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舞台 「我ら宇宙の塵」 観劇レビュー 2023/08/11


写真引用元:小沢道成さん 公式Twitter


写真引用元:小沢道成さん 公式Twitter


公演タイトル:「我ら宇宙の塵」
劇場:新宿シアタートップス
劇団・企画:EPOCH MAN
作・演出・美術:小沢道成
出演:池谷のぶえ、渡邊りょう、異儀田夏葉、ぎたろー、小沢道成
期間:8/2〜8/13(東京)
上演時間:約1時間40分(途中休憩なし)
作品キーワード:パペット、LEDディスプレイ、宇宙、死、親子
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆


「虚構の劇団」に所属していた小沢道成さんが主宰する演劇プロジェクト「EPOCH MAN」の新作公演を観劇。
「EPOCH MAN」の公演は、『鶴かもしれない2020』(2020年1月)、『夢ぞろぞろ』(2021年2月)、『オーレリアンの兄妹』(2021年8月※観劇レビューは残っていない)を観劇していて、今作は4度目の観劇となる。

「EPOCH MAN」は今までは、一人芝居や二人芝居を中心に70〜80分程度の公演を上演してきた団体である。
小沢道成さんは、『オーレリアンの兄妹』で第66回岸田國士戯曲賞の最終候補に上がっていて、今後の脚本家としても業界的に期待されている方なので新作公演を観劇することにした。

今作は、「EPOCH MAN」としては初めての5人芝居である上に、パペットとチームラボで見られるようなLEDディスプレイを用いた映像テクノロジーによる演劇となっている。
物語は「宇宙」と「死」をテーマにした話。 星太郎(パペットを操る小沢道成)は、宇宙に詳しい父親の影響を受けて好奇心にかられて星空を眺める少年。
しかし父親は亡くなってしまい、ある日星太郎は父親を探しにいつの間にか外へ出る。
母親の宇佐美陽子(池谷のぶえ)は、息子の星太郎がいなくなってしまったことに慌てて彼を探しに出る。
宇佐美が星太郎を探す道中で、病院に勤めている早乙女真珠(異儀田夏葉)や火葬場に勤めている鷲見昇彦(渡邊りょう)と出会い、彼らも最近身近な存在を亡くしていてそれぞれの「死」に対する価値観や向き合い方を描きながら、星太郎を探そうとするという話。

まず序盤から、ステージ三方位の壁に設置されたLEDディスプレイによる映像演出と煌びやかな音楽が劇場に響く。
今まで、「EPOCH MAN」の芝居で好きだったのは、そういった舞台美術のクオリティというよりも脚本の素晴らしさと登場人物たちの魅力だったので、ここまでエンタメとして綺麗に作り込まれた舞台作品に没入出来るか心配だった。
しかし、その後に続く宇佐美のモノローグから一気に引き込まれ大満足の観劇体験となった。宇佐美を演じる池谷のぶえさんの演技力が素晴らしすぎて、父親の影響で宇宙に憧れるちょっと変わった少年・星太郎のことをずっと心配し続ける姿に魅了された。

だからこそ宇佐美の息子が行方不明になって大変な心境であることに対して、早乙女と鷲見がどこか宇佐美に対して他人事で冷たい人間に感じた。
しかし、そんな登場人物たちの行き違う人間描写すらも脚本と演出の一部だったということに後半になって気付かされたことで、より今作の深みを実感出来て素晴らしいと思えた。
人が抱える身近な人の「死」に対する価値観は、その人が亡くなった人に対して生前どういう印象を抱いていたかに依存する。
その人のことが好きでなかったら、死んだ時にはショックは小さいかもしれないし、逆に本当に大事な存在だったら失ったときの悲しみは計り知れない。
人によって「死」というものの受け取り方というのは様々であることを改めて痛感した。

また小沢さんが操るパペットの扱い方が秀逸。
そして、小沢さんが星太郎としてパペットを操りながら演じたり、星太郎の死んだ父親となって星太郎に語りかけるように演じるあのシームレスな演出が非常に演劇的で好きだった。

「宇宙」と「死」をテーマにしたアニメーションのような演劇作品で、その脚本のピュアなメッセージ性や分かりやすさからも、子供も楽しめる演劇作品だと感じた。
まさに夏休みに子供が出来たら一緒に観たい演劇だった。
今回は新宿シアタートップスという小劇場での上演だったが、大劇場で商業演劇としても十分成立出来る作品だと思う。
ぜひ多くの人たちに堪能して欲しい作品だった。

写真引用元:ステージナタリー EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」より。(撮影:小岩井ハナ)




【鑑賞動機】

「EPOCH MAN」の公演は、『オーレリアンの兄妹』(2021年8月)以来観ていなかったが、その作品が岸田國士戯曲賞の最終候補に上がったり、2022年2月に上演された本多劇場での一人芝居『鶴かもしれない2022』が大盛況だったようなので、今回の新作公演は観劇することにした。
パペット×映像テクノロジーの融合で描く演劇というのにも興味を唆られたのと、フライヤーデザインがめちゃくちゃ素敵(藤尾勘太郎さんが手がけているフライヤーデザインはどれも素敵)だったというのも観劇決めてのポイント。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

ステージ中央にパペットが倒れている。その周囲には、沢山の紙がばら撒かれている。
少年1(小沢道成)、少年2(渡邊りょう)、少年3(異儀田夏葉)、少年4(ぎたろー)が次々とステージ中央床に開けられた穴から登場する。そして周囲に撒き散らされた紙を取りながらそこに書かれた文章を読み上げる。ステージの三方位の壁面にはLEDディスプレイによる星空の映像が流れる。
少年たちは、この星空の星と星の間にも肉眼では見えないけれど星が無数に存在していることを口々に言う。こちらからでは肉眼で見えないかもしれないけれど、見つけてくれと必死で光っているのだと。
星たちは、地球からの距離によっていつ発生した光が今届いているのか異なる。例えば、あの星だったら16光年だから、今地球に届いているのは16年前に発生した光。これがもっと遠くにある星だったら大昔に発生した光が今地球に届いているのだと。
少年4は、ではそんな光の速さに勝ってもっと速く動いて見せようと言って、全速力で走る真似をする。一同はしーんとしてしまう。
でも、月の光であれば、月は地球から少ししか離れていないので数分前の光を地球から見ることができる。しかし、月は他の天体と違って恒星ではなく惑星。月は、地球に隕石が衝突してその時に飛び散った破片のようなものが月となって地球を周回し始めた。だから月というのは、元々は地球の一部なのだと。
少年1は、そのまま中央に倒れたパペットを起こして操作し始める。古典芸能のような効果音が流れながら、ステージ前に向かってテクテクと歩く。

宇佐美陽子(池谷のぶえ)が登場し、モノローグを始める。
旦那は、いつも宇宙のことばかり話す変わった男性だった。最初に会った時も、宇宙の例え話を使って色々と話を始めたと言う。最初は戸惑った陽子だったが、そんな男性が徐々に魅力的に感じて結婚に至った。
そして息子の星太郎が生まれた。星太郎は、父親の影響もあって宇宙が大好きになり、よく星空を眺めていた。
しかし、そんな旦那は亡くなってしまう。星太郎はしばらく旦那の骨壷を無言で眺めていた。そして、その後は無言で星空を見るようになった。前のように好奇心に溢れた姿ではなくなってしまった。そんな星太郎を陽子は心配していた。

ある日、陽子は家中を探しても星太郎がいないことに気が付く。星太郎が一人でどこかへ行ってしまうなんて初めてのことだ。学校へ行くには早すぎる時間だし、友達と遊びに行ったのかとも考えたが、星太郎には一緒に遊ぶ友達に心当たりがない。
陽子は家を出て星太郎を探しに向かう。陽子は道ゆく人に星太郎のことを尋ねるが知らないと言う。陽子は交通事故現場に遭遇する。車で人が轢かれて飛ばされたらしい。その光景が落書きとして描かれていた。そしてその横には、地球に隕石がぶつかって飛び出した破片が月となって周回する絵も書かれていた。
この落書きは星太郎に違いないと、陽子はその落書きの先の方へ向かった。

陽子は病院に辿り着く。手術室の前。そこには、早乙女真珠(異儀田夏葉)という看護師がいた。陽子は星太郎らしき少年を見なかったかと聞くと、早乙女は心当たりがあると言う。その少年は、手術室の前に来て、「人は死んだらどうなるのか?」と聞いてきたと答える。それは間違いなく星太郎だと思った陽子は、話に続きを聞く。
早乙女は、人は死んだら魂と身体に分離して、それは死んだら人の体重が数グラム減るからだと言われていて、そして魂は見えないから分からないけれど、身体は火葬場に行って焼かれると答えたと言う。陽子は怒り出す。なんでそんなことを星太郎に教えたのだと。星太郎は最近父親を亡くしたばかりなのだと言う。そんな辛い現実的なことを教えないでくれと。
早乙女は、それは知らなかったとお詫びして、星太郎は火葬場の方に向かって行ったと言って、陽子はそちらに向かう。早乙女もついていきますと言う。

火葬場の近くに来ると、一人の男性が泣きじゃくっている姿を目の当たりにする。その男性は鷲見昇彦(渡邊りょう)といい、どうやらキャッチボールした相手が向こうへ行ってしまってと火葬場の煙突を差すので、それは星太郎なんじゃないかと、星太郎がまさか火葬場、つまり死んでしまったのかと陽子は焦る。しかし、鷲見がキャッチボールをしていたのは、愛犬のコタロウのことで星太郎ではなかった。陽子と早乙女はほっとする。
鷲見の話を聞くに、愛犬のコタロウとはよくキャッチボールをしたが、先日亡くなってしまってあの火葬場で火葬したのだと言う。火葬場職員でもある鷲見は、自分の愛犬がそんな目に遭ったのが実に悲しくて、その話ばかりして泣きじゃくっていた。
陽子は、息子の星太郎を探していると言ってこの場を後にしようとするが、鷲見も星太郎探しについていくと言う。そして火葬場にはいないから、星太郎の好きなプラネタリウムに行ったのではと思いそちらに向かう。

車内、鷲見が近道でプラネタリウムへ向かう。陽子はずっと下を向いている。
早乙女は、実は最近母親を亡くしたという話をする。母親はファッションへの強いこだわりがあって、いつも人目を気にしてお洒落していた。早乙女からしたらダサいと思っていたが。しかし、いざ母親は亡くなって遺骨だけになってしまった姿をみて、あんなにファッションへのこだわりが強かったのに、亡くなる時は何も身につけていないんだと滑稽だったと言う。そして、早乙女は母の形見として銀歯を持ち歩いていた。この銀歯は母の奥歯にあった銀歯で、奥歯なら見えないから銀歯でも良かったのだと言っていたという。

プラネタリウムに辿り着く。平家織江(ぎたろー)がスタッフをしている。陽子は星太郎がここに来ているかと尋ねると、ここにいると平家は答える。陽子は安心する。平家はプラネタリウム鑑賞代を皆に請求する。陽子は三人分払おうとするが、早乙女も鷲見も自分の分は自分で払おうとする。
中に入ると、星太郎はずっとプラネタリウムを見ていた。平家は、プラネタリウムで投影されている星空に対してこけしのように見えるからとこけし座を作る。牡羊座が全く牡羊に見えないように、星を自由に結んで星座を作るタイムを平家は設ける。皆は、おにぎり座や喉仏座などを作る。
陽子は星太郎に対して、みんな星座を作っているのだからあなたも何か作りなさいと言う。しかし星太郎はずっと無言のままである。陽子は、その勢いで星太郎を叱りつける。どうして黙って家を出て行ってここに来たのかと。心配するでしょうと。
その時、プラネタリウムは一番の盛り上がりを見せていて、音楽も楽しげな曲。早乙女も鷲見もプラネタリウムを楽しんでいて、カッとなっている陽子をなだめる。
音楽が落ち着く。星太郎は、死んだらどこにいくのかという問いと向き合う。問いを変えて、飛んで行った風船はどこに向かうかと聞くと、風船の中身のヘリウムは空気よりも軽いから風船は空気によって上へと持ち上げられる。風船は上に自ら飛んでいくのではなく、空気に押されて上に行く。そして、空気が薄くなった所で風船の中のヘリウムの方が重くなると、重力によって下に降りてくる。そう星太郎は答えると、早乙女は現実的な子ねえと感心する。シャボン玉はどこに向かうかと聞くと、シャボン玉は割れてしまうだけだと言う。
星太郎は、人は亡くなって火葬場で焼かれて煙として塵となって舞い上がっても、その塵は地球上に降り注ぐ。だから父は今もこの地球にいる。無数の星々からみたら、私たちも無数の星のようなもの。だから、死んだら星になるのだと星太郎は言う。そして、プラネタリウムを抜け出して一目散で走る。陽子たちも追いかける。鷲見は、全力で走れば星太郎を追い抜けるが、大人気ないのでそれをしない。

時間が経つ。陽子と早乙女と鷲見は久しぶりに会って話す。
先日平家が亡くなって葬式が行われたが、葬式とは思えないくらい明るい式だったそう。平家の人間性を反映している。骨を紹介するときも、葬列者から笑い声が起きていたと。
早乙女は母親の形見である銀歯を無くしてしまったが、無くした途端に家の至る所に母のモノがあることに気がついたのだと言う。
ここで上演は終了する。

理系出身で、小さい頃から宇宙が好きだった私にとって、今回の題材はとても好みだった。宇宙にはロマンを感じるが、久しぶりにそう思わせてくれる時間を堪能出来たと思った。
父親は物知りでなんでも知っていて、それに惹かれる好奇心旺盛な星太郎との関係は想像するだけでも心動かされる。
一方で、母の陽子は性格的に真っ直ぐ王道な人生を辿って来た感じのキャラ設定を感じたので、星太郎のようなちょっと変わった息子のことが気がかりなのだと思う。だからこそ、その愛情がかえって星太郎を苦しめてしまっているようにも思えた。だから星太郎は父が好きだったのかもしれない。
考察パートでも触れるが、これは身近な人の死をどのように受け止めてきたかによって、今作の好みも分かれるかもしれないなと思った。大事な人を亡くして辛い経験をした人であれば、鷲見に凄く共感出来るかもしれないし、ずっと好きでもなかった身近な人間を亡くした人であれば、早乙女のように感じるかもしれない。人によって「死」に対するイメージや価値観は違うから、今作を見て合う合わないも分かれるような気がするし、それすらも今作の主題としてしっかり扱っているからなるほどなと、改めて考えさせられた。
そして、さすがは岸田國士戯曲賞のノミネートされるだけあって、小沢さんは人間描写を丁寧に描くのが上手いと思った。凄くリアリティのある人間がそこにはいたし、タイプの違う人間が同じ空間にいるからこその、ぶつかり合いまではいかないが、価値観や思いの対立があって凄く胸に沁みた。素晴らしかった。

写真引用元:ステージナタリー EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」より。(撮影:小岩井ハナ)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

今作は、パペットとLEDディスプレイによる映像演劇の掛け合わせということで、非常に舞台美術に凝った演劇作品で素晴らしかった。「EPOCH MAN」史上最も舞台美術を極めている感じがあった。逆にあまりにも煌びやかなエンターテイメント過ぎて最初は自分が作品に没入出来るか心配だったが、脚本や役者の素晴らしさと、そしてなんといってもそこに意味付けされるかのようにこの舞台美術が存在するんだと繋がってから非常に堪能できた。
舞台装置、パペット、LEDディスプレイ、舞台照明、舞台音響、その他の演出について見ていく。

まずは舞台装置から。
舞台装置は至ってシンプル。ステージ三方位に黒い壁が設置されていて、そこが全てLEDディスプレイとなってLEDによる映像が映し出される。それ以外は何か特別なものが設置されている訳ではない。
新宿シアタートップスの劇場には、ステージ中央床に人が一人入れるほどの四角い穴があって、そこがデハケとして使用できる。そこから全出演者が登場してハケる動線になっているのが面白かった。
あとは、椅子が複数ステージ上に設置されており、出番がない役者はその椅子にずっと座っている状態だった。おそらく、ステージ三方位がLEDディスプレイによって封鎖されているから、床面の四角い穴以外デハケできないからだと考えられる。椅子というのは、舞台『鶴かもしれない2020』(2020年1月)でも登場していて、非常に「EPOCH MAN」らしい舞台美術だが、LEDディスプレイを仕込んでいて不自由になっている役者の動線をこんな形で演出するテクニックも素晴らしかった。
LEDディスプレイの端から白いロープのようなものが登場して、そこをパペットが歩いて道のように見えてくる演出も面白かった。

次に今作の目玉の舞台美術であるパペットについて。
パペットは星太郎を具体的に表現していて、大きさは成人男性の脚の高さくらいまである。パペットの手と脚と頭にワイヤーのようなものが付けられていてそちらを引っ張ることで操作する。星太郎は半袖のTシャツと半ズボンを着ていて、現代風の少年である。目はキツネのように薄く細い印象があった。
まず、小沢道成さんがそのパペットを操作しながら演技をする、まるで人形劇のようなテクニックをやってのける素晴らしさがあった。本当に小沢さんとパペットが一つになって星太郎を演じているようにみえた。一方で、とあるシーンではパペットに話しかけるように小沢さんが台詞を言う場面があって、この時私は小沢さんの役は実は星太郎だけではなく、亡くなった彼の父親でもあるということに気付かされて唸った。たしかに、父親は星太郎の中で生き続けているのかもしれない。だから実は、小沢さんはパペットである星太郎を演じながら、それは星太郎に父親が生前に託した言葉でもあって、星太郎自身が父親の形見でもあるのかなとも思ってしまった。
それは、星太郎をパペットという人形で、しかも操作する小沢さん自身もステージ上に立って演技をする意味付けがなされるし、星太郎と父親を演劇的にシームレスに小沢さんが演じ分ける素晴らしさもあって単純に凄いと感心していた。

次に今作のもう一つの目玉の舞台美術であるLEDディスプレイについて。
チームラボのようなLEDディスプレイを使っての演劇作品は私は今まで一度もお目にかかっていないが、この演出を今まで試したことがある演出家っているのだろうか。もしいないのであれば、これは非常に演劇界という大きな括りで考えても画期的な舞台上演であると思う。そして、私はこのLEDディスプレイによる演劇が非常にポジティブな感覚で観劇することが出来た。最初は、LEDディスプレイによる映像があまりにもチームラボで体感するようなエンターテイメントで、非常に演劇とは程遠いものを感じて没入できるか心配だった。しかし、物語が進むにつれてその違和感はなくなって演劇として楽しめた。
その大きな要因は、脚本と映像演出のリンクが上手く行っていたからだと思う。映像であまり説明し過ぎてしまうと、それは演劇としての解釈の余地を奪ってしまう。しかし、LEDディスプレイに映し出す映像内容を具象的なものにするのではなく、星太郎の落書きだったり、心電図だったりとちょっと抽象的なもので留めておくことで、今進行中の脚本とのリンクに解釈の余地が生まれて面白く感じたのかなと思った。
あとは、劇後半のプラネタリウムのシーン。LEDディスプレイ全体に広がる星空に自由に星座を書き込んでいく遊び要素満載の演出も、演劇作品としては目新しい演出で面白かった。星座の魅力がそこには詰まっていて、観る人がそれをどう解釈するかで正解ってないよなと思ったり、そしてそれは「死」に対する捉え方のメタファーにも感じられて、その人がどういう人生を辿ったか、今の心境がどんな感じかによって捉え方って違うし、どれも間違いじゃないということを暗示しているような気がして感動した。

次に舞台照明について。
基本的にはLEDディスプレイからの明かりが中心だったのだが、天井には舞台照明も仕込まれていて、宇宙を表すダークブルーの色彩が堪らなく好きだった。
あとは、陽子が終盤で「はっ」といって暗転する感じがどこかアニメーションぽかった。こういった演出や映像演劇があって、今作はアニメーション映画を観ている感覚に近かったのかなと思った。

舞台音響について。
LEDディスプレイの映像演出と同じく、音楽も非常に煌びやかでエンターテイメント色が強かった。「EPOCH MAN」の音響はいつもオレノグラフィティさんだが、心が洗われるくらいに心地よい音響だった。

その他演出について。
序盤のシーンでは、4人の少年が登場して星空のことについての知識(光年の話やどうして月が誕生したかの話など)を、まるでノートに書かれた文章を読み上げるかの如く披露する。終盤の風船はなぜ空へ昇っていくのかの説明もそうなのだが、まるで博物館とか科学館に来たかのように、理科の授業を受けているような好奇心にかられる説明が沢山あって、理系出身である私にとっては好きな台詞と演出だった。子供にみせても勉強になりそうな内容も多かったので、そういう意味でも子供と一緒に観たい演劇でもあった。
あとはプラネタリウムのシーンで、みんなが自由に想像した星座がグルグル回転して煌びやかな音楽が流れる中で、陽子だけ黙って家出した星太郎を叱りつけるシーンがあるが、あのシーンを観て他の観客は一体どう感じたが気になる所である。陽子が放つ言葉にはかなり辛辣な内容が含まれていて、旦那を亡くした妻と残された息子の苦悩が色濃く感じられて心苦しかったが、プラネタリウムは明るく輝くし、周囲の人間たちはそんな陽子をそっちのけで楽しく遊んでいる。そしてその遊びには笑いの要素がある。私はこの心苦しい内容とコメディで明るい内容が共存した空間に辟易した。客席は一部笑っている観客もいた。このシーンが苦手だった観客もいるのではと思った。
でもこの若干カオスみたいな状況こそが、今作の伝えたいテーマなのかなとも思えた。他人事はあくまで他人事なので、その痛みや苦しみを知らない人間であれば、他人の不幸や苦しみを分かち合って真摯に向き合ってくれない。そして人によって物事の捉え方が違うので、残酷なようでもあるが、その価値観の違いに出会うことによって人は今まで見えてこなかったことに気付かされることもあるのかもしれない。そう感じてしっかり意味付けがあるなと思ったのですんなり私はこの演出を受け入れた。

写真引用元:ステージナタリー EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」より。(撮影:小岩井ハナ)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

「EPOCH MAN」初の5人芝居だったが、どの役者さんも個性豊かで皆違うキャラクター性を持っていて素晴らしかった。

まずは、宇佐美陽子役を演じた池谷のぶえさん。
序盤の宇宙が好きな旦那との馴れ初めと息子について語るモノローグで一気に引き込まれた。それまでは、若干作品自体に乗れていない自分がいたのだが、池谷さんのモノローグからまるで吸い込まれるかのように没入できた。それだけ、池谷さんのモノローグには魅力があって素晴らしさがあった。
あとは、星太郎が行方不明になって息子を探す姿がとても印象的だった。陽子は必死で捜索するのに、周囲の人間たちはどこか冷たく残酷に感じた。早乙女や鷲見でさえも、自分のことに精一杯だったり、どこか他人事と捉えている節があって、だからこそ陽子に対して同情してしまう部分があった。
また、星太郎という息子に対する今後への不安という感情も色濃く反映されていて、それがまた星太郎を苦しめているような気がしてもどかしかった。宇宙がとても好きな一般的にはちょっと変わった少年である星太郎は、劇中の描写から学校でも馴染めていなそうである。ましてやそこに大好きな父親を亡くしてしまったという大きなダメージもある。だからこそ、陽子としては星太郎を心配していてもっと普通の少年に育って欲しいという願いもあるような気がしていて、それが毒親になってしまわないかという懸念すらも感じさせているあたりが凄く心を揺さぶられたポイントだった。
池谷さんはそんな真っ直ぐで真面目な母親像としてはピッタリの役で素晴らしいと感じた。

次に、早乙女真珠役を演じた異儀田夏葉さん。異儀田さんは、劇団KAKUTAの『往転』(2020年2月)と『ひとよ』(2020年9月)、そしてiakuの『逢いにいくの、雨だけど』(2021年4月)で演技を拝見している。
今回の異儀田さんの役は、悪い人ではないのだけれど、どこか星太郎と陽子の親子関係の深刻さを軽視しているような女性の役。手術室前に来た星太郎に優しく死んだらどうなるかについて教えるも、身体は最後は焼かれて無くなると言ったりと、どこか無神経な部分があるように思えた。
しかし、そういうキャラクター設定には理由があって、早乙女自身が母親のことをそこまで好きではなく、親からの愛情みたいなものを星太郎と比べて強くなかったから、あまり人の気持ちに真摯に向き合えなかったのかと思った。
銀歯だけをずっと母親の形見のように持っていた早乙女だったが、その銀歯を失くしたことによって他にも母親を感じられるようになったという心境変化も面白かった。ずっと早乙女にとって母親は、ファッションにこだわる人というイメージしかなかったけれど、陽子や鷲見、平家といった人たちとの交流を深める中で、視野が広がっていったのかなと思って、そこは「死」に対する捉え方の変化だったのかなとも思えた。

次に、鷲見昇彦役を演じた渡邊りょうさん。
ずっと泣き崩れる演技と、その泣き崩れる対象が愛犬であるというオチに少し笑ってしまった(よくないと思いながら)。しかし、きっと大事な愛犬を失くした方が観ると、この鷲見に対して非常に感情移入するのではないかと思った。飼い主にとっては、愛犬の死は大切な人を亡くした時と同じくらいショックな出来事なのだろうと。こういった点でも、「死」に対する捉え方は人によって違うよなとも思えた。
最後には、時間が経って少しは愛犬の死を受け入れられたようにも思えた。愛犬の墓場(たしか)へいく頻度が週4になったと言っていたので。これも時間の経過だけでなく、様々な「死」の捉え方に触れられたからというのもあるのかもしれない。

平家織江役を演じたぎたろーさんはなかなか個性的で好きだった。
平家は非常にホヤホヤした感じで優しく人々に接してくる。最初年齢が分からなくて、結構若いけれどそういう喋り方の人なのかと思ったが、終盤になって亡くなってという描写があるので、きっとかなりの高齢者であったことを知ってまたイメージが変わった。
また、星太郎に優しく話しかけるあたりも彼にとっての駆け込み寺的な存在にプラネタリウムがなっていたということなので、そういう環境として機能していたあたりも平家の人間性が現れている気がした。
亡くなった時も、焼かれた骨を観ながらみんな大笑いしていたという描写が本当に興味深い。葬式って悲しいことだと思っていたけれど、こんな雰囲気の葬式もあるのかと凄く印象に残った。大切な人間を亡くした人にとって、この描写ほど衝撃的で気持ちを楽にしてくれるものはないのではないかと思った。

最後に、星太郎とパペットの操り役を演じていた小沢道成さん。
やはり小沢さんの声にはどこか迫力があって、耳を傾けてしまう魅力がある。久々に小沢さんの芝居が観られてよかったなと思う。
風船はどこへ向かうのか、それに対して科学的に星太郎が話すあの理路整然とした口調がなんとも心地よくて好きだった。そこで私は、それは星太郎というよりは星太郎に教えている父親の姿に見えた。これが非常に素敵だった。
また、パペットを丁寧に操りながら演技をする姿も凄く洗練されている感じがあって優雅に感じられた。今までやったことないことに挑戦することはとても難しいことだが、そこを高いレベルでやってのけてしまう凄さをこれでもかというくらい感じた。

写真引用元:ステージナタリー EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」より。(撮影:小岩井ハナ)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

今回の「EPOCH MAN」の作品は、演劇を全く観たことがない方にとっても、シアターゴーアにとっても楽しめる、万人ウケしやすい作品だと感じていて、そして今回はシアタートップスという小劇場での上演だったが、数百席規模の大劇場でも十分商業演劇として成立させることの出来る作品に感じられたので、商業公演としてもどんどん再演されていきそうな予感のする素晴らしい作品だった。
一番大きいのは、LEDディスプレイを使っての映像演劇という点がポイント。たしかにこのディスプレイを用意するのは一つハードルがありそうだが、スポンサーを上手くつけて制作できれば夢のあるプロジェクトが立ち上がりそうだと思う。民間企業がここに着目して、小劇場団体とタッグを組んで、商業公演として今作をもっと多くのお客さんに届けて欲しいと切実に願っている。
ここでは、私が今作を観劇して「死」について感じたことを述べた上で、今作全体の考察をしようと思う。

私も丁度10年前に家族を亡くした経験があって、今作を観劇しながら当時のことを色々と思い返していた。私はあまり死んだらどこに行くのかとか考えたことがなかったので、単純に死んだら遺体を焼かれて墓に埋葬するから墓の下にいるくらいの現実的なことしか考えていなかった。
家族を亡くした当時私は高校生、大学生だったので、やはりずっと一緒に暮らしてきた家族ともう会うことはないのかと考えると、非常に暗い気持ちになったし、もっと生前にこうしておけばといった後悔みたいなものもあって、非常に辛いものという認識でいた。
だからこそ、今作に登場する様々な「死」の捉え方ということに対して、私は随分と新鮮な気持ちにもなれた。たしかにずっと嫌いだった親族が亡くなった時がもしあれば、残酷ではあるがここまで暗い気持ちにはならないかもしれない。または人生大往生であれば、「死」を迎えるということに対しても平家みたいにもっと残された人々が明るく受け取れるのかもしれない。

今では葬式自体も多様化している。だからこそ、「死」に対する考え方捉え方も多様化しているのかもしれないなと思った。
私の遠い親戚が数年前に亡くなった時は、その遺体を火葬せずに海に散骨したという話を聞いた。故人の意向ということで実施された。自分のために火葬して墓地を買って墓参りやらお盆やらをしてといったことを、残された家族たちにさせるのは負担になってしまって申し訳ないと感じたからだと言う。なかなか凄い決断だなと思う。私の母はその海の散骨に立ち会ったそうだが、こういった葬式の形もありだなとポジティブな意味で捉えていた。
だからもしかしたら、私たちの多くは、人が亡くなるということをあまりにもネガティブなことと捉えすぎているのかもしれない。それは親しかった人を永遠に失うので辛い経験だとは思うが、今作のような様々な「死」に対する捉え方を観ているとそう思えた。そしてそのような考え方は、最愛の存在を亡くした人々にとっては気持ちを少し楽にするかもしれないと。

平家がプラネタリウムで、星々を線で結んで自由に星座を作っていたが、それと同じように私たちは日常をどのように解釈して良いかの自由がある。
自分にとって大切な存在の死だって、どう捉えて良いかの自由がある。その捉え方によってずっと自分が苦しめられる必要なんてない。そう考えると、死というものに対して向き合う気持ちが少し楽になるように思う。

人は死んだらどこへ向かうのか。
これだってどんな解釈をしたって良いんじゃないかと思う。もちろん現実的に考えれば、私が考えていたようにお骨となって墓の納骨場所にいるのかもしれない。しかし、魂は遺体が焼かれて灰となって煙として天に昇っていき星になって自分たちを見守っているのかもしれない。
はたまた、灰となって地上に降り注いで自分たちのすぐ近くにいるのかもしれない。地球に隕石が降り注いで、そこから飛び出た破片が月となって地球の近くを周回しているように、死んだ大切な存在は、自分たちの近くにずっと寄り添ってくれているのかもしれない。

この記事を書いているタイミングが丁度お盆休みだが、故人に想いを馳せる丁度夏の今の時期にぴったしの演劇だと思ったし、子供から大人まで幅広い人たちに観て欲しい夏のファンタジー演劇だった。

写真引用元:ステージナタリー EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」より。(撮影:小岩井ハナ)


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