恋に生きた君は知る【34話】
——50年前。
世話になっている古代精霊の頼みとあって、渋々ながらもヨハネスの召喚に応じ、エルメリアと契約を結ぶことになったクレアクリスは想像していたよりもはるかに退屈な日々にうんざりしていた。
望まない侵略戦争の真っ只中なんて私欲を抱いている暇のなさそうな状況で、まともに腹を満たすことができるとは考えてすらいなかったとはいえ。
右を見ても左を見ても、自らの死、あるいは終戦を願う奴らばかり。
即死級のダメージすら完治させるほどの神聖魔法をもってしても“ダメージを受けた”という事実まではなくすことができないので、文字通り死ぬほどの痛みを受けても死ねず、痛みと回復とを繰り返すことになる。
戦場というだけで精神を病みやすいのに、死霊よろしく延々と戦い続けねばならないのだから、正気を保てている人間の方が可笑しいのだ。
狂気に陥った人間がいくら増えようと構わなかったが、自殺願望というのは、例えるなら腐ったゲロのようなもので食えなくはないが率先して食いたいようなものでもない。
愚者が抱く身の程を弁えない欲求こそがクレアクリスの求める“食事”であって、奪えば廃人と化すような生存本能に直結してる感情には興味がなかった。
卵を産ませるために鶏を飼うのと同じ話。
本能は骨で、感情は肉。
肉を得ることで腹は満たせても後が続かなければ意味がない。
卵を産む気力すらもないほどに痩せ細った鶏が美味い訳もない。
そういった意味ではエルメリアは本当に最低で最悪だった。
1人きりの時間にぼんやりと死を望む程度で、感情の起伏はほとんどなく。
泣くのも、笑うのも、相手が求めているであろう反応を返しているだけ。
尊厳を踏み躙られて従順な奴隷と化したという話だったが、恐怖に屈している訳でもなければ、保身のために媚びを売る訳でもないときて。
ただヨハネスに危害が及ぶことを避けるために逆らわないでいる操り人形なんて、目に写す価値すらないゴミも同然だ。
ティミーは念願のオモチャを手に入れたかのような喜びようだったが、クレアクリスには理解できそうもなかった。
「そんな女の何が良いのかねぇ」
思わず口から漏れた言葉を拾ったヨハネスに睨まれる。
彼に向けたものではなかったが、まあ構わないだろう。
思考を読んで既に知っていることとはいえ、愛と呼ぶには誠実過ぎる感情をどのように言い表すつもりでいるのかには興味があった。
素直に本心を語るのか。
それとも誤魔化すのか。
先日、制圧したばかりの城の一室で体を休めていたヨハネスは隣で眠るエルメリアに起きる様子がないことを確認してから口を開いた。
「お前が理解する必要はない」
「おいおいおい、寂しいことを言うなよ」
「思考を読んだ上で共感できないなら言葉を尽くしたところで無意味だろう」
それはそうだが。
エルメリアが起きてしまうかもしれないので黙っていろ、なんて。
ぞんざいに扱われたクレアクリスはムッとする。
「起きねぇよ。起きる訳がねぇ」
アロイス王に従属の印を刻まれたエルメリアは、毎夜異なる男の元を訪ねて娼婦の真似事をするよう命じられており、クレアクリスが代わりを務めた際には記憶の改竄を行なうことになっていた。
事実がどうであれ本人が記憶を有しているならば問題ないという魔法式の穴を突く形で、命令違反の罰則を回避するためには必要な措置だったが、改竄の直後はしばらく意識が戻らない。
1度や2度のことならまだしも、2桁を超えるほどとなれば脳への負荷も計り知れず、目を覚ますまでに掛かる時間も延びに延びて今や数時間は堅いと言い切れるほど。
そして、昨日はクレアクリスが代わりを務めた日だった。
「手遅れなんだよ」
「だったら何だ」
「何って、」
「彼女の献身に応えない理由にはなり得ないだろう」
バカか。
伝わらない感情に何の意味がある。
エルメリアの献身に報いたところで彼女はそれを認識しない。
いや、できないと言った方が正しいか。
「献身も何も、その女が作り出してるのは地獄じゃねーか」
「視野の狭い意見だな」
「はあ?」
今、戦場に送り出された兵からすればエルメリアの存在は悪魔にも等しいことをヨハネスは否定しない。
しかし、戦線が崩壊すれば一転して蹂躙されるのはこちら側だ。
非道な侵略戦争に手を出した国の人間がまともな扱いを受けられる訳もない。
自国の民を思えば負けられなかった。
明日にでも帰還の命が下されるよう祈りながらも戦い続けるのは、守るべきものがあるからだった。
「援軍の要請を出さずに済んでいるのもエルメリアが居てこそのことだ」
「そこまで考えてねーぞ」
「お前が理解できていないだけさ」
ヨハネスの言い分にクレアクリスは眉をひそめた。
寝ても覚めても愛した男のことばかりで、周囲への関心なんて露程も存在していないことを白髪の精霊は事実として知っているのだ。
エルメリアを神聖視するのは勝手だが理解者のような顔をして他者を見下す理由に使うのは如何なものか。
その時に感じた思いが変わることはないと本気で信じていた。
エルメリアが魔女として処刑される瞬間までは——。
ヨハネスに指摘された通り理解できていなかったのだ。
戦線を維持するだけなら兵を1人も死なせないなんて無茶を叶える必要はない。
既に戦場にいる者を必要な犠牲と切り捨てながらも、援軍という名の被害者を増やさぬように。
愛した男のためと言うには過剰な戦果が誰のために残されたものだったのか。
ヨハネス以外には理解されず、不当な扱いを受け続け、名誉を回復する機会さえもを失った彼女がこの世を去る間際に浮かべた表情はどこまでも晴れやで達成感に満ちたものだった。
その胸に溢れた喜び以上に美しい感情をクレアクリスは知り得ない。
枯れた果てた大地にも花は咲くのだと知らせるように。
穏やかに、けれど力強く。
輝きを放って死んだ女に彼は心を奪われたのだ。
魔女の護衛官ということで処刑に立ち会えなかったヨハネスに彼女の死に様を報告した際「後悔しているのか」と、尋ねられたがすぐには答えられなかった。
していると言えばしているし、していないと言えばしていない。
ただ、来世では愛した男と共に平穏な生活を送れるよう願っている自分がいることだけは否定できそうもなかった。