恋に生きた君は知る【7話】
ユスツィートの元を離れ、人気のない裏庭へと移動したエルメリアはイベリスの花で彩られたベンチの前まで来ると眉間にシワを寄せた。
休憩所として用意された場所の1つではあるが会場の賑わいが届かない程度には離れているここなら誰かに見られる心配はない。
だから、振り返ることにも躊躇いはなかった。
「“わたくし”に何か御用かしら」
エルメリアの後を追いかけてきた相手——シェシュティオ・フェリンベルは争う気がないことを示すように両手を挙げてみせた。
罰の悪そうな表情を浮かべているところが如何にも“彼”らしく思わず目を細める。
「尋ねたいことがあって来たんだが」
「尋ねる? “あなた”が“わたくし”に? いったい何を尋ねることがあるというの」
「悪いが俺は記憶を引き継いでるだけの別人だ」
キッパリと告げられた言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
どうやらエルメリアとは違い“過去”のそれとは異なる人格を有していると言いたいらしい。
分からない話ではなかった。
仮に詭弁だったとしてもそういうことにしておいた方が落ち着いて話ができると考えた結果なら、それは正しい。
「……つまり“過去の行い”を自分の身に起きたこととは考えていないと?」
「ああ。残念ながらたまに夢に見る程度だ」
「だったらなおのこと“わたくし”に用なんてないでしょう」
「それがあるからこうして話を持ち掛けに来ている」
エルメリアは眉間のシワを深くした。
いったいどんな用があるというのか。
シェシュティオは話を続ける。
「前世の記憶が失われていないことに疑問を覚えたことはないのか」
「……何か理由があるとでも?」
「ある」
即答。
何を根拠に、とも思うが「詳しい話は長くなり過ぎる」と言われては日を改める他ない。
人に見られる心配はないと言っても“2人揃って会場にいない”という事実だけは覆せないのだ。
待ち合わせの場所と日時、それから移動する先はエルメリアが指定するという必要最低限の確認を終えたら今日のところは解散だ。
シェシュティオは踵を返す——が、一拍置いて顔だけを振り返らせた。
「“君”の不幸を願ったことは1度もない。だから、そんなに怯えないでくれ」
「っ! 誰が“あなた”なんかに怯えるものですか!!」
思わず叫び返したエルメリアに対し、まるで「その調子だ」とでも言うかのような微笑みを残すと今度こそ去っていく。
その背が完全に見えなくなるまでは睨みを利かせていたものの、辺りが静けさに包まれて数秒。
膝から崩れ落ちた彼女は顔を覆って俯いた。
涙は、流さない。
「……もうこれ以上好きでいたくないっ!」
けれど、口を突いて出た声の震えだけは隠せなかった。
その事実にどうしようもない惨めさを覚える。
好きでいたくない。
忘れられるものなら忘れたい。
なのに“彼”が好きで堪らないのだと語る自分を消し去れない。
微笑み1つで震えるほどの喜びを感じている自分のどうしようもなさが汚らわしくて仕方ない。
「忘れ、たいのに……っ!」
忘れたくないと願う心も本物なのだ。
好き。好き。好き。
“私”は“彼”が好き。
湧き上がる感情に思考が塗り潰されて何も考えられなくなる。
ああ、どうすれば“あなた”は“私”を愛してくれたのでしょうか——。
エルメリアは不意に手を下ろすと意味をなさない音を吐き出しては喉に爪を立て、笑った。
「ふふ、あはは……ああ、ぁ、ははは……!」
求める答えを手にしたところで過去は過去のまま。
死んだって救われない。
生きたって報われない。
だからこそ“彼”を慕い続ける他にない。
魔女と呼ばれた“女”の嘆きでもなく。
嫉妬に狂った“女”の怒りでもなく。
カビの生えたパンのような恋心だけが——。
エルメリアという“人間”の支柱なのだ。
太陽に照らされて輝く大地を覆い隠すように手をつき、魔力を込める。
そして。
「《術式展開:精霊招来》」
詠唱と呼ぶには短く、けれど確かな指向性を持った言葉が手のひらに込めた魔力を紡ぎ上げて陣を描いた。
薄灰色の光が視界を覆う。
「おいおいおい、相変わらず最悪のタイミングで呼び出してくれるじゃねーの」
食事中だったらしい。
光の中から現れた白髪の美丈夫は一糸纏わぬ姿で不満を漏らした。
しかし、エルメリアは彼の言動の一切を意に返さず淡々と口を開く。
「クレアクリス」
「あん?」
「私を1人にして」
クレアクリスと呼ばれた美丈夫は彼女の前まで来るとしゃがみ込み、顎を掴んで顔を上げさせた。
ニヤリ、と獰猛な笑みを覗かせる。
「ひでぇツラだな」
「……自覚があるからあなたを呼んだんでしょう」
「へいへいへい。ゴシュジンサマのご命令通りに」
言うなり、エルメリアの容貌を写し取った。
——変幻自在のスリーピースウィーピー。
相手の望む姿を取り惑わせることを本懐とする精霊であり、50年前からの付き合い——つまり、エルメリアが前世の記憶を保持していることを知る例外的な存在の1人とも言える。
人が抱く欲という欲を食い物とする彼にとって、その吐口とされていた“エルメリア”の立場はまさに恰好の餌場だったのだ。
本来ならば50年前に切れているはずの契約が今もなお生きているのは、召喚者をヨハネスとし、彼の願いを聞き届ける形で“エルメリア”を主人とした、その内容の特異性故のほとんど事故のようなものである。
パチン、と彼が指を鳴らせばエルメリアの身体は猫のそれへと変化する。
精霊と主従関係を結んだ者の特権で能力を借り受けたのだ。
地面に落ちた服や飾りを魔法で拾い上げたクレアクリスはそれらを纏って本物になり変わる。
「……あー、そういえばアナタを匿ってくれる相手はここにはいないのよね。平気かしら」
「にゃー」
「そう。それなら後のことは私に任せてゆっくり休むといいわ」
「なぅ、なぅ」
「ええ勿論。分かっているから安心してちょうだい」
その気になれば視界と思考を共有することも可能なためしつこく言い含めるようなことはしなかった。
エルメリアは笑顔で会場に向かうクレアクリスを見送って、ため息を吐き出す。
今はとにかく何もかもを忘れて眠りたかった。