吉田寮には苦学生が多かった。
当時の京都大学は、合格者の親の平均年収が1,200万を超えていた。多くの学生は塾や進学校に通い家庭教師を付けて合格するのだから、経済的なハンデは大きい。合格してからも周辺に安い下宿屋はなく、貧乏学生にとっては苦しい生活が待っている。
勉学の機会は等しく与えられるべきだと考える吉田寮は、厚生施設としての存続を訴えてきた。
医学部のT君は高価な専門書を買えず友人のものをコピーしてパンの耳ばかりを食べていたし、新聞配達や夜勤、掛け持ちのバイトで学費や生活費を稼ぐ寮生も少なくなかった。
働きながら自治会の役も務めるN君などには感心した。
私は飲み会で残りものが出ると、できるだけ持ち帰るようにしていた。
受付で「食べ物あるよ」と放送を流すと、お腹をすかせた寮生たちが走ってくる。彼らが群がると数分も経たないうちに空になり、受付から遠い部屋の寮生にはいつも行き渡らず心苦しかった。