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青山ゆみこさんの文章を読んで思うこと、ぜんそく、発熱について

ライターの青山ゆみこさんがコロナに感染した時の体験談をまとめた記事です。記事は今年3月に書かれたもので、感染されたのは2022年8月です。

要約すると、
もともと喘息があり、気管支炎から二度肺炎を起こした過去がある。
コロナに感染後、喘息がひどくなり薬をもらおうとするが…
かかりつけの呼吸器内科は陽性者非対応で診察してもらえず。
検査を受けた病院に相談するも処方してもらえず。
コロナ対応している病院に診察申請するも待機者が多く受理されず。
結局ネットで見つけたオンライン診療を受診し、治療薬をもらう。

持病の薬をもらうのに非常に苦労したというお話なのですが、こうした文章を読むと「あなたの体は誰のものですか?」という気持ちになります。

自分で自分に「大丈夫」だと言える強さ

もちろん持病のぜんそくが悪化したのにすぐ薬がもらえないシステムはどうかと思いますが(私が青山さんだったら2022年8月になっても陽性者を診ないかかりつけの呼吸器内科にブチ切れてます)、それにしたって自分の体を病院に管理してもらおうと思い過ぎという印象を受けます。

基礎疾患があるから感染が怖いというクライアントに対して、私は「大丈夫です」と言い続けてきました。もちろん根拠なく言っているわけではなく、その人の体の状態を見た上での判断なのですが、「自分が重症化するかどうか判断する術を持たない」というのが、世間の大多数の人の不安であったと思います。

コロナ「は」、人によって症状が違う。
コロナ「は」、喉の痛みと咳がヤバい。
コロナ「は」、肺炎を起こしやすい。
コロナ「は」、基礎疾患を悪化させる。

青山さんも使っているこの「コロナは〜」という表現ですが、どれもコロナに限った話ではなく、コロナ「も」風邪同様人によって症状はさまざまです。

咳がしつこく残る風邪というのは風邪を引く前、もしくは発熱して寝込んでいる最中に目を使い過ぎることで起こります。目を酷使すると胸が硬くなり、硬直した胸を弛めるために咳が出ます。もともとぜんそくがあるという場合もなにかしらの理由で硬くなっている胸を弛めるために咳が出る。

青山さんのようにライターという仕事なら目は酷使するし、キーボードを叩く姿勢も胸を縮めます。子どものぜんそくは親が厳しかったり、過干渉だったりして心理的な緊張が続くことと深い関わりがありますが、そうした「心身を萎縮させることが多かった子ども時代」を経験した人が、大人になってもぜんそく気味になることがあります。

「私には基礎疾患がある、だから感染弱者だ守ってくれ。」という気持ちに居着かずに、「基礎疾患のある自分を乗り越えるんだ」という覚悟のある人のために整体はあります。ぜんそくが起こる原因を知り、原因を改善するためのセルフケアに励む。そうした行動の中からしか「自分で自分を大丈夫と思える強さ」は湧いてきません。

どんな人間関係にも言えることだが、継続して関わる、日頃のお付き合いって大事だ。

わたし自身のことだが、オンライン診療でお世話になった呼吸器内科でも、経過観察(慢性気管支炎を含めて)の診察を受けた。
なにかあったときは、というより、なにかある前に、頼れるように。
感染症に限らず、さまざまな状況が急変する昨今。地味だけれどそんな確かな関わりは、なにかあるといろんな意味で過剰に反応しがちなわたしの胸のあたりを、お守りのように落ち着かせてくれている。

「受診控え」のせめぎあい(後編)

誰よりも自分の体と継続して関わるのは自分自身。
なにかあったとき、なにかある前に頼れるのも病院以前に自分自身。
お守りは人からはもらえません。自分自身の中にあります。

乗り越えていくのはお前だけ
お前を乗り越えられるのはお前だけ

THE BEST IS YET TO COME / THE BLUE HERB

発熱することを恐れない

私はこの3年半で2回高熱を出しました。
熱が上がると同時に酷い節々の痛みが起こりますが、「普段自分ではなかなか調整できない場所」が痛みます。悪寒の振動とセットでそうした部位の緊張を取る動きが出てきて、割れるような頭痛と悪寒が一通り終わると今度は汗がドッと出て一気に体が弛んでいきます。

途中で解熱剤を使うといった余計なことさえしなければ、必ずこうした過程で体が変わっていくというのがドラマチックで、生命の完璧さを感じる貴重な体験だと私は思うのですが、世間の人はそうではありません。

重症化したらどうしようという気持ちが心身を萎縮させ、布団の中でスマホで情報収拾して頭を疲れさせ、家族にうつさないようトイレに行くたび消毒する、なんてことをやっていたら弛まるどころか緊張が残ったままになります。そんな療養の仕方をしていたら、コロナ以外の風邪でも後遺症が残るでしょう。

コロナ感染後の「受診」という道は、開けては閉ざされることを繰り返す。
次々に現れるハードルが高い。いや、険しい。自分が挑もうとする山の全容が把握できず、いったいどこから登ればいいのか途方にくれるような。
ときどき10m先を案内する人が現れるものの、コンパスもない、地図もない。装備(薬)もないまま、ワイルドに放り出されるような魔のコロナ山。
「高い病床使用率」「救急受け入れ停止」といった赤いサイレンが鳴り響く緊急事態のその前の、小さな小さな段階での話として、言葉にできない心細さがつきまとうのが、多くの人が体験したコロナ感染ではないだろうか。

「受診控え」のせめぎあい(後編)

コロナ感染後の受診の難しさを登山に例えていますが、山の全容が把握できず、コンパスも地図も装備もないのは風邪も同じです。絶対に安全な風邪、絶対に安全な発熱などないわけで、そもそも風邪自体が実はワイルドなものです。人によっては魔の山にも見えるし、高尾山程度に見えることもある。山が険しくなるかどうかは自身の体のコンディションと気持ちの持ち方次第ですが、乗り越えられないはずのものを乗り越えるから体は大きく変わるわけです。

陽性という結果を見た瞬間パニックになる人、救急車のサイレンを聞くたび不安になる人に比べれば、体調不良になった時ご飯も食べずただじっと経過するのを待つ犬や猫の方がずっと賢いのではと思ってしまいます。

子どもは風邪をひいて強くなる、成長するというのは大人もそうですが、こうした考え方は過去のものになりつつあり、トンデモだと言われることもあります。今もなおコロナが怖いという人にどんな言葉をかければ良いのか悩むこともあります。

風邪はひけた方が良いのだという考え方を広めるのは困難ですが、日本ではそうした考え方をしても良い自由があります。そういう考え方の方が良いなと思う数少ない人に、良い風邪をひくための知恵というのは受け継いで伝えていかねばという思いで、整体道場を開いています。


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