強者が常に勝つ競技シーンの是非
ここ2ヶ月、今までずっと本腰を入れて取り組んできたShadowverseから離れ、TFTに取り組んでみた。
TFTは一卓8人、上位4人がポイントを得てランクを競うオートチェス系のゲームである。(興味を持たれた方はTobyさんの記事https://www.4gamer.net/games/674/G067477/20240625004/を見てみて欲しい。)これがとても面白い。苦しい引きの試合をいかに⚪︎位にねじ込むかという試行錯誤から、引きのいい試合でいかに1位を取るかまで、運の良し悪しを問わず自分のベストの尽くし方が結果に反映されるゲーム体験はとても新鮮だった。
だが何より、一番魅力的だった点は他にあった。それは競技シーンに対する実力の反映され方である。
TFTの競技シーンは敷居の高さがShadowverseとは大きく異なる。Shadowverseにおける最大の競技シーンであるRAGEは全員に参加資格が与えられるが、TFTの場合はランクマッチの最上位勢のみが参加資格を得る。その代わり、試合形式はShadowverseのような1発勝負ではなく、数試合の平均順位の高さを競う形式になっているため、実力が反映されやすいように見受けられた。
これがなぜ魅力的に思えたのか、これには三つの要因がある。
1つ目は、スター選手の可視化という点だ。
TFT始めたての自分でさえも、毎大会で日本一の戦績を残すtitleさんというプレイヤーが、スター選手であることが一目見てわかった。そして他の超強豪プレイヤーが、彼の大会中のプレーの凄さを解説してくれるので、にわかエンジョイプレイヤーの自分も彼の凄さをわかったつもりになり、彼のことを詳しく知らなかった自分も1ファンとして応援できた。こうして彼に憧れ配信を見るうちに、僕はTFTに深くのめり込んだ。
TFTでは、競技シーンの特殊性によりオオタニサンが生まれるべくして生まれたのである。そして、オオタニサンの存在はゲームのコアユーザーを増やすきっかけになることは揺らぐことのない事実だろう。
二つ目は、個の文化の形成の誘引という観点だ。
最上位勢が実力の反映されやすい場で競い合うことを求められる環境は、最上位勢で鎬を削る必然性ゆえのライバル意識を形成しやがて個の文化に発展しているように思う。事実、TFTの最上位勢の多くの方は配信をしている。shadowverseのチーム文化や情報封鎖の文化からは考えられない光景であった。
無論、ゲームの勝利に求められる、情報の価値の占める割合が異なる点が大きく影響していることは間違いない。しかし、最上位プレイヤー同士が横で密に繋がる意義はShadowverseと比べると大きく失われており、横のつながりが過剰に強まらないことは間違いなく情報の開放性に良い影響をもたらしていると思われる。そして、情報の開放性は一般プレイヤーにとってゲームの楽しみやすさの向上につながっている。簡単に最上位勢のプレイに触れられることは手軽に自分の向上を感じられとても心地の良い体験を得られるからだ。
三つ目は強さへのロマンだ。現在のShadowverseは最上位プレイヤーのレベルに到達することに大きな意義があるものの、そこから強さを積み重ねる意義が見つけづらくなってしまっている。競技シーンがRAGEしかないからだ。しかし。TFTは最上位勢になってからがむしろ本番で、国内で一番強くなることに大きな意義がもたらされている。自分自身Shadowverseで目標を失いつつある状況だっただけに、目標を絶対に失わずに取り組めることが確約されているゲームというのは魅力的だしロマンが詰まっていると思った。
ここで、シャドウバースについても考えたい。
シャドウバースにおいてオオタニサンは生まれやすい状態なのだろうか?僕は否であると考えている。
仮にShadowverseに頭抜けた能力を持つオオタニサンがいたとしよう。
彼がRAGEに参加したとして、勝ちか負けかしかないBO3を7回戦中1回しか負けられず、その後のプレーオフに至っては負けが許されないという現行のルールでは、毎大会優勝することは愚か、毎大会ファイナリストになることすら難しいだろう。つまり、オオタニサンがオオタニサンである事が可視化されていないのである。
いくら大谷翔平本人であっても、数打席の成績のみでしか自分をアピールする事が許されなかったならば、きっと彼の凄さは認知してもらえない。他人の凄さを結果以外から汲み取るには、基本的にその人にある程度肉薄する実力が必要とされるので、結果を伴わない凄さを認知することは難しい。
こんな状況では当然にオオタニサンは生まれない。もちろん、プロツアーという別の催しがあり、そこで強者同士の対決を見ることはできるが、プロの選抜方法が不透明かつ、空席がなく入れ替え制度もない故に強くてもプロになる事が難しい現状だと、オオタニサンを発掘する場所としては理想からは程遠いだろう。プロの強さに折り紙がついていないのにも関わらず、最大にして唯一の競技シーンであるRAGEが実力を発揮する場所としての難しさを孕んでいることは、彼らにとっても歯がゆい現状なのではないだろうか。
(折り紙がついていないという挑戦的な書き方をしてしまったがプロ選手の方々の力量を否定するつもりは毛頭ない。
ただ、客観的にプロ選手のレベルをはかるにはその他アマチュア選手との比較は当然必要で、現在アマチュア選手とプロ選手の強さを正しく比較する物差しは存在しない。物差しが存在しないのをいいことに、プロ選手のプレーに対して心無いコメントをぶつけられているシーンも多々見受けられた。
そして、ただでさえ力量が側から見てわかりづらいカードゲームという分野において、プロ選手の強さをはかる物差しがないことは致命的であると思うのであえてこういう書き方をした。プロの方々、不快に思われたら本当に申し訳ない。)
ゲームの最上位プレイヤーにオオタニサンがいるかいないか、これはゲームの求心力に大きく影響すると思う。多くのスポーツはスター選手の人気によって興行として成立しており、Shadowverseも長寿興行を目指すならばスター選手は必須であろう。
先日、Shadowverseの衰退の原因の一つは、強者が常に勝つRatingsが競技シーンとして重く評価されるようになったことだという記事を見かけた。その記事では誰でも勝てるチャンスがある事が美化されていたが、僕は強者が可視化される競技シーンも必要だと思う。オオタニサンが生まれることはそのゲームの発展に大きく貢献し、オオタニサンは強者を可視化する競技シーンからこそ生まれるからである。
もちろん、その競技シーンは誰もが認める価値ある競技シーンである必要はあると思う。公式の大会がその競技シーンに相当するのがあるべき姿だろう。Ratingsのよくなかった点を強いてあげるとすればShadowverseの終了までその権威を保てなかったことでしかないと思っており、実力が如実に反映される競技シーンのないゲームがソシャゲの域を出ることは難しい。
強者の可視化と誰でも勝てるロマンというのは決して両立できないものなどではなく、単に競技シーンとして各々設ければ良いだけである。例えば、1ヶ月目に全員参加可能な大型大会を開催し、3ヶ月目に1,2ヶ月目のランクマッチの高勝率プレイヤーのみ参加可能な少人数制の大会を開催するというのはどうだろうか。そのために全員参加大会の賞金が半分程度になったとしても、ゲームが長く続いてくれるのだとすれば僕は大歓迎である。(後者の形式は当然一発勝負ではなく、グループごとに総当たりで上位半分が抜ける形式を数回行う等の工夫が求められるだろう)こうすれば、我々一般プレイヤーのお手軽に大会で刺激を得られる魅力とオオタニサンの可視化が両立できるのではないだろうか。
今月になり再びShadowverseに本腰を入れて取り組んでみて、改めてこのゲームはとても面白いなと思った。それだけに、Shadowverse world beyondがより良いゲームになって末長く続いて欲しいと思い、ふと考えたことを文字に起こしてみた。個人的には、建設的要素に欠けるゲームの否定は衰退を加速させるだけでなんらメリットがないと思うので、あまり見ていて気持ちの良いものではない。Twitterで建設的な意見が飛び交い、それが運営の目に入り採用される事がある、なんて事があれば良いなと思う。