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「ふるさと大宮を歩く」案内看板情報

京都府京丹後市大宮町には、町内の公共施設や遺跡、文化財等を案内する看板が設置されている。
これは京丹後市教育委員会が2000年頃に設置されたようで、すでに撤去されてしまった物もある。
ここには、それぞれの看板に記載された情報を備忘録として書き記しておく。

善王寺

情報なし。

旧善王寺公民館(撤去済)

口大野

この看板がある建物は、大宮町になる前の口大野村役場の庁舎です。この地区は、昭和2年の丹後大震災のときに大きな被害を受けました。この旧口大野村役場庁舎は、震災後の昭和4年に建てられた洋風建築として国登録文化財となっています。付近には、昔の口大野郵便局や口大野小学校の体育館などの建物が残るほか、日本を代表するシュールレアリスム画家である小牧源太郎画伯の生家が残っています。この建物の背後を流れる水路は、江戸時代に用水路として造られた「新溝」と呼ばれるものです。
「口大野」という地名は、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という書物に記された「大野郷」がもとになっています。この地区では、菅外遺跡(すげがいいせき)において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。
寺は、常徳寺(じょうとくじ:法華宗)があります。江戸時代後期の山門がある常徳寺には、正安2(1300)年の紙本墨書日興筆本尊曼荼羅と文安元(1444)年の紙本墨書日親筆本尊曼荼羅を所蔵しており、ともに大宮町指定書跡に指定されています。
神社は、大野神社があります。大野神社は、もともと地区北部の通称「岡の宮」の地に鎮座していたと伝えており、明治時代に現在地に遷座しています。なお現在の大野神社は、大野城跡に造られています。大野城は、豊臣秀頼に仕え大坂冬の陣・夏の陣で活躍した大野治長(おおのはるなが)の父親または弟と伝える大野道犬(おおのどうけん)の居城と伝えています。

旧口大野村役場

奥大野

奥大野

この看板がある奥大野公民館は、むかしの倉垣(くらがき)小学校の建物です。奥大野地区は、室町時代の「丹後国郷保荘惣田数帳」(たんごのくにごうほしょうそうでんすうちょう)では「倉垣庄」と呼ばれていました。この小学校の名前は、この「倉垣」に由来しています。
この地区では、裏陰遺跡(うらかげいせき)や奥大野遺跡において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。古墳時代後期には、丹後地方で一番大きな横穴式石室をもつ新戸古墳が造られ、奈良〜平安時代の遺跡には、当時の役人が住んでいたとされる正垣遺跡(しょうがきいせき)があります。またこの遺跡からは、弥生時代の琴が出土しています。
寺は、長福寺(日蓮宗)と光明寺(曹洞宗)の二つあります。このほかのお堂としては、観音堂と薬師堂があります。長福寺には、戦国時代にこの地区を治めていた山口弾正忠永能(奥大野城主)の五輪塔が残っています。なお観音堂は、奥大野城跡のふもとに位置しています。
神社は、若宮神社があります。神社の境内は、シイ・カシ・サカキを中心とした社叢林となっており、その中にある推定樹齢400年といわれるスダジイの古木は、京丹後市指定天然記念物に指定されています。

旧倉垣小学校

裏陰遺跡

裏陰遺跡は、恒吉川南側の扇状地上に立地しています。大宮第二小学校の建設に先立つ昭和53年に、大宮町内ではじめてとなる本格的な発掘調査が行われました。
調査の結果、縄文時代早期後半(およそ7000年前)から後期前半(およそ4000年前)までの石器(石で作った生活用具)や土器が出土しました。おかには、弥生時代後期の大形の竪穴住居(たてあなじゅうきょ:家の跡)1棟や土器、古墳時代前期・後期、平安時代の土器が出土しており、縄文時代から平安時代までの長い間、この地が人々の生活場所であったことがわかりました。
大宮町内の縄文時代の遺跡は、裏陰遺跡のほかに谷内遺跡(谷内)、菅外遺跡(口大野)、正垣遺跡・奥大野遺跡・枯木谷遺跡(奥大野)、沖田遺跡・松山遺跡(森本)、五十河遺跡(五十河)などがあります。裏陰遺跡は、これらの遺跡の中で最も多くの遺物が出土しているほか、大宮町内ではじめて確認された縄文時代の遺跡として貴重な資料といえます。このほか弥生時代後期〜古墳時代前期にかけての遺物が最も多く出土しており、この時期には大きな集落があったものと推定されます。

大宮南(旧大宮第二)小学校

大宮町指定文化財(天然記念物)若宮神社のスダジイ

情報なし。

若宮神社

上常吉・下常吉

この看板がある建物は、常吉村百貨店です。
「常吉」という地名は、室町時代の「丹後国郷保荘惣田数帳」(たんごのくにごうほしょうそうでんすうちょう)の「常吉保」にさかのぼります。この地は、天女伝説の残る磯砂山(いさなごさん)のふもとに位置し、天女が水浴みしたという女池(めいけ)が残っています。
この地区では、上野遺跡(うえのいせき)から弥生時代の大型石苞丁(いしぼうちょう)が出土しており、この時代から生活をしていた痕跡がみられます。この遺跡では、布掘り(ぬのぼり)をもつ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が見つかっており、有力者がいたことがわかります。
寺は、下常吉区に常林寺(曹洞宗)、上常吉区に経典寺(日蓮宗)、地蔵院(曹洞宗)があります。地蔵院の境内には「平地地蔵」と呼ばれる高さ5mを測る石のお地蔵さんがあり、「こも着せ」は冬の風物詩として有名です。経典寺の山門は、江戸時代後期の建造物です。このほか、白滝不動や貝谷不動があります。貝谷不動の境内には、幹周5.21m、樹高16mを測る大きなケヤキの木があります。
神社は、下常吉区に天神神社、上常吉区に冨持神社があります。冨持神社の境内は、シイ・タブ・カシを中心とした社叢林となっており、その中には、町内で最も樹高の高い杉の巨木が含まれます。

つねよし百貨店

三坂・谷内

三坂神社墳墓群

三坂神社墳墓群は、弥生時代後期初頭(およそ2000年前)に造られたお墓です。北部マスタービレッジ造成に先立って調査が行われました。
この墳墓群は、丘陵の高い部分を削り出して6つの平坦面を造り、そこに有力者とその家族39人埋葬しています。
最も大きな3号墓第10主体部と呼んでいる埋葬施設(墓穴)には、ガラス管玉で作られたヘアーバンドやガラス勾玉・小玉と水晶玉の耳飾りで飾られた有力者が葬られていました。この埋葬施設からは、朝鮮半島からもたらされた鉄製のやりがんなや素環頭鉄刀が出土しています。
この主体部を含めて墳墓群全体からは、当時はたいへん貴重であったガラスで作られた勾玉・管玉・小玉が3000点あまりと出土しました。これらの資料から、海を越えて交易を行っていた丹後地域の有力者の姿が浮かび上がります。
なお三坂神社墳墓群出土品は、平成12年3月17日付けで京都府指定文化財(考古資料)に指定されています。

セントラーレホテル京丹後付近

大田鼻横穴群

この地にかつて、東から西に張り出す丘陵が存在し、その傾斜の急な南側斜面に横穴群が三〇基確認された。
横穴群は、水田との比高差約二〜七・五mのところに花崗岩風化土を刳り抜いて築造されていた。
各横穴の平面形は、長方形と袋状を呈する二形式があり、その規模はおよそ玄門幅一m前後、玄室の幅、長さはおよそ一・五m~三mが主で、中には四mを越えるものも三基確認されている。
玄室前面には墓道が取り付き、玄室との墓道の境には段がつき、仕切り溝があるものもあった。
玄門部の閉塞は板戸を立てていたと思われる。横穴の築造は、六世紀末から八世紀中頃にかけて行われたと推測される。
出土遺物としては、須恵器、土師器、鉄刀等が検出された。
大田鼻横穴群は、三〇基の横穴で構成しており、京都府内で最大級の横穴群である。

大宮町周枳小字セイゴ

三重

この看板がある建物は、三重生活改善センターです。
「三重」という地名は、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という書物に記された「三重郷」がもとになっています。
この地区では、三重遺跡において弥生時代から生活をしていた痕跡がみられます。東京国立博物館所蔵の「ビクニ屋敷古墳」のガラス釧は、この地区から明治33年に出土したものであり、全国で3例しかない貴重なものです。戦国時代にこの地を治めた三重城主成吉(大江)越中守は、宮津市文殊堂境内にある等身大地蔵の銘によると応永34(1427)年に千体の地蔵を造ったと伝えています。
寺は、万歳寺(曹洞宗)、薬師堂があります。薬師堂境内には、鎌倉時代〜室町時代の銘分をもつ古い石造物がみられます。また神社は、三重神社・大川神社・愛宕神社があります。
三重地区から岩滝へ抜ける大内峠は、江戸時代に参勤交代で使われた道です。幕末の黒船来航に伴う動乱期には、峠と関所に胸壁(きょうへき)が設けられました。

三重公民館

森本

「森本」という地名は、江戸時代にさかのぼります。
この地区では、松山遺跡や沖田遺跡おいて縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。戦国時代にこの地を治めていた成吉(大江)越中守は、宮津市文珠堂境内にある等身大地蔵の銘によると応永34(1427)年に千体の地蔵を造ったと伝えています。そのうちの2体が左坂(ささか)の地蔵、右坂(うさか)の地蔵といわれています。このほか立石大逆修塔(大宮町指定史跡)は、永禄7(1564)年銘のある巨大な石塔です。
寺は、興勝寺(臨済宗)があり、この寺では、天正2(1574)年銘のある成吉(大江)越中守の位牌を所蔵しています。また神社は、大屋神社・秋葉神社・愛宕神社・大杉社・稲荷神社があります。大屋神社の本殿は、江戸時代後期のものです。また稲荷神社には、数種の色の花をつける五色椿がある。

大宮町森本小字大柳

大宮町指定文化財(史跡)立石大逆修塔
左坂の地蔵

情報なし。

京都縦貫道大宮IC付近

明田

「明田」という地名は、江戸時代にさかのぼります。現在までこの地区では発掘調査が行われていないため、古代の様子は不明ですが、古墳群や城跡が残っています。
寺は、高原寺(臨済宗)があります。また神社は、心木神社・瘡森稲荷神社(かさもりいなりじんじゃ)・若宮神社があります。このうち瘡森稲荷神社は、江戸時代に明田村の利兵衛が江戸から勧進してきたものと伝えられています。神社は、瘡の病気などによく効くということで、今でも土団子がお供えしてあります。

丹海バス停留所「明田」

延利

この看板がある建物は、五十河基幹集落センターです。この地には、もともと五十河小学校や大宮中学校五十河分校、そして五十河村役場などがありました。
「延利」という地名は、室町時代の「丹後国郷保荘惣田数帳」(たんごのくにごうほしょうそうでんすうちょう)にある「延利保」が初出となります。
この地区では、延利遺跡において弥生時代前期から人々が生活していた痕跡が確認されています。古墳時代には、この地域で有数の密集度を誇る笠町古墳群が造られました。
南北朝時代の貞和5年(1349)には、聖徳太子の弟とされる麻呂子親王(まろこしんのう)伝説が残る駒返しの滝地蔵(京丹後市指定史跡)が造られており、古くから岩滝へと抜ける交通路であったことをうかがわせます。このほか山付堂地蔵は、永正7年(1510)銘を有するものです。
寺は、長福寺(曹洞宗)があり、また神社では、高森神社があります。高森神社には室町時代の狛犬があり(現在は丹後郷土資料館に寄託しています)、京丹後指定文化財(工芸品)に指定されています。

五十河基幹集落センター・旧五十河小学校・旧五十河村役場

駒返しの滝地蔵

情報なし。

駒返しの滝発電所手前

久住

「久住」という地名は、「披露事記録」天文8(1539)年閏6月7日条に「丹後国光富保 付三重内久住村」とあるのが初出です。またこの記事から、室町時代の「丹後国郷保荘惣田数帳」(たんごのくにごうほしょうそうでんすうちょう)にある「光富保」は、久住区に位置することがわかります。
この地区から西へは、大谷川沿いに河辺区へ抜けることができるほか、北へ峠を越せば弥栄町堀越区へと抜けることができます。
この地には、久住遺跡において弥生時代後期から人々が生活していた痕跡が確認されており、中の谷遺跡では、祭祀に使うミニチュアの土器が出土しています。また五十河真黒人(いかがのまくろうど)という長者がいたという伝説が残っています。
寺は、本光寺(曹洞宗)があります。神社は、木積神社のほか愛宕神社があります。

木積神社(撤去済)

五十河・新宮

五十河・新宮

「五十河」という地名は、江戸時代にはじめてみられるものです。『妙性寺縁起(みょうしょうじえんき)』によれば、この地に来た小野小町が火事に困っていた村人たちの相談を受けて、「五十日」という地名を「五十河」には変えれば治まると教えたの由来といわれています。
この地区では、五十河遺跡において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。飛鳥時代には、須恵器を焼いた新宮窯跡が操業しています。
この地区には、平安時代の歌人小野小町がこの地で亡くなったという伝承が残っています。小町の舎には、全国の小町伝承に関する資料を展示しています。また小町を開基と伝える妙性寺、小町の守護仏を祀る薬師堂、小町の墓、小町をしたってこの地に来た深草少将の墓と伝える岡の宮などが残っています。小町が腹痛を起こしたという「小野坂」は、現在も小字名として新宮区に残っています。
神社は、五十河区に霧宮神社、中原神社、新宮区に三社神社があります。また霧宮神社境内には、町内でもっとも大きな杉(八岐杉)があるほか、もともと内山にあった三柱神社が鎮座しています。内山神社には、北近畿地方有数の面積をほこるブナ林があり、京丹後市指定天然記念物に指定されている京都府下で一番大きなブナの木もあります。

小町公園

小野小町の墓

平安時代、百人一首で知られ、六歌仙の一人で絶世の美女と云われた小野小町が、年老いて丹波路を旅する道中、五十河の住人甚兵衛と道連れになった。当地で旅の疲れを休め、再び甚兵衛に送られ旅立つも、新宮より道戸へ通ずる長尾坂で急に病の身となり、甚兵衛は小町を背負って帰り我が家で介護、薬石効かなく辞世の句「九重の花の都に住みはせで はかなや我は三重にかくるる」の一句を残してこの世を去ったと云われる。以後、長尾坂は小野負坂(小野坂)と呼ばれている。法名を妙性といい、小野山妙性寺は小町を開基として建立され、今でも妙性寺には由来を記した巻物、小町像、位牌が寺宝として残っている。

小町公園

深草少将ゆかりの岡の宮(岡宮大明神石碑)

丘陵の斜面を平坦にしたところ、高さ一・一二メートル・幅〇・六五メートルにわたり、表面に「岡宮大明神」という文字を刻む花崗岩製の石碑が立っています。
『妙性寺縁起』には「小町が亡くなってからしばらくして、小町の墓の前で伏ししおれすすり泣きする都人がいた。いたわしいことに一夜を過ごせずそのまま亡くなってしまった。のちに村人が調べてみると深草四位の少将という人であった。そこで村人は、村はずれの山に葬って岡の宮とした。今は妙性寺の鎮守としている。」とあります。深草少将を葬ったという「岡の宮」は、この石碑の建っているところと思われます。
深草少将は、謡曲『通小町』の主人公として初めて名前のでてくる人物であり、六歌仙のひとり僧正遍照をモデルにしたという説もあります。

味土野大宮線・上延利線交差点付近

三社神社

情報なし。

上延利線・丹後縦貫林道交差点

新宮窯跡

新宮窯跡は、須恵器を焼いた飛鳥時代前期(七世紀前半)の窯跡です。
一九七八年、丹後縦貫林道の工事にともなって三基の窯跡が発見されました。いずれも半地下式のもので、窯跡の上半分だけが見つかりました。窯跡からは、須恵器の高坏、杯身、台付椀、平瓶、壷、甕が見つかっています。
七世紀前半の丹後で、須恵器を焼いた窯跡は、ほかに堤谷窯跡(久美浜町丸山)やシゲツ窯跡(舞鶴市)などが知られますが、数少ないものです。そのため、この時期の須恵器生産のようすを考える上で貴重な遺跡です。

上延利線・丹後縦貫林道交差点

薬師堂

妙性寺の由来を記した『妙性寺縁起』によれば、薬師堂は小野小町の守護仏である薬師如来を祀ったお堂とされています。

小野小町の墓付近

小野小町開基の妙性寺
中原神社
霧宮神社・三柱神社

情報なし。

小野小町の墓付近

大宮町指定文化財(天然記念物)内山の大ブナ
開星館

ブナハウス内山まで徒歩40分
ブナハウス内山から徒歩1時間

開星館

内山の歴史

標高五〇〇メートルに位置するここ内山地区には大宝年間(七〇一~七〇四)に高尾山妙性寺が建立され、人々が住み始めた。この地区の農家は、田上(「たうえ」、「たのうえ」)姓を名のり、高地にもかかわらず広大な田畑を拓き、近年まで農業を営んできた。しかし、かつて十六戸あった農家が、昭和初期には七戸に減り、昭和一〇年には一戸となった。その後、最後の一戸も昭和四八年に下山し、廃村となった。
この地区のブナ・ナラの木は、昔、薪として日常生活で利用されていたが、現在では、丹後上世屋内山京都府自然環境保全地域に指定され、貴重な自然として大切に守られている。

ブナハウス内山

周枳

この看板がある大宮売神社(おおみやめじんじゃ)は、平安時代の『延喜式』にすでに記載のある古い神社です。この神社のある場所は、弥生時代前期から生活の痕跡が確認でき、古墳時代中期には祭祀を行ったと思われる遺物が出土しています。古墳時代に祭祀を行った場所が大宮売神社につながるようです。本殿前の石灯篭2基のうち1基は、徳治2(1307)年銘をもち、国重要文化財となっています。また境内地が京都府指定史跡に指定されているほか、神社の旧本殿は、江戸時代前期の建物であり、京丹後市指定建造物に指定しています。
「周枳」という地名は、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という書物に記された「周枳郷」がもとになっています。弥生時代には、多数のガラス玉や鉄製品を出土した左坂墳墓群(ささかふんぼぐん)が、古墳時代には丹後地域有数の密集度をほこる左坂墳墓群が造られます。また飛鳥・奈良時代には、横穴墓(おうけつぼ)が密集して造られます。
寺は、江戸時代後期の山門をもつ周徳寺(曹洞宗)のほか、妙受寺(日蓮宗)・願成寺(浄土真宗)・薬師堂(浄名庵:曹洞宗)があります。神社は、大宮売神社のほかに荒塩神社・名所賀稲荷神社などがあります。また大宮売神社のお旅路となっている石明神は、もともと古墳であったものです。

大宮売神社

石明神

現在、大宮売神社の御旅路となっている石明神は、古墳時代後期の横穴式石室を埋葬施設とする古墳です。もともとは土で盛られていましたが、長い間に流されてしまい、石室だけが残っています。

大宮町周枳小字向地・猪之尻

河辺

「河辺」という地名は、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という書物に記された「神戸(かんべ)郷」がもとになったとされています。
この地には、弥生時代後期(およそ2000年前)には、ガラス玉と鉄製品をもつ有力者のお墓であろう今市墳墓群(いまいちふんぼぐん)が造られます。
この地区には、万休院(臨済宗)・妙徳寺(日蓮宗)・正覚寺(浄土真宗)という3つの寺があります。このうち万休院には、享禄4(1531)年銘のある古瀬戸の茶壷(京丹後市指定文化財)が残っています。神社は、皇大神社があります。この神社がある場所は、河辺城跡でもあります。
また太平洋戦争中には、河辺区から峰山町新町区にわたる地域に河辺飛行場が造られました。その一部は丹後織物工業組合中央加工場となっています。現在も格納庫や弾薬庫は峰山町新町区に残っています。

河辺公民館

現地にて撮影した写真と共にまとめた資料はGoogleドキュメントにて公開している。

町内には、この他にも遺跡周辺には案内看板が設置されていることが多い。
これら以外の物については今後の調査対象としたい。
末筆ながら、町内の貴重な文化資産を整理、継承してこられた教育委員会、その担当者に感謝の気持ちを送りたい。

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