の毛一本,歯や爪のひとかけらでも,身元を判別して遺族に返したい,という一心で検死作業に携わりました。

▼この本で興味深かったのは,日本人の遺族はたとえわずかでも遺体を持ち帰りたい,と主張し,逆に,欧米人は遺体を持ち帰ることにこだわりがなかったため,日本航空側も欧米人の遺族に対してはすぐに補償の交渉に入ったという記述があったことです。もちろん,個人差もあるかと思いますが,文化や宗教,死生観の違いが反映されていたのでしょう。

▼123便の墜落原因に関しては,今はもう特定されており,1978年6月2日にこの機体が伊丹空港で起こした「しりもち事故」で圧力隔壁が損傷し,ボーイング社がその修理を適切に行わなかったことが原因とされています。その後7年間飛び続けた機体は,その不適切な修理箇所に徐々に亀裂が入り,1985年8月12日の123便のフライトで圧力隔壁が断裂し,垂直尾翼と補助動力装置が破壊され,操縦不可能になったことで墜落しました。

▼しかし,こうした原因が明確になる前は,パイロットの操縦ミスではないか,といった噂も飛び交い,機長の遺族は激しい誹謗中傷にさらされました。その後,ボイスレコーダーが公表され,操縦していた人たちが最後の瞬間まで望みを捨てることなく,冷静に対処していたことがわかりました。

▼このような痛ましい事故が二度と起きないように,と心から願っています。

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