心理現象としてのコロナ
受身な心とコロナ
「コロナはただの風邪ではなかった」と報告する人が今もいます。
本人はウイルスの性質に違いがあると思っているけれども、「コロナがどれだけ臓器や脳にダメージを与えるか」という恐ろしい情報だけをネットで集めに集め、マスクと予防接種で防御しようと心身を萎縮させ、そして感染したら「熱が下がらなかったらどうしよう、重症化したらどうしよう、後遺症が残るかもしれない」とますます体を強張らせ、同居家族にうつさないよう隔離し、トイレを使うたびに消毒する。そんな風に極限まで神経をすり減らしながら過ごせば、ただの風邪で済まなくなるのは当たり前です。
気の持ちようで風邪の症状はいくらでも変わる。トンデモと言われそうな話ですが、野口晴哉は心と風邪の繋がりを研究した数少ない人物でしょう。
コロナに感染するとそれはそれは大変なことになると、テレビもネットも煽り続けました。風邪を引いた時とコロナに感染した時の心の持ち方や療養の仕方が違い過ぎるために、風邪とコロナがどう違うか正確に比較することはもはや難しくなっています。唯一比較できるとしたら「コロナであっても風邪と同じように経過させよう」と思った人だけです。
ただの風邪がただの風邪で済むのは、「寝てれば治るだろう」という楽観的な気持ちがあり、「万が一重症化したら…」という余計な不安感がないからです。コロナと同じように、「ただの風邪が重症化した悲惨なケースや様々な後遺症」を収集し、心を萎縮させた状態で風邪を引けば、ただの風邪として経過できないことが増えるでしょう。
「ワクチンを接種するとコロナに罹りやすくなる」。これは世間では陰謀論として扱われますが、ワクチンで防ごうと思えば思うほど、コロナのことを意識すれば意識するほど、かえってコロナ感染を誘発するというのは自然なことなのかもしれません。
コロナになりたい要求
保育園で理不尽な怒られ方をした子どもが、その夜発熱する。
どう理不尽であったかうまく言語化できず、うちに抑えられ溜まった不満が風邪になるということがあります。つい先日も、高校生の長男が手術することになり、長男にばかり意識がいっていたところ、中学生の次男が発熱したという人がいました。母親の関心を集めたくて引く風邪です。
病気になってでも他人の関心を集めたい、関心が集まるとエネルギーが蓄えられるというタイプの人がいます。コロナは多くの人が関心を寄せましたから、世間がコロナを特別視すればするほど、それに罹って心配されたい、介抱されたいという要求が起こってくる。コロナに罹りましたとSNSに書いて注目されている人を見ると、自分もそうしたくなる。コロナへの関心が薄れた今はそうしたものは減りましたが、一部の人にはまだ別の不満が残っています。
「がんばって感染対策してきたのに感染した。ノーマスクが増えたからだ」というノーマスクへの不満。がんばってきたという気持ちがあればあるほど、がんばっていない人への不満が募り、「あの人たちのせいで悲惨な目に遭った」と他人にアピールしたくなる。
「5類にして検査も有料になったのは愚策、政府は国民の命を蔑ろにしている」という政府への怒り。こうした気持ちを抱えれば抱えるほど、罹った時に「政府のせいでひどい目に遭った」という気持ちに居着くことになり、風邪と同じ症状であっても違うように感じ、後遺症もある気がしてくる。すぐ治ってほしいのに、すぐ治ってほしくないという気持ちが出てくる。
感染対策を続けるべきなのに軽視する政府を批判したいという、偏った正義感が余計な後遺症を残すということもあるわけです。
療養中の目の使い過ぎで咳が残るといったものもありますが、過剰な不安や心配されたい欲求、誰かに対する不満や怒りが風邪症状を悪化させることもあるというお話でした。