恋に生きた君は知る【31話】
エルメリアの耳に届いていたら恥ずかしさのあまり手元を狂わせていただろう。
キッカリ1分でイルゼに施された式を封じた彼女は、しかしユスツィートの発言には反応を示さず、ただ顔色を悪くさせる。
「っ、ティミー! あなた……!」
「ああ。全てが徒労に終わることに気付いたか?」
「ふざけないで!!」
ティミーに命じても無駄なように。
イルゼを止めたところで呪いの効果は持続する。
被害者が増えぬよう、押し留めることは叶ってもこの場から逃れるすべは残されていなかった。
仮に切り抜けられても、どちらか一方が倒れるまで不毛な追いかけっこを続けるハメになる。
「ふざけてはいないさ。言っただろう。お前だけは絶対に地獄に落とすって」
エルメリアの才覚を認めているからこそ。
ティミーは入念な下準備を怠らなかった。
そうまでさせた自らの非才さを、せいぜい恨むがいい。
「イルゼと顔を合わせた時点で大人しく身を引いておけばよかったものを。幸せになろうとなんてするからいけないんだよ」
「口を慎めと言ったことをもう忘れたのか?」
ユスツィートにしては珍しく地に這うような低い声だったが、ティミーは意に返さず、鼻で笑い飛ばした。
秘術さえなければ従う道理すらないことこそを忘れないで欲しい。
エルメリアは唇を噛み締める。
今、何を優先すべきか。
ティミーを放置したままでは動けない。
これ以上事態を悪化させる訳にもいかないし、姿を眩ませることがないよう見張っておく必要がある。
そして、早急にこの場から離れなければ。
氷を維持しているユスツィートの身がもたない。
(ティミーの拘束は秘術を使うとして、ここから離れるには? クレアクリスを呼ぶ?)
50年前の“エルメリア”なら問答無用で全ての企みを無に返せたのに!
疎ましかったはずの神聖力が今は恋しい。
焦りから冷静さを欠き始めたエルメリアを宥めたのは、つい今し方思い浮かべたばかりの精霊の声で。
「お呼びとあらば来ない訳にもいかないよなぁ?」
“道”が開く。
空間の裂け目から現れたのは、白髪の美丈夫と老紳士。
「ヨハネス!」
エルメリアは反射的に名を呼んだ。
昔の癖で敬称を付け忘れたことにも気付かないまま、ヨハネスが浮かべた笑みを見て安堵する。
彼が来たならもう大丈夫だ、と。
何か根拠がある訳でもなかったが。
思わぬ祖父の登場にユスツィートは複雑そうな表情を浮かべ、ティミーはティミーで鬼の形相となる。
「クレアクリスッ! お前、私を裏切るつもりかい!?」
どうやら面識があったらしい。
——と、いうかリブラントを恨み続けている精霊の存在に覚えがあったのはティミーのことを知っていたからだ。
クレアクリスは不本意そうな口調で答える。
「裏切るも何もヨハネスの召喚に応じるよう俺に言い付けたのはアンタだろう」
「その目的を忘れたのかって言ってるんだよ!」
「覚えてるさ。だけど召喚に応じて対価を受け取った以上、召喚者の願いも叶えなきゃならねぇ。それが道理ってもんだ」
建前である。
好き好んで裏切った訳でもなければ、人間で言うところの親であり、兄弟でもあり、師匠でもあるような相手と仲を違えることを望んでなんていなかった。
ただ浅からぬ情があればこそ。
執拗にエルメリアを貶めんとするその醜悪さに耐えられなくなった彼が1度姿を消したのは、エルメリアとユスツィートだけでは手に負えなかった場合に備えてヨハネスを呼び寄せるため。
人の欲こそを糧として生きるクレアクリスにとって、ティミーの醜悪さはけして忌避するようなものではなかったけれど。
数多くの命を繋ぎ止めながら、故にこそ魔女と呼ばれた女が最期に抱いた願い。
——愛する男の幸福や死後の安寧でもなく、自身の死を望む民の平穏こそを願った女に与えられる報酬が未来永劫の苦しみであっていいものとは思えなかったから。
それを当たり前のこととして、覚えてすらいないような馬鹿な女とくればなおさらだ。
普段は友人に『恋愛脳のお嬢様』と称されるほど脳内お花畑ちゃんのクセに。
断頭台に上がった彼女の胸には戦争が終結したことへの喜びしかなかったである。
もういいと、思うしかないじゃないか。
「お前がそんな律儀なヤツだったとは。今初めて知ったよ」
軽口を挟んだヨハネスはクレアクリスに「うるせぇ!」と叫び返されながら一歩前に出た。
おおよその事情は把握している。
せっかくの見せ場を奪うようで忍びなくはあったが、通常の魔法式では解けない呪いの解呪となると神聖力を用いる必要があり、素養のないユスツィートには絶対に不可能なことだった。
「さて。ユースの努力を無駄にする訳にもいかないからな。いらぬ世話とは考えず、一役買わせてもらうとしよう」
「させるものかっ!」
「《大人しくしていろ!》」
攻撃を仕掛けようとしたティミーをユスツィートが秘術で止める。
孫の気遣いをありがたく受け取って、ヨハネスは展開した式に詠唱を添えた。
「其は彼方にあっても絶えず。褪せることなく。幾多の夜と朝とを巡りて誓いは加護へ。加護は証へ。我が身に注がれし愛をもって御心を示さん」
掲げた手の平の上に光の玉が浮かび上がる。
清廉なる輝きを放つそれは、慈悲深くも容赦なく人を癒す神聖力の塊。
一介の聖職者はもちろんのこと。
素養に恵まれたイルゼでさえ使用できないだろう。
「“代理執行:悪の尽くに滅びを告げよ”」
高濃度かつ高純度の神聖力を要する代わりに、秘術を除いた他全ての現象を無効化し、対象を完全な状態へと引き戻す対悪粛清魔法。
神聖の領域の頂に辿り着いた者のみが扱えるとされる奥義を紡ぎ上げたヨハネスは、光が解け、辺りに満ちる様を見詰めながら目を細めた。
……これでよかったのか。
答えは分かり切っている。
これでよかったのだ。
ほんの一瞬、胸を過ぎった後悔がエゴでしかないことは、安心し切った表情を浮かべているエルメリアの表情を見れば明らかだった。