恋に生きた君は知る【26話】
ユスツィートの愛をエルメリアは否定できなかった。
愛されている自覚が彼女にはあったし、彼の“愛する者”がエルメリアなら求められる相手もまたエルメリアとなる。
その指摘に間違いはない。
当然のように自身を対象から外していた彼女は「そうだけどそうじゃない!」と叫び出したい気持ちでいたが、後に続く言葉を思えば口に出す訳にもいかず、結局両の手で顔を覆って俯くに留まる。
そうだけどそうじゃないんだけど、その通りとしか言いようがないなんて。
エルメリアの考えていることを薄々察しているユスツィートは口元に微笑みを残したまま彼女の手に自身の手を添えた。
「僕のエリー。愛しのエルメリア」
「か、勘弁してください……っ!」
「そうしてあげたいのは山々なんだけど今だからこそ聞いて欲しい話があって」
無理強いにならない程度に軽く力を込めて顔を覆うのを止めさせる。
眉を下げて頼りなさげな顔をしているエルメリアと額を合わせ、ユスツィートはゆっくりと口を開いた。
「僕は君を幸せにする。これは誓いだ。君に捧げ、僕自身の魂を賭けた。絶対的な誓いだ」
「そのような誓い——」
「例え必要がなくとも僕はもう心を決めている」
クレアクリスから婚約解消の条件を聞かされた時のことを思い出したエルメリアは反論を呑み込んだ。
——今日この場の熱に浮かされた訳ではなく。
きっと、昔から。ユスツィートが抱き続けてきた思いなのだろう。
彼の誓いに誠意をもって応えるならば、その思いを受け止める以外に選択肢はない気がした。
「どうか忘れないで欲しい。僕は君を愛している」
「……もちろんです」
重なり合ったままの手に力が入る。
ほんの僅かな迷いを滲ませながら、エルメリアは目を閉じた。
不安と恐怖を押し殺す。
けして口にしてならない秘密を打ち明けるかのような静けさで。
「ユスツィート様、私もあなたを愛しています」
後から振り返ってみれば、まるでこの後に起こることを予期していたかのような宣誓だった。
イルゼという存在の影響力を彼はよく理解していたのだろう。
元より疎まれているエルメリアを侯爵家に迎え入れることへの不満は、ヨハネスたっての希望ということで表に出されることがなかっただけ。
絶妙なバランスで保たれていた拮抗を突き崩すのに大掛かりな仕掛けは必要ない。
——学園で噂が流れ出した時と同じ。
ユスツィートとイルゼの仲を囁く声があれば、それは途端に広まった。
よりタチが悪いのは教会の人間が手を貸していること。
暇さえあれば2人を引き合わせ、如何にお似合いであるかを口々に語るのだ。
気が滅入るなんてものではない。
噂を聞き付けた民衆からの問い合わせには当たり障りのない言葉を返しているようではあるが——物心が付く頃より学園の寮に入るまで、ほとんど毎日教会に通っていたエルメリアの“悪性”を正せなかっただなんて、それそこ権威に傷を付けかねない話を認める訳にもいかないというだけで——過去の二の舞になるのではないかと不安を募らせている者も多いことを理由に婚約の儀の延期まで申し入れてくる始末。
ラディフマの街に不慣れなイルゼを案内させるため、エルメリアを迎えに来たユスツィートに嘘の情報が伝えられた時にはさすがに抗議文を送らせてもらったものの、ヨハネスが側にいなければエルメリアの心は早々に折れていたに違いない。
他の誰に祝われずとも彼だけは喜んでくれるという、その事実だけが支えだった。
「お前にしては珍しい失態だな、ユスツィート」
「申し訳ありません」
「構わん。だが、私が手を貸してやれる時間はそう長くない。対策は自分で立てるように」
今後の方針について話し合うべくユスツィートたちを執務室に呼び出したラルシオはため息を吐き出しながらそう言った。
教会からの申し入れについては突き返してくれたようだが、状況が悪化するようなら延期も視野に入れざるを得ないといったところだろう。
「しかし、実際のところどうなのです?」
ラルシオの隣に控えていたノエラがユスツィートに尋ねる。
「……どう、とは?」
「今ならばまだ間に合うでしょう」
「母上」
ユスツィートは顔をしかめたがノエラは意に返さない。
エルメリアも同席しているというのに、その事実を忘れてしまったかのように配慮のない言葉を続ける。
「領民のためでもなければ我が家の繁栄のためでもない。魔女のための婚約が白紙に戻されることを喜ぶ者はいても責める者はいません。誰にも祝われることのない婚姻なんて本来結ぶべきではないのですから」
「それ以上の言葉はお控えください。今はまだ正式な関係ではないとしてもエルメリアは私の婚約者です」
「心変わりはないと?」
「ありません」
ユスツィートは言い切った。
そこまでにしておきなさい、とラルシオも止めに入る。
ノエラは大人しく引き下がったものの前言の撤回まではしなかった。
母親として息子の幸福を願っているのはもちろんのこと——。
立場的な問題で距離を置く他なかったヨハネスの代わりにエルメリアの面倒を見てきた者として、ユスツィートに心変わりがあったならすぐにでも取り止めるべきだと考えていたからだ。
誰1人として報われない婚姻を支持することはできない。
「……ひとまず、領民の不安を治めるのにはエルメリアの人となりを知ってもらうのが1番かと。派手な演出は避けつつ、婚約の儀の前後に姿を見せる時間を作るのはどうかと考えていますが、いかがでしょうか?」
「悪くはないな」
話を戻したユスツィートに合わせ、予定の調整を進めていく間も難しい顔をしたまま。
他によい相手が現れたのであれば、という思いを捨て切れていない様子を見せる。
民衆が抱いている感情を思えばノエラの発言はまだマシなもので、事実を述べただけとも言えるのだから仕方ない。
一通りの打ち合わせを終えた後——。
自室に引き上げたエルメリアはクレアクリスを呼び出して尋ねた。
「ユスツィート様のお心に変わりがないというのは本当のことかしら」
不安ではなく迷いから。
故に秘術は用いない。
「本当だよ。何を今更のように悩んでんだ」
「分かっていても苦しいものは苦しいじゃない」
「覚悟の上だろ」
「それはそうかもしれないけど……」
窓辺に寄り、内と外とを隔てているガラスに額を預ける。
ヨハネス以外の誰にも祝われることがないという現実に耐えられない訳ではない。
ユスツィートの心が他の娘に奪われたとしても、成すべきを為してから死ぬだけだ。
構わない。
問題は、無事に婚約を交わし終えた後。
——与えられた厚意に対し返せるものがあまりにも少ないということ。
「側に控えているだけ、なんてそれこそ周囲が許さないでしょう」
どうすればユスツィートを幸せにできるのか。
エルメリアはいまだに答えを出せないでいる。