清潔不潔の境界線
知っちゃったら無理、知ってるけど大丈夫
「知っちゃったら無理」ということについて考えてみます。
例えばマスク内側に付着した雑菌の拡大画像を見て「知っちゃったらもう汚くて着けられない」となるでしょうか?スマホ画面に付着した雑菌の拡大画像を見て「知っちゃったらもう触れない」となるでしょうか?空気中のウイルス、菌を可視化した映像を見て「知っちゃったらもう生きれない」となるでしょうか?
知っちゃったもの全部が無理になるのではなく、知った中から無理なものを自分で選んでいるのではないでしょうか。そして「これは無理だけどこれは大丈夫」という基準は論理的でも科学的でもなく「なんとなくの感覚」ではないでしょうか。スマホの画面は便座より汚いといいますが、それを知ったとしてもスマホより便座に頬を付ける方が嫌な感じがする。どれだけ科学的根拠を示されても「なんとなく汚い気がする」という気持ちの方が勝るなんてことはいくらでもあるんですよね。
安全なもの、危険なものについても、
電子レンジの電磁波は怖いけどWi-Fiの電波は怖くない
Wi-Fiの電波は怖いけど電子レンジの電磁波は怖くない
水道水は怖いけど加工食品は食べる
加工食品は怖いけど水道水は飲む
といったように、「Aが怖いならBも怖いんじゃないの?」というこちらの予想に反してBは大丈夫だという。また別の人はその真逆が怖いなど、人は「けっこういい加減」にあるものを怖がったり、怖がらなかったりするものです。
何を怖がるか、何が気になるかというのは「潜在意識にスゥーっと入ったもの」で決まるんですね。この数年で飛沫やウイルスが過剰に気になるようになったきっかけはスーパーコンピューターで可視化された飛沫映像だと思いますが、そこで飛沫の怖さ、汚さが潜在意識にスゥーっと入ってしまった。
一度入ってしまったら「誰がなんと言おうと怖いものは怖い」となってしまい、着け続けたマスクの汚さや、吐いた息をもう一度吸う汚さなんていうのは気にならないし、マスクの隙間から漏れるものは「ないもの」にしてしまえる。
紙で拭いただけの肛門は汚いか
汚い話になりますが、排便した後「絶対にウォシュレットで洗わないと無理」という人が稀にいますが、大半の人はトイレットペーパーだけで十分だと判断し、トイレットペーパーでは取りきれない汚れは「ないもの」にしている。紙だけで綺麗になったことにする理由は「ウォシュレットのあるトイレでしか用が足せないなんて不便だから」ですよね。衛生意識が高過ぎて不自由なことが増えるのは過敏な状態です。
冒頭の素顔でコーヒーを作る人が気持ち悪い、マスク着けてくれと思う人もやはり過敏な状態です。「知らなかったから健やかでいられた」、もしくは「知ってたけど意識しないようにしてたから健やかでいられた」ことを知って意識し過ぎて不自由になった状態ですね。
「無症状でも人にうつすかもしれない」というのも、意識しないでいたから健やかでいられたことです。無症状でうつすかもしれないことが怖くてマスクが手放せない、何度も抗原検査しないと気が済まないというのも不自由が増えた不健全な状態です。「マスクをしない人は無症状で人にうつすかもしれないという想像力に欠ける人」と言う人までいましたが、結局「そこまで気にしてたら病気になる」と感じる人が大多数であって、マスクを外し、人にうつすかもしれないという意識自体を持たないようにする。
極端な意見が目立つツイッターでは潔癖過ぎる人を簡単に見つけられるし、ここ数年で過敏な人が一時的に増えたとはいえ、やはり「ウォシュレットがなきゃないで大丈夫」なのと同様に、素顔の飛沫は意識しないように、合理的に判断する人が多いんだろうなと思います。清潔不潔の基準は人それぞれだけれども、「そんなことまで意識してたらやってられない」という境界線は大きく変わらないということです。実際、近所のコンビニでも素顔の店員さんが出てきましたし、フードコートに行った時、銀だこの店員さんが素顔でたこ焼きを作っていました。もちろん買う人も気にしていません。
現代人の病は今回のツイート主も「仲間がいて嬉しい」と書いているように、現実では少数の意見でもツイッターを探せば自分と同じ感覚の人がいて、「自分の感覚が真っ当だ」と思ってしまうことです。自身が抱く素顔店員への恐怖は真っ当、店員はマスクすべきという感覚も真っ当だと思っていると、社会の変化についていけないままになります。
自分で自分にかけた暗示に縛り付けられていないでしょうか。
「暗示からの解放」が整体のテーマです。