守り抜かれてきた自治体制
吉田寮は、全国でも数少ない自治寮として運営されている。
京都大学では学生寮の運営は早くから学生の自治に委ねられ、入寮選考も基本的には寮生が行ってきた。
1971年には吉田寮・熊野寮自治会と当時の学生部長との間で「入退寮権は一切寮委員会が保持・行使するべきだと考える」と約束される。
1978年までは、大学との間で問題が生じた場合には、公開の場で話し合って解決を図るという「団体交渉」のやり方で運営されてきた。
1970年代、全国的な学生運動により、当時の文部省は学生寮を紛争の拠点と見なし、国立大学の寄宿舎・学生寮を廃止する動きが全国的に高まった。
しかし、京都大学では学生寮(自治寮)や一部の学部自治会、西部講堂などを拠点として運動が一定の勢力を保ち続ける。
京大当局は70年代後半になって、これらの運動基盤の解体に着手し、1977年、吉田寮など学生寮の閉鎖に向け「学生寮の正常化」政策を進めた。
そして1982(昭和57)年12月、一方的に「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31日とする」との決定がなされる。84年には、それまで不要だった水光熱費の支払いを応じさせ、86年には入寮募集停止を決定。
これに対し、在寮生で構成する吉田寮自治会を中心に卒寮生も含めた廃寮反対運動が高まり、自主入寮選考の成功で寮生数は減少するどころか増加。「在寮期限」到来時には多数の寮生が居住し始める。
吉田寮は1986年以降も自主入寮選考を貫き、大学側との交渉を続けてきた。その結果、西島安則総長時代の1989年(平成元年)春、京大当局(河合隼雄学生部長)と吉田寮自治会の間で合意が成立。吉田西寮の取り壊しと寮生名簿や寄宿料の提出などと引き換えに、事実上「在寮期限」は撤廃。吉田東寮(現在の吉田寮)が存続することとなる。
その後も「老朽化」を理由に廃寮を迫られているが、粘り強い交渉で自治寮を保持している。
かつて、吉田寮には10人以上の事務職員や炊夫、守衛など大勢の職員がいたらしい。
だが廃寮化運動後、食堂の従業員・守衛・職員が大幅に削られ、女性の事務職員が一人いるだけの体制が20年以上続いた。
私たちが引っ越した頃は携帯電話が普及し始めて間もない頃だったので、事務職員は速達や電話など実質の事務作業で忙しそうであったが、私たちが退寮する頃には独立法人化の影響により、いよいよ彼女もいなくなった。
入寮選考は吉田寮自治会によって春期と秋期の年2回行われ、1985年から女子学生の受け入れを開始。 1990年度からは留学生、1991年度からは大学院生・聴講生・研究生・医療技術短期大学生(現在の医学部保健学科)を含めたすべての京大生を入寮募集の対象とするようになった。
そして1994年度、「京都大学学生との同居の切実な必要性」が認められる者も入寮募集の対象となるのだった。