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仕事のことばかり考えていたら、感性の根っこが腐った

生活のすべてを無印良品に委ねた

無印良品ばかりを買うようになったのは社会人になった頃だったろうか。

無印良品は、暮らす上で必要な日用品が揃っている。無印良品を選んでおけば間違いないから、必然的に身の周りのものが無印良品だらけになった。

無印良品の良いところは、これを買う理由がきちんと説明できるところだ。生活になじむ、値段が高すぎない(= 質に見合っている)、そこそこおしゃれ。つまり、東京で一人暮らしをする自分のような人間にとってちょうどよかった。

当時の自分は、仕事が第一優先で、生活は二の次。生活する上では、失敗をしたくない、ミスな選択をしたくない、ムダなことをしたくないと思っていた自分にとって、無印良品は「これを選べばいい」と提案してくれる素晴らしいブランドだった。

仕事に直結すること以外切り捨てた

そこで自分は、生活のすべてを無印良品に委ね、仕事に没頭した。

社会人になって5年目。自分のできるスキルは転職を経るごとにふえていった。やったことのないことができるようになり、できることが増えていくことは、単純にうれしかった。

すべて自社ブランドを運営する会社で働いていたので、納品しておしまいというわけにはいかない。仕事はやればやるほど出てくるし、一息ついたと思ったらすぐにタスクがやってくる。

そんな中、若い自分にできることは、仕事に取り組む時間を増やすことだけだった。寝る時間すらもったいないと思って、平気で2〜3時まで仕事をする生活が続いた。休日もSlackやメールを開いてしまう。いつも気が休まらず、自炊もせず外食続き(主にコンビニ)。どんどん生活に興味がなくなっていった。

そうなるとどうなるか。自分の仕事につながるようなこと以外意味がないと判断して、切り捨てていくようになった。友達との飲み会に行くなら、ひとりで食べて、仕事に戻ったほうがよくない? だらだらテレビを見る時間があったら、1ヶ月後に控えている大きな仕事の棚卸しをしたほうがよくない?と考えるようになった。

そして、行動範囲が狭くなり、休日も出歩かなくなった。知り合いにおすすめされたNetflixオリジナルの映画やドラマを一気見したり、Amazonで買った本を読んだりするが、いつどこで連絡が来るかもしれないから、ついスマホを開いてSlackを見てしまう。集中力の持つ時間はほんの少しだけ。常に気を張っていた。

当時の自分は、日記にこんなことをメモしていた。

今までやれてきたことの上澄みだけで食っているような、頭の数%ぐらいしか稼働していない深みがない人間になっている気がして焦りがある。締切日も一応守っているし、進行段階で特段何かヒリヒリするようなことはないんだけど。つねに不安で気疲れしている。記事を読むときも集中して読むことができない。

すぐ役立つようなことばかりしていて、好奇心が痩せ細っていく感覚。誰かに相談することもできず、どうしたらいいかよく分からない焦りを抱えたまま過ごしていた。「〜した方がいい」「〜しないといけない」という言葉ばかり言うようになり、いつの間にか自分は何がしたいのかよく分からなくなっていた。

名編集者はなぜ仕事ができるのか

話ががらりと変わるが、先月とある編集講座に参加した。授業終わりに毎回、次の1週間後が締め切りの宿題が出る。その宿題が、全然できないのだ。

編集者からのフィードバックのほとんどが「細かすぎる」。つまり、細かいところばかり見ていて、全体を通して宿題のレベルが低いということだった。言われるたび毎回耳が痛かった。

これまで自分が取り組んできた仕事は、課題を与えられてそれをどうやって対応するかが問われていた。だからそれをやりきるための方法だけを考えればよかった。だけど今回の宿題は、課題の設定から自分で考えそれに対する方法まで考えるというもの。これまでの自分のやり方が通じず、どこから手をつけたらいいかさっぱりわからなかった。

授業を受けながら、これまでの自分は日常生活での感情の揺れ動き(喜怒哀楽)や無意識の行動に「なんで?」と考えてこなかったからなのではないかと考えた。

その編集者は、それが習慣になっている。自分の感情に素直になり、それが納得できるまで調べている。だから自分の中に「こうしたらいいのでは?」という仮説が貯まり、大きな企画が生まれる土壌がつくられる。

最後の授業を受けたとき、これまでのもやもやがサッと晴れた気がした。自分は今の仕事に「意味があるかどうか」に縛られていたのだ。

意味があるかどうかで選ぶとつまらなくなる

これまで仕事で意味があることばかりやろうとしてきて、生活を疎かにしすぎた。そういえば大学時代のゼミの友人が言っていたことの真意が当時はわからなかった。「人生って別に仕事だけじゃなくない?もっとプライベートも大事にした方がいいよ」と。生活と仕事はキッパリ分けることはできず、グラデーションのように濃度の差はあれどつながっている。

そういえば思い当たる節がある。

「なんとなくこれがいいかも」と自分で選んだことがほとんどない(誰かのお墨付きばかり)、1回良いと思ったらなぜこれがいいのかをきちんと考えないままに選んでいた。

ていうか、そういうのを考える時間なんて必要ないと思っていたし、ご飯を食べる時間や寝る時間すら極力割きたくないと思っていた。使えない人間だと思われることが本当に嫌で、周りと自分をずっと比べていた。だから、生活をしている時間が正直もったいなかった。

編集の授業を受けて、やっと実感した。仕事最優先で生活を疎かにしたままだと、仕事は頭打ちになるし、つまらない人間になる。

「意味があるかどうか」考えること自体意味がなかった

これまで凝り固まっていた「意味があるかどうか」から入る考え方を根本から変えないといけない。意味があるかどうかで選ぶのではなく、まずはやってみようとする意志や日々を楽しむ余裕があるといい。

編集者は、クリエイターに対してフィードバックをしなければいけない。そのとき、自分の感覚が分からないまま相手に向き合うことはできない。自分なりの判断基準(ここは流れがおかしい、ここは違和感がある、など)があるからこそ、相手への指摘に自信を持つことができるし、作家に全力で向き合うことができる。それができていなかったということはつまり、自分の感性の根っこは腐っていたのだ。

無印良品を選ぶ生活から抜け出したい

仕事ばかりにかまけて、生活のすべてを無印良品に委ねていた。これからは、無印良品ばかりを選ぶ生活から抜け出そうと思う。

外に歩きにいこう。
気になったことは聞いてみよう。
いろんなブランドを探しにいこう。
新しいことに挑戦してみよう。
新しい場所に引っ越してみよう。

気を抜くとすぐに好奇心はなくなってしまうから、自分の感情にできるだけ素直に。生きる楽しさまで効率化してはいけない。

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この記事を書ききるにあたって考えたことを、新たにnoteにまとめてみました。よければ、合わせてご覧ください。


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平野太一
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