恋に生きた君は知る【20話】
——歌が聞こえた。
美しいのに不安を煽るような奇妙な旋律で、それが人間の声ではないことに気付くと同時。
意識を失っていたことを自覚する。
ぼんやりとした頭で思い出せるのはお茶会を無事に終わらせたことと、それから寮の自室に戻ったこと。
頭から背に掛けて撫でられる感覚が心地よく、1度は開いた目を閉じながら歌声の主であろうクレアクリスの名を呼ぼうとしたエルメリアだったが。
「にゃあおん」
——猫の声だ。
どうやら猫の姿に変身させられているらしい。
再び目を開け、周囲をよくよく確認する。
猫の手。膝の上。
普段とは異なる高さの視界。
「ああ、起きちまったのか」
「なう」
「側で歌ってたら当然だって? そうでもないだろ。俺たちの歌を聞いた人間は大抵眠っちまうんだから」
指に絡めるように尻尾を触られ、思わず叩けば素直に戻ってきた手はそのまま眠ってしまえとでも言うかのように優しくエルメリアの背を撫で続ける。
しかし、残念なことに彼女の頭はもうスッカリ冴えてしまっていた。
(どうすれば迷惑を掛けずに死ねるかしら)
「理性でそれを望むなよ」
(だって、出会ってしまったのよ)
「出会っただけだろう」
(私と“彼女”どっちを選んだ方が幸せになれるかなんて分かりきってるじゃない)
「分からねーよ。それはユースの奴が決めることだ」
突き放すような言葉とは裏腹にクレアクリスの声音は柔らかく同情的だった。
心に刺さった棘を1つ1つ丁寧に抜かれていくようで、痛みは消えないまでも少しずつ落ち着いてくる。
(……そう、ユスツィート様にしか決められない。“彼女”と、イルゼ嬢と恋に落ちるかはまだ分からない)
それでも、どうしても、不安になる。
婚約を受け入れなければ。指輪を受け取らなければ。意地を張り通してさえいれば。
ユスツィートを悩ませずに済んだのではないか。
クレアクリスの膝の上から抜け出したエルメリアはそのままベッドの隅に移動して体を丸め直した。
(時間をちょうだいクレアクリス)
「……勝手に死ぬなよ」
(分かってる。ただ、しばらく休みたいだけ)
今世を逃せば次に生まれ変わる時にも記憶が引き継がれてしまう。
だから、結婚して子を成すまでは死ぬ訳にもいかない。
関係の解消を望むこともできない。
エルメリアはそれから1週間ほど自室に引き篭もった。
平日の授業はクレアクリスが代わりに受けたため周囲に知られることのないまま。
さすがにこれ以上は、と思えるまでに気力が回復したのはお茶会の日から数えて8日目の午後のこと。
気分を変えるために外へと出た彼女は学園の敷地内を一通り歩き回った後、図書館の裏手——いつも利用している席からもっとも近い窓の下に辿り着くと、そこで足を止めた。
猫の姿を取っているので普段通りとはいかないまでも、慣れ親しんだ景色を眺めながら思う。
——私は結局、“誰”なのか。
侯爵家の女主人?
魔女と呼ばれた大罪人?
どちらでもない伯爵家の少女?
恋に破れて過ちを犯した女主人は床に就き、命を弄んだ大罪人は炎に焼かれて、新たに生まれた少女の自我は鮮烈過ぎた“過去”の記憶にすり潰された。
全てが混ざり合って、ぐちゃぐちゃで、シェシュティオのように切り離して考えることなどできない。
だけど、“彼女”を知っているのは150年前の“私”。
過ちを繰り返すことを恐れているのは50年前の“私”。
なら、今の私は?
(……叶うなら、幸せになりたい。そう思わせてくれたユスツィート様と共に)
あなたを幸せにしたいのだと、そのためにはどうすればいいかと尋ねた時、今が幸せ過ぎて他が思い付かないと答えた彼を思い出す。
指輪を受け取った時の彼の笑顔を思い出す。
(私の選択が過ちに変わるならその時は子供を産むだけ産んで命を絶てばいい)
例えどのような結末を迎えようともユスツィートに望まれた瞬間があったという事実だけは覆らないのだから。
エルメリアは心の内でクレアクリスに呼び掛けた。
互いの意識を結び合わせて頼みたいことができた旨を伝える。
(あなた、前に本気で別れたいなら自分に頼れば良かったって言ってたわよね)
(……あ? 何の話だ?)
(ユスツィート様が私以外の誰かを愛したらその時は教えてちょうだい)
(待て待て待て)
(結婚はする。子供も産む。そこまでやれば後は自由でしょ?)
(俺に死神の真似事をさせようってか?)
(あなたが居てくれて助かったわ)
(ふざけろよ。俺の気分は最低最悪だ)
クレアクリスの顰めっ面が目に浮かぶようでエルメリアは思わず笑ってしまった。
(ごめんなさい。でも、もうこれ以上ユスツィート様を疑いながら過ごすのは嫌なのよ)
(……ちっ!)
ユスツィート本人に尋ねても嘘を吐かれている可能性が残るもののクレアクリスが相手なら秘術で真実を語らせられる。
その安心感が今のエルメリアには必要だった。
(後悔するなよ)
(大丈夫よ。もう十分過ぎるくらいの幸福を私は手にしているもの)
死してなお忘却することを許されないという絶望感と共に生まれ落ちた瞬間より人並みの不幸こそを望み続けた。
そんな女に婚約指輪を贈ってくれた男がいた。
彼を傷付け、不幸に落とすとしたらそれこそがエルメリアの犯す“最後の罪”となるだろう。
後悔はしない。
ただほんの少し申し訳なく思うだけ。
——程なくして「ユスツィートとイルゼ嬢は互いに想いを寄せ合っている」という噂が流れ始め「指輪が贈られたのはナディア殿下の配慮だった」という説が信じられるようになったが、エルメリアの様子は終始落ち着いたものだった。